vol.58「延命院事件」について


小林一茶の下世話な話ついでに、もうひとつ下ネタ系を扱っておきましょう。


いつの時代でも、男は女を求め、女は男を求めるもので。この時代には「出会い茶屋」なるラブホテルみたいなものもあったわけですから、そうした男女の性事情も、別に悪いことでは基本ないのだけれど、享和年間に起きた「延命院事件」は、江戸中を騒がせる、それはそれはセンセーショナルな大事件になったんだそうな。


何がそんなに衝撃的だったかー言うと、

①まず男が「僧侶」だった(女犯(にょぼん)という罪)

②その相手には江戸城・大奥の女中が多数含まれていた

③大名や豪商の女中など59人と密通していた

と、、なるほど歴史に残る大事件である。


なんて羨まし、、じゃなくて、けしからん僧侶でしょうか。こんな奴は「へ〜」と簡単に捨て置くわけにはまいりませんので、詳しく調べて晒してやりましょう。と言うことで、なぜかムキになって、わざわざ有料会員にならないと読めないネット記事まで漁って調べちゃいましたよ。以下、ほとんどそこからの要約ですけども、このブログは非営利目的の自分用メモなので、どうか許してやってくださいませ。(ちなみに内容的に18禁でございます)




●「延命院」とは

東京都荒川区に現存する寺「延命院」は、慶安元年(1648)谷中(荒川区西日暮里)に創建された日蓮宗寺院。慶安元年「慧照院日長(えしょういんにっちょう)」が、3rd家光の側室・お楽(らく)の方の安産の祈祷を命じられ、その御利益から翌年、嫡男・竹千代(4th家綱)を授かったとされる。これを受けて4th家綱の乳母・三沢局が開基となり、日長により延命院は建立された。

側室だったお楽の方も、乳母・三沢局も延命院に帰依したことで、多くの大奥の女が、外出の口実に参詣し、子宝に恵まれる寺としても広く知られるようになる。4th家綱の将軍就任後、御三家、御三卿、さらに諸大名の奧向きから町方の女に至るまで、篤い尊崇と庇護により盛況となるが、元禄以後には衰勢に向かった。



● 歌舞伎役者と見まがうほどの美貌の僧「日潤(にちじゅん)」

開山から150年が経過した寛政8(1796)年、日潤が住職となると、美男のうえに美声による彼の説教や祈祷に心奪われる女性が続出する。その数は、うなぎ登りとなり連日女性信者が訪れる「押せや、押せや」の盛況ぶりとなった。

と、ここまでは本当に史実らしい。

(日潤は、日道の名で表されることもあるようだが、ここでは日潤の方を採用します)



● けど、ここからは都市伝説まじりで、、


歌舞伎役者「初代・尾上菊五郎」の息子「丑之助(うしのすけ)」は、女からすれば震いつきたくなるような男の色気が漂う、非の打ち所のない無類の美男子で、ただの色男や二枚目役者とは比較にならないほど、気品のほかに妖しい魅力が備わっていた。彫りの深い凜凜しい顔立ち、輝くような魔性の魅力から放たれる甘い神秘性に、数多の女性たちが悩殺された。


遠くから丑之助を眺めただけで、大抵の娘は頬を染めた。目を潤ませて見つめる人妻もいた。丑之助の顔が忘れられずに発揚し、一晩中、彼を思い垂涎しながら身悶えたという女性が町中に溢れ、丑之助の周囲には常に女の人垣が築かれていた。


当時、人気歌舞伎役者を豪商の後家や、大奥の奥女中などの贔屓筋が、金を払って男妾とする役者買い」という習慣があった。そこで多くの金持ちの女が丑之助を渇望し、彼を抱きたい、抱かれたい、と順番待ちをして、いざ自分の番となれば、丑之助の身体を夢中で貪りながら悩乱し、羞恥の狂態を演じながら女悦に浸ったという。


史実では、丑之助は2代目・菊五郎を襲名した2年後に急死したとされる。だが、実は誤って人を殺して行方をくらましたという説もある。そして大坂から江戸へと逃走し、日本橋界隈で知り合った男色相手・延命院の前住職の「日寿」を頼り、丑之助はそのまま「日潤」に名を変えて僧となった。日潤を日寿は特別目をかけ盲愛し、9年もの間、厳しい修業を積ませた。その日寿が亡くなったため、日潤が33歳の時、延命院15代目住職となった、という話である。(信じるか信じないかはあなた次第)



