vol.48「相撲」について


相撲って、日本の国技と言われる伝統文化ですけど、正直その歴史とか意味とか起源とか知りませんよね。剣道とか柔道なんかは高校の「武道」って科目で無理矢理やらされましたが、相撲ってものに触れる機会あんまなかったですよね。あったとしても町内会とかの「こども相撲大会」とかくらいで、当然そんなの好き好んで参加するわけもなく。


ゆえに、相撲について誰にかに何かを教えられた経験いっさい無し。ゆえに、よくよく考えたらすっごく謎な競技であります。一体、誰が何の目的で始めて今に至るんですかね? だいたい「剣の道」や「柔の道」は意味分かるけど「相の撲」って何なわけ? 


ああ、いかん。子供がかかる「なぜなぜ病」を発症したので「うるさい自分で調べなさいの薬」を自分に処方しますね。ほんとネット時代って便利ですわぁ。



⚫︎ 相撲の起源

なんか最初は『古事記』に書かれた神様VS神様の対戦がルーツのようで。「建御雷神(タケミカヅチ)」と「建御名方神(タケミナカタ)」が争い、建御雷神の腕を掴んで投げようとしたところ、建御雷神が手を氷柱へ、また氷柱から剣(つるぎ)に変えたため掴めなかった。逆に建御雷神は、建御名方神の手を葦のように握り潰してしまい、勝負にならなかったとあり、これが相撲の起源とされているらしい。

って、なんじゃいそのバトルはw



⚫︎ 最初の人間VS人間

人間同士の最初の一番は、土師氏の祖として『日本書紀』などに登場する古墳時代の豪族「野見宿禰(すくね)」と、蹴り技の名手「当麻蹶速(けはや)」の天覧勝負の伝説である。試合展開は主に蹴り技の応酬であり、最後は宿禰が蹴速の脇骨を蹴り折り、更に倒れた蹴速に踏み付けで加撃して腰骨を踏み折り、絶命させたとされる。勝った宿禰は、蹴速が持っていた大和国当麻の地を与えられるとともに、以後垂仁天皇に仕えた。とか。

って、めっちゃバイオレンスw



⚫︎ その後

相撲はその年の農作物の収穫を占う祭りの儀式として、毎年行われてきた。これが後に宮廷の行事となり300年続くことなる。

↓「平安朝相撲節会の図」

鎌倉時代から戦国時代にかけては武士の時代。武士の戦闘の訓練として盛んに相撲が行われた。織田信長は深く相撲を愛好し、元亀・天正年間(1570~92年)に近江の安土城などで各地から力士を集めて上覧相撲を催し、勝ち抜いた者を家臣として召し抱えた。

↓ 「織田信長の上覧相撲」

江戸時代に入ると浪人や力自慢の者の中から、相撲を職業とする人たちが現れ、全国で勧進相撲が行われるようになり、江戸時代中期には定期的に相撲が興行されるようになった。やがて谷風小野川雷電の3大強豪力士が出現し、将軍上覧相撲も行われ、相撲の人気は急速に高まり、今日の大相撲の基礎が確立されるに至った。相撲は歌舞伎と並んで一般庶民の娯楽として大きな要素をなすようになった。

↓ 「勧進大相撲土俵入之図」

⚫︎ 寛政年間、空前の大相撲ブーム


この頃、ルールや興行形態が整えられ、歌舞伎、吉原と並ぶ娯楽の王道として大ブームに。観客は朝早くから相撲場に詰めかけ、力士たちを描いた錦絵も飛ぶように売れた。ちょうどこの頃は、絵画・小説・俳諧・旅など、さまざまな文化が庶民にまで広く親しまれるようになった時代。当時の人々は、江戸時代を代表する文化のひとつとして大相撲も楽しんだ。


表向きは寺社の勧進(修築のための資金集め)を名目として行われたために、土俵は寺社の境内に設けられ、会場内は女人禁制。年二場所で、一場所は晴天10日間の興行である。実質20日で年俸を稼ぐ力士たちの暮らしぶりは人々の憧れで「一年を二十日で暮らす良い男」と川柳にも詠まれた。


相撲人気を不動のものにした立役者が「谷風梶之助(たにかぜ かじのすけ)」という巨体力士。実力はもちろん、実直な性格も手伝って老若男女に慕われた。しかし、63連勝という快進撃を続けていた天明二年(1782)の春場所で、当時幕下のダークホース「小野川喜三郎」に負けてしまう。小野川は小柄ながら足腰が柔らかく、心理戦が得意な技巧派だった。この大番狂せに人々は熱狂し、その後のライバル対決に江戸中が注目した。


