vol.65「江戸の怪」について


日本の夏と言えば、海に花火にスイカ割りから、浴衣で盆踊りや夏祭りまで、いろいろ連想するものはございますが、今回は「怪談話」にフォーカスしてみましょうか。


そもそも「なんで怪談と言えば夏なのか?」を紐解けば、答えは単純。なぜならヒヤッとするからで。科学的根拠は知りませんし、たぶんそんなもん何も無いのでしょうけども、怖い話を聞くと妙に薄ら寒くなるのは確かでして。背筋を凍らせる気分になることで、夏の暑さ対策になってたりしたんでしょうね。


人間、怖いもの見たさ、聞きたさ、ってのは実際ありますし、ある意味それって本能が欲する一種の娯楽でありまして。今でも「貞子」とか「伽耶子」とかのホラー映画が後を絶たないのが、その証拠。さまざまな趣向を凝らして「怖がる」ことを楽しむ文化は、江戸時代から現在まで、脈々と受け継がれているわけであります。



⚫︎ 江戸時代の怪談本『百物語』


庶民が「怖さ」を楽しむことが一般的になった江戸時代に、怖い話を集めた『百物語』が、怪談会や書籍などさまざまな形式で展開されて大きな広がりを見せたとか。怪談会の『百物語』は、何本も灯りをともして、怪談が一話終わるごとに一つずつ灯りを消していき、最後の一つが消えて場が闇に包まれると怪異が起こるという言い伝えに基づいているんだそう。


しかし「百」と言っても、実際に100話の怪談を語るわけではなく「八百万(やおよろず)の神」と表現するのと同様に、たくさんの怪談物語という意味である。百物語怪談会がはやるとともに『諸国百物語』(1677年)、『御伽百物語』(1706年)など、何話もの怪談を収録して題名に『百物語』と付けた版本が出版された。なお、実際に100話収録しているのは『諸国百物語』だけらしい。


百物語の始まりといわれる『諸国百物語』は全5巻、北は東北、南は九州までおよび、内容は幽霊を扱ったものが3分の1を占める。例えば、出産の際に他界した前妻の亡霊が、自分に悪い呪文を掛けていた後妻に仕返しして首を取って殺してしまう話など、嫉妬や復讐にまつわる幽霊談が多い。その他の話ではヘビやキツネ、タヌキ、ネコなどの動物の妖(あやかし)や、得体の知れない化け物が出現する。


現代の“都市伝説”も「本当に起きた話」として語られるものだが、今は、どこそこの場所でこんなことがあったと聞けばネットで調べたり、自分で行って確かめたりもできる。でも江戸時代の庶民は、なかなか生まれた場所から離れられないため「東北の方でこんなことがあったらしい」と話しても、確かめようがないからこそリアリティーが増すわけで。さぞかし各自が想像を巡らせて不気味さを楽しんだことでしょうな。


さらには、怪談会を盛り上げるために幽霊の掛け軸を飾るなどの趣向を凝らすことも多かったとか。錦絵でも、葛飾北斎が描いた『北斎百物語』など、百物語を画題にした作品が登場している。

↑『絵本百物語』1841年に刊行された全5巻の版本。図版は「小豆洗い」。越後(新潟県)高田にあった寺の小僧が悪僧に殺されて霊となり、夜な夜な出現。川べりで小豆を洗っている。生前数を数えるのが得意で、小豆を洗うだけで、正確にその数を言い当てたという。



⚫︎ 広島市三次に伝わる特異な怪異談『稲生物怪録』


百物語は近・現代の作家たちに創作のインスピレーションを与えた。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)や森鴎外岡本綺堂、現代では京極夏彦などがその代表格だ。また、肝試しをしてからさまざまな妖怪変化が出現したという江戸時代の特異な「体験談」で多くの文化人を魅了したのは、広島市三次(みよし)市に伝わる『稲生物怪(もののけ)録』というもので。