● さらに妄想記事(有料)の言うことにゃ、、


欲望を満たされない女には心に隙がある。

独り寝に耐える人妻の心は、他の男に移ろいやすく、相手が美男であれば尚更、誘われるままに身を委ね易い傾向がある。禁欲を余儀なくされた女たちが、狂ったように情事に耽った果てに、生温かい夢心地の中で、その法悦に恍惚となれば女の「性(さが)」として分別を捨てずにはいられない。

寺の雑用を行っていた下級の僧侶「柳全(りゅうぜん)」は、日潤には病気平癒の法力があると、事有るごとにあちこちで触れ周った。彼目当ての金持ち女性を呼び込んでは、日潤に直接性的な接待をさせると、延命院には日々、膨大なお布施と多額の献金が舞い込むようになる。

 

明治時代以前の仏教の僧侶は、浄土真宗以外は妻帯を認められていなかった。もし、その戒律を破って女性と性行為を行なえば女犯と断じられ、幕府は僧侶を厳しく罰したのである。この女犯を取り締まっていたのが、全寺院を管理下に置いていた寺社奉行である。

不義密通とは、夫のある女性が他の男性と性的関係に通じることである。人妻と肉体関係を結べば姦淫罪に問われ、姦夫も姦婦も死罪と定められていた。武士の妻が不義密通をすれば夫は、妻と相手の男・間夫(まぶ)を殺害しても罪に問われなかったほど重い罪だったのである。


日潤が一番恐れるのは、延命院の秘密を女人が他言することだった。その点においては人妻が姦婦となれば自身も罪に問われるため秘密が漏れることもない。そのため、好都合な客として金持ちの人妻に狙いを定めていた。また、大奥や大名の奥女中といった高い階級の女性や、大店の商家といった富裕層などの女性は、それぞれに置かれた立場があるため自身の淫行を易々と人に話すことは憚られる。そのため日潤は積極的に、高い階級や富裕層の女性を自身の獲物と見定めていた。


江戸で最も身分の高い大奥の女中にしても純潔を守り抜く生娘ばかりではない。大奥に上がる前から、すでに男性と性行為を経験している奥女中は珍しくはない。暇をもらい自身の自由な時間を満喫できる宿下がりに奥女中たちは、まずは芝居見物に脚を運んだが、芝居より男遊びを選ぶ奥女中もいた。

そうした女中は少しばかり変装して、約束していた思い人(男)と落ち合い、気兼ねなく情事に励むことができる出合茶屋へと向かうと、あとはひたすら淫行に励む。男子禁制の禁欲が強いられた世界で生活する奥女中には、思いを馳せる人との愛の交歓である性行為こそが、最高の娯楽であり、極楽を味わう束の間の営みでもあった。


柳全は、日潤を目当てに訪れる女性たちのために隠し部屋を設けた。『徳川栄華物語(菊の巻・三十)』にその様子が綴られている。「壁と思ふと其壁が廻って座敷になる、軸物が掛かって居ると思ふと其軸物を取れば壁に穴があって逃げ道になって居る」お堂の内部には、隠し扉、抜け道、隠し部屋まで用意したのは寺社奉行に踏み込まれたときの用心のためである。

延命院には、気軽に外出することが厳しい大奥や御三家・諸大名の奥女中が、将軍の世子を願い望む御台所や側室に代わって、代参する泊まりがけの祈祷「通夜参籠(つやさんろう)」が人気を博し、連日、夕方には寺の門前に乗物が列になした。延命院の日潤の常連となった大奥や御三家、諸大名の女中の数は60人近くに及んだという。



⚫︎ 囮捜査の罠にはまった日潤


ほどなくして妙な噂が立ち始め、瞬く間に江戸市中に拡散した。享和3(1803)年春。寺社奉行「脇坂安董(わきさかやすただ)」の耳にも、日潤を慕う女たちの中に、江戸城の奥女中らをはじめ大勢の女が連日、延命院に参詣と称して、坊主と愛欲に耽っているといった噂が届いた。


