vol.59「江戸の罰」について

前回、エロだったので今回はグロと行きますか。

わたくし育ちが良いので、本来お上品じゃない話は好きではなくってですわよ、なのですが、こうした闇が裏にあってこそ保たれた天下泰平なのですから、目を瞑ってばかりではいけませんわね、ってことで頑張りますわ。ねぇ美香さん(勝手に叶恭子さん)


でも冤罪は例外として、そもそも罪を犯した方が悪いんだから罰がキツくても仕方ないですよね。でないと悪人が増えちゃうんだから。恐ろしい罰が待ってるから抑止力になるわけで。だのに、それでも罪を犯す不届者を、江戸時代はどう処理していたのか、ちょいと怖いもの見たさで覗いてみましょ。(グロ耐性のない方は回れ右でお願いします)



⚫︎ 火炙り

ほとんどが放火犯向けの刑。放火は町すべてを消失しかねない江戸時代では普通の殺人以上に罪が重い。その方法は縛って風上から火を付けるだけ、と至ってシンプルだが、これが案外すぐ死ねなくて辛いのなんの。「恋愛ごときで放火なんてするんじゃなかったと後悔しました。ホント割に合わなかったです」とは、有名なあの八百屋お七さん談(空想)



⚫︎ 磔(はりつけ

関所破り、親殺し、主人殺し、通貨偽造・関所破りなどの重罪人用の処刑法。磔にしたのち槍で刺し殺す。織田信長がイエズス会からこの処刑法を取り入れ、豊臣秀吉がキリシタン弾圧で外国人宣教師と日本人信徒、併せて26人を磔に処している。キリスト教の布教に含まれる逸話が、キリスト教徒を罰する方法として用いられる、なんとも皮肉な話である。



⚫︎ 斬首刑

斬首刑にも「下手人」「死罪」「獄門」の三段階あり、「下手人」は死体の下げ渡し&弔いOK。「死罪」だと死体は新しく造られた刀の試し切りに使われるため弔いNG。「獄門」となると切った首が晒されるというもの。でも基本的には失敗しなければ一瞬で死ねるので苦痛は少ない。



⚫︎ 水責め

刑ではなくて拷問。とにかく窒息寸前まで水を飲ませまくる。現代でもCIAがアルカイダにこの拷問をやっていたと公表され、世界に衝撃を与えましたね。つまりよほど有効な手段なんでしょう。水さえあればできるしね。



⚫︎ 石抱き

みなさんご存じ日本オリジナル感ある拷問法。執行人に更に上から押さえつけられ左右に揺らされるってんだから、たまりませんな。ところが幕末の盗賊「青木弥太郎」は、なんと長時間これを耐え抜いたそうな。そして江戸幕府崩壊の混乱を迎えて罪状もうやむやになり、明治新政府の誕生と共に釈放されたとか。見事な粘り勝ちですやん。



⚫︎ 鋸(のこぎり)引き

「引けと言われましても、、」の図。江戸時代で町行く人で引く者はおらず、しばらく晒されてから最後は刀で斬首という実情の刑だったらしい。されど戦国時代に家康を裏切り武田に内通した家臣「大賀弥太郎」はマジでみんなから少しずつ引かれて長く苦しんで死んだというのは有名ですね。



⚫︎ 入れ墨

窃盗犯や、島流しになった罪人は額に入れ墨を入れられた。これは恥ずかしいw



⚫︎ 晒し

女犯を行った僧侶用の罰。江戸の場合は当時、世界一の繁華街とも言われた日本橋に晒し場が設けられた。女犯の罪に問われた僧侶は、筵の上に軽く縛られて座り、朝8時~夕方4時頃まで晒される。



⚫︎ 燻し責め

廓のルールに背いた遊女をこらしめる罰。縛りつけて唐辛子やニラなど刺激の強い植物を目の前で焼き、その煙に晒し続けるというもの。燻される遊女は呼吸困難でむせ返るだけでなく、目鼻の粘膜に強烈な痛みを感じて苦しむことになるが、体に傷は残らない。遊女が罪を反省し、雇い主への絶対服従を誓うまでこの拷問は続けられる。



⚫︎ 釜茹で

嘘かホントか不明だが、石川五右衛門がこれに処されたのが有名。子供と一緒に放り込まれ、①ずっと子供を守って持ち上げていたとか、②子供が長く苦しまないように一気に沈めたとか、③あまりの熱さに子供を下敷きにして我が身を守ろうとしたとか、諸説あり。ちなみに蓋を足で沈めて入る「五右衛門風呂」は、③の説が由来である。




この他にも「牛裂き」だとか「木馬責め」とか「刻み責め」やらと、想像するだけで恐ろしい処刑法や拷問の数々がありますが、エグすぎるので割愛します。そもそも、江戸時代も後期に差し掛かってくると、こうした残酷な刑や拷問もかなり減ってゆき、代わりに牢屋での禁固刑が増えていったらしい

のでホッと一安心、と思いきや、この禁固刑もなかなかどうして拷問並みにキツいものだったようで。江戸時代後期、蘭学者が一斉検挙された「蛮社の獄」で、自分も逮捕されると恐れた小関三英は「過酷な牢屋暮らしでは、とてもではないが生きてはいけない」と自害してしまうほど。


特に悪名が高かったのが、江戸市中の小伝馬町にあった牢屋敷。大牢や無宿牢といった、町民や無宿の荒くれ者を押し込める獄舎では、入牢者が激増して過密状態となり、衛生状態の悪化から毎年千人以上の死者を出すありさま。常にすし詰め状態のため、3日おきの間隔で囚人の中から適当に数人を選んで、板で叩きのめした上「陰嚢(いんのう)蹴り」で殺し、人口調節をはかっていたとか。


そんな牢屋暮らしを生き抜くには「命の蔓」が必要で。つまりはお金のことである。新入りは、帯などの縫い目に隠していたお金を差し、その額が10両を超えれば優遇されるのだが、一文無しだと悲惨も悲惨。「おまえは、すってんてんで来て、ここをどこだと思っているのか」などと説教を受けてから、縄で縛り上げられ、板や棒で叩かれた上、そのまま落間に転がされ、翌朝熱病人のいるスペースに放置。感染して死ななければ、牢屋敷への通過儀礼にひとまずパスしたことになるのだとか。


「地獄の沙汰も金次第」と言いますが、まさにこれは江戸時代の牢屋敷のためにある言葉かと。牢名主の中には、出所時に百両ものお金を貯めこんでいる者がいたり、賄賂と不正に手を染め、それを元手に金貸し業を始めた出入りの医者もいました。そして、大多数を占める平の囚人は、死刑を宣告された方がマシだったと思えるような日々を送っていたのだそうな。


もし自分がその立場になったらと空想したら、ぞっとせずにはおれません。決死の脱獄を企てるか、逆に待遇の良い牢名主を目指すだろうと思います。まぁ、どっちにしても修羅の道。犯罪はしないにこしたことはありませんね。。


● 小伝馬町牢屋敷展示館

https://www.chuoku-machikadotenjikan.jp/tenjikan/royashiki/

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

こちらは一般社団法人「江戸町人文化芸術研究所」の公式WEBサイト「エドラボ」です。江戸時代に花開いた町人文化と芸術について学び、研究し、保存と承継をミッションに活動しています。