将軍上覧に際しては、相撲の家元である吉田家から、ともに土俵入りの際に腰にしめ縄を締める=「横綱」を許され、これが現在にまで続く横綱制度の実質的な始まりとされている。当時の背景としては、松平定信が主導した「寛政の改革」により厳しい倹約政策がとられていた。改革の波は娯楽産業を制限させることとなり、庶民たちの不満が日増しに高まっていた頃、谷風VS小野川の上覧相撲が計画された。これは11th家斉が直々に上覧することによって、江戸相撲の地位を確たるものにし、改革で疲弊した人心を掴む目的があったとされている。


⚫︎名横綱「谷風梶之助」の人情相撲


二代目谷風梶之助(1750~95)は伝説の名横綱であった。土俵にあがれば無敵で、勝率は九割以上、その強さは神の域であった。ただ、面持ちはにこやか。常に人を敬い、いささかもおごりの色がなかった。この谷風も「こしらえ相撲」つまりは八百長をしたことがある。


ある日、谷風は妙なうわさを耳にした。 「力士の佐野山が毎夜、お宮で水を浴びて神頼みをしている。なんでも親が大病らしい」と。元来、佐野山は相撲が弱く、皆から「貧乏佐野山」などと馬鹿にされている。きっと病気の親に医者を呼べず、思い余って水垢離をとっているにちがいない。


谷風は目頭が熱くなった。すぐさま佐野山の家を訪れ、名医を手配。薬代を置いて帰った。ただ、それだけでは、佐野山の暮らしは立たない。そこで谷風は考えた。「それならば、私が一番負けてやろう」と、相撲会所に根回しをして回向院興行での取組を作らせた。これを谷風の贔屓筋は勝利を確信して懸賞を付けたが、谷風は土俵で一世一代の芝居をした。


谷風が負けると、佐野山には、満場の観衆から御祝儀金が雨あられと降りそそいだ。あとで、この谷風のこしらえ相撲は世間にばれた。しかし、江戸っ子からは「いい話じゃねえか。人情相撲だよ」と喝采を浴び、谷風はその後、佐野山の母親の枕元で病魔退散の四股を踏んだと伝わる。


江戸全域で猛威を奮ったインフルエンザによって、35連勝で現役のまま没した。44歳没。このことから風邪を「タニカゼ」と呼ぶようになったと伝えられているが、正しくは、谷風が生前に「土俵上でわしを倒すことは出来ない。倒れているところを見たいのなら、わしが風邪にかかった時に来い」と語った頃に流行っていた流感を「タニカゼ」と呼んだものである。


https://ja.m.wikipedia.org/wiki/谷風梶之助_(2代)



● 伝説の無双力士「雷電為右衛門」


谷風、小野川の後を追って彗星のごとく現れたのが「雷電為右衛門(らいでんためえもん)」。身長197cm、体重172kgという巨人のような体躯、野獣のような闘志で、生涯に喫した黒星はわずか10。通算勝率96.2%という歴代最高の記録を持つモンスターである。


その圧倒的な強さは江戸っ子たちの度肝を抜いた。一撃で相手を土俵外に突き飛ばす雷電の相撲ぶりは、それまで「大相撲が持っているどこか芝居じみたもの」を木っ端微塵に粉砕し、命の危険すら感じさせる土俵が客席をも打ちのめしたのである。


その相撲は横行する「こしらえ相撲」をいっさい拒み、激しい上にも激しい。巨体を生かした突き押し専門で、初土俵の3日目には八角を『張り手』でぶっ飛ばし、八角は夜になって血ヘドを吐いて死んでしまった。他にも、相撲中に相手をケガさせることはしばしば。『かんぬき』で両腕をへし折り、『突っ張り』で相手を土俵下まで飛ばした。また廻しを持って両腕で相手を引き付ける『鯖折り』では肋骨を折った。


こうした雷電の怪力ぶりに他の力士たちからの苦情が出て、雷電は年寄たちに『張り手』をはじめ、『突っ張り』と『かんぬき』の3つを禁じ手にされたとか。圧倒的な強さなのに横綱になれなかったのは、死傷事故を起こしがちなのが横綱にふさわしくなかったからかもしれない。いや絶対それだろ。


https://ja.m.wikipedia.org/wiki/雷電爲右エ門




こんな感じで、なんとなく流れは理解し、なぜなぜ病もおさまりましたので、終わります。バイオレンスから始まり、雷電でまたバイオレンス臭が戻りましたね。確かに私もいつかの大晦日に曙がボブ・サップにKOされた時は興奮しましたし、命を賭けたバトルは熱狂を生みますよね。いつの日か、両国国技館で大相撲を観戦してみたいと思います。座布団なげたい


一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

こちらは一般社団法人「江戸町人文化芸術研究所」の公式WEBサイト「エドラボ」です。江戸時代に花開いた町人文化と芸術について学び、研究し、保存と承継をミッションに活動しています。