脇坂「延命院の噂、実際それほどひどいのか?」

笹川「はい、それは、もう。大奥の女中がひっきりなしに参詣しています。次から次と。そんな年がら年中、墓参りや法事ってワケないでしょう」

脇坂「そうか。でも確たる証拠を掴まねばな、、」


奥女中が頻繁に通う将軍家と縁(ゆかり)深く、格式の高い名刹の住職が、女犯を犯す破戒僧だとしたならば、それは看過できない事態である。だが、大奥は江戸城の聖域であり、寺社奉行といえども簡単に捜査できる立場にはない


脇坂「そうだ、お主の妹は美人であったな」

笹川「はい、自慢の妹にございます」

脇坂「では妹に囮になってもらおうかの」

笹川「え?」


延命院の中で何が密かに行なわれているのか。その実態は男が寺の外から捜査したのでは確かな内情がつかめないと判断した脇坂は、家臣・笹川幸十郎・妹を「竹川」という大奥の女中に扮して、延命院の通夜参籠に行かせることにする。性接待を行っている僧侶への囮捜査で内情を探らせるためである。


竹川は優雅な環境で生活する温良にして淑徳な女性で、美の上に美を積み重ねたような美人だった。江戸時代の囮捜査とは、犯人の仕掛けた罠の餌となり、そのまま餌として犯人に食い付かれるのが宿命。つまり、竹川は日潤と男女の交わりを果たした上で証拠を掴むのが任務なのだ。


竹川を一目見た日潤は彼女を気に入り、すぐに別室に招き、肉体の交わりを果たすべく、彼自身の陽物を彼女に押し当てた。すると突然、竹川はきっぱりとした口調で「そなたは、このかたに何人のをんなを抱きけりや(あなたは此処で幾人もの女子を抱いたのですか)」と納め(挿入)を拒んで彼を焦らしはじめるのだった。


いよいよ合体となるその直前、寸止めを喰らうと同時に、突発的で想定外な問いかけに男の気は動転し、10人以上の女性と交わっていることを、迂闊にも竹川に漏らしてしまったのである。竹川はその後も何度か通夜参籠に通ううちに、大奥女中らが送った艶書(えんしょ:恋文)といった物的証拠、隠し部屋など建物の仕掛けなどの女犯の動かぬ証拠を掴んだ。


寺社奉行の脇坂安董は、未明に手勢80人を率いて通夜参籠、最中の延命院に踏み込むが、日潤の姿はそこにはなかった。焦った脇坂は柳全を捕縛し尋問すると、日潤は隠された抜け道を通って玄関先の長持ちに隠れていると白状。長持ちから表に引きずり出された日潤は縄をかけられると、柳全と共に寺社奉行所へと連行された。



⚫︎ 事の顛末


脇坂「なんと?」

笹川「ええ。だから、59人ですって」

脇坂「誠か?」

笹川「はい。日潤が白状した女の名前を3回数えましたから。59人に間違いありません。そのうち、下は15歳。上は60歳の女まで。中には大奥の女中らもかなり含まれています」

脇坂「それはまずいな、、絵島生島事件のことを思うと、大奥女中がたくさん絡んだ事件はどのような方向へ発展するか分からぬぞ、、」

笹川「しかも、西の丸大奥の下女『ころ』は妊娠までしており、日道が堕胎させたそうです」

脇坂「堕胎?」

笹川「はい。薬を与えて行ったそうです。隠し部屋やら抜け道やら、延命院の堂内を勝手に改造して、もう、やりたい放題ですね」

脇坂「、、どうすんのこれ」


日潤は、延命院での8年の間、15歳から60歳のまで59人の女性と情交があったと自供。その中には、大奥の女中らもかなりの数が含まれていた。延命院で日潤の性戯に耽溺した女中たちは、寺社奉行による強制捜索を聞いて顔色を失いながら震え上がった。日潤が白状した調書には、江戸城本丸の大奥の女だけでも数十人、ほかに西の丸、御三家、御三卿、諸大名にかかわる女中たちの名が、ずらりと並んでいる。