1749年旧暦7月、三次の稲生家で16歳の少年、稲生平太郎が1カ月もの間、昼夜の別なくさまざまな妖怪や怪異に脅かされるが、耐え抜くという物語。その中には、平太郎が肝試しに百物語を行う様子も記されており、後に平太郎が江戸詰め(参勤交代で、諸国の大名・家臣が江戸にある藩邸で勤務したこと)として藩邸に出仕していた時に、同僚に自ら少年時代に遭遇した怪異を語ったとされている。


この話は地元だけではなく、江戸時代に絵巻や写本、絵本などの形でやたら広がりをみせた。写本なので、何百と作られたわけではないが、貸本によって多くの人が借りて読んでいたのではと思われる。絵巻に描かれた妖怪たちの描写は、強烈なインパクトを与えるものや、稚拙だったり、かわいかったり、バリエーションも豊富。笑い声を上げ、髪の毛を足のように使い逆立ちして歩きまわる女の生首、寝ている平太郎の顔をなめまわす天井に張り付いた巨大な老婆の顔など、まさに妖怪のオンパレードである


江戸時代の国学者・平田篤胤(あつたね)は、これに並々ならぬ関心を示して研究に取り組み、明治時代以降は、泉鏡花、巌谷小波(さざなみ)、稲垣足穂(たるほ)などが魅了されて、この怪異談をモチーフにした作品を書いているらしい。要するに、口裂け女ばりに、めっちゃ流行った怖い話ってことなのかしらん。


↑ 明治以降も『稲生物怪録』はさまざまな作品のテーマになった。上の場面は7月30日に起きた怪異。座敷の炉から出現した灰の妖怪。座敷にはたくさんのミミズもはい出ている。




⚫︎ 「怖い」と「カワイイ」の併存


妖怪は自然への畏怖や闇を恐れる人の心が生み出したもので。おそらく江戸の庶民は、闇の中で何かがうごめく気配に対して、アンテナが研ぎ澄まされていたのであろう。街でさえ明かりがほとんどなかったのだから、闇は身近にあり、遠くまで行かなくても近所のコミュニティーで怖いうわさ話がいくつも生まれる。都内には江戸時代に「本所七不思議」「麹町七不思議」「麻布七不思議」などと呼ばれた、町の「七不思議」伝承が残っているんと


怪異を怖がる気持ちがある一方で、妖怪を「カワイイ」と感じたり、友だちのように身近な存在として捉えたりする感性が育まれたのも江戸時代だったようだ。その背景にあるのは、絵巻や錦絵などで目にする妖怪たちの愛らしいビジュアルである。木版印刷が普及し、妖怪の絵を誰でも安く入手できるようになると、妖怪を身近な存在に感じるようになる。妖怪を怖くないと思う人が増えるにつれて、妖怪をかわいく表現する絵も増えた。百物語の流行と並行して、妖怪が着物の柄になったり、根付けになったり、子どもが遊ぶカルタやスゴロクに描かれたりしたのだとか。


日本には、器物が年を取ると魂を宿すという考え方があり、どんなモノでも妖怪になり得るので、さまざまな絵が描かれることに。明治時代には、人力車、ランプ、洋傘の妖怪までも登場した。蒸気機関車が導入されて鉄道が普及すると、タヌキが汽車に化ける話、写真が普及すると心霊写真などの怪異談も広まった。現代の妖怪ブームの火付け役といわれる水木しげるのマンガや、京極夏彦の怪異小説の人気も、江戸時代から連綿と続く妖怪文化の土壌があるからこそなのだろう。


カッパや鬼や天狗と聞けば、ほとんどの人がそのイメージを思い浮かべることができる。親や学校の先生から教わったわけではなく、江戸時代から連綿と続く妖怪文化を、みんなが受け継いでいる証拠である。だからこそ、水木作品の鬼太郎が広く受け入れられるわけだ。妖怪の中にも、悪いヤツもいれば、良いヤツもいるって概念が、確かに遺伝子レベルで最初から染み付いてるような気がする



とまあ、こんなまとめを作っていたら怖い話が読みたくなってきたので、昔に読んだ ↓ こちらの本をKindleで再読してみることにしました。これはマジ怖いっすよ〜。オススメです。


一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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