だが、こうした地位のある大勢の女が召捕えられれば、江戸中が大混乱に陥るのは必須である。また、最も避けたい事態は、大奥の女たちが延命院で淫楽の限りを尽くしていたことが広く天下に知れ渡り、徳川将軍家が面目を失い、世間の笑いものになることである。


大奥部屋方として名前があがった「ころ」は、大奥では御中臈の「梅村」の配下にあり、梅村は将軍の嫡子「12th家慶付き」という要職である。脇坂は大奥からは「ころ」を押込(おしこめ)と罰したのみで、日潤が性的関係を持ったと告白した20人近い大奥と大名家の奥女中は不問とした。


当時の女犯(にょぼん)に対する処分は遠島(島流し)が一般的だが、日潤は女犯の禁を破った上に、大奥女中らとの密通、夫のある女中との不義密通による姦淫罪。そして関係した女が59人にのぼり、淫行を隠すために隠し部屋を設けるなど、その多岐にわたる悪事の数々により、死罪を言い渡されると、その日のうちに首が刎ねられた

その異例ともいえる素早い斬首刑執行は、この事件の真実が世間に漏れないようにするための口封じのためでもあった。


脇坂「よし、これで静かに幕引きを、、」

笹川「無理です。もう世間にバレてて検索ワードのトレンド1位です」

脇坂「なぬ! 一体誰が漏らしたのだ!」

笹川「はて。。うちの妹ですかねぇ?」

脇坂「かねぇ? じゃねーよっ!!」


「色気ある住職」「大奥の女中」「死罪」。3つのパワーワードが並ぶこの事件。当然ながら「延命院事件」は、江戸時代最大のスキャンダルとして、世間を大いに騒がした。もう、文春砲どころではない衝撃である。

結局、後に御中﨟「梅村」は自害(てことは関係があったのであろう)、延命院通いした12人の奥女中は大奥から追放され、武家奉公禁止になった。


また、大名屋敷に勤める女中で、日潤と情交した御三家尾張家の御中﨟・初瀬、実名を「なを」は、一生座敷牢に押し込められる永之押込(ながのおしこめ)。同じく日潤と性行為に及んだ御三卿一橋家用人井上藤十郎の娘で奥女中「はな」は無期限の自宅謹慎・永之押込の沙汰が下った。

夫のある身でありながら日潤との淫行に耽った一橋家奥勤めをしていた「ゆい」は押込の沙汰の後、自らの姦淫が夫や世間の知るところとなったことを恥じ、自害している。




ふぅ。壮大なるエロ話でしたね。

疲れましたが妄想混じりであれ、真実であれ、けっこう面白かったのは確かです。これでもかなりドギツイ官能小説的な表現部分はカットしたんですよ。(そこが気になる方はJBpressの有料記事をどうぞw)


ちなみに、日潤が歌舞伎役者・2代目尾上菊五郎だったとの噂は、奥州平泉で死んだ源義経が、大陸に逃れてチンギス・ハーンになったのと同類の「都市伝説」に過ぎないらしい。しかし江戸庶民はこの話に夢中になったわけで。フェイクニュースが流布し、まことしやかに浸透していくのは、SNS時代の現代と何ら変わらないのである。


この事件があったのは、11th家斉の時代。そもそもこの家斉が、こうした色めいた事件を引き起こす契機となっているといっても過言ではない。何しろ妻妾合わせて20人余、その子女合わせて55人、逸楽(いつらく)の限りを尽くしたというのだから、下々の者もそれを見倣ってしまうというもの。多くの側室と子どもで規模が膨れ上がった大奥は、管理監督が行き届かなかったろう。ゆえに風紀の乱れによる不祥事が生じる土台は、あったといえる。この家斉の創り出した遊蕩精神が、戒律に厳しい僧侶たちをも腐敗堕落させてしまったのかもしれない。


ともあれ、女を禁じられた宗教の世界と、男を禁じられた大奥の世界、共に禁断の交流だったからこそ背徳の興奮があったのでしょう。ある意味、芸術性のある物語ですね。延命院事件は、その後、歌舞伎狂言作者・河竹黙阿弥によって歌舞伎化され『日月星享和政談』と題し、新富座で、5代目尾上菊五郎が日潤を演じたという。


本物の2代目尾上菊五郎、あの世で複雑な気持ちになってんじゃない?ww

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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