本来、私は医療系ドラマが苦手である。なぜなら痛そうな描写が嫌いだからだ。血がたくさん出てるのを想像するだけで、頭がクラクラする。ホラー映画だと、血がドバーッでも全然平気なのに、医療系だと気持ち悪くなってしまうのは、ナゼなんだぜ。殺す描写はOKだけど、命を救う描写だと拒否反応が出るって、私どこかおかしいのかしらん。
ほんでもって、江戸時代の医療系は特にダメ。なんせ麻酔がないんだもの。麻酔もなしに手術されるくらいなら「あ私もうこのまま死ぬで良いです」って言ってしまいそう。だから『仁』とか見れたもんじゃなくて、見てないんですわ。
よって、この本もそうした描写で冒頭はキツかったりもしましたが、その後はだいたいコレラとの戦いの話なもんで外科治療は無く、文章も読みやすくてスラスラ楽しめました。てことで、記憶の新鮮なうちにメモメモっと。
⚫︎ 開国と同時にコレラが日本侵入
日本では、かつて天然痘(疱瘡)が大流行したり、はしかの流行も発生した。それはそれで命を失う人も多く、恐ろしかったわけだが、しかしながら、ペストや黄熱病などが引き起こしたような感染症のパンデミック(世界的大流行)には、19世紀まで巻き込まれていない。極東の島国で最初に猛威を振るったのが、江戸時代後期のコレラなのである。
コレラは、ガンジス川流域の風土病であったが、英国がインドを植民地支配し、アジアでの貿易を展開していた19世紀前半から全世界に広がっている。激しい下痢と嘔吐を繰り返し、脱水症状によって死に至るコレラが、日本で最初に流行したのは文政5(1822)年。中国(清)経由で沖縄、九州に上陸したと考えられている、らしい。本州に渡り、西日本で大きな被害を出した後、東海道沿いを東進したが、この時はまだ江戸には至らなかった、そうだ。
100万人以上が暮らす世界最多の都市人口だった江戸の町に、コレラの脅威が及んだのは安政5(1858)年。感染源はペリー艦隊に属していた米国艦船ミシシッピー号で、中国を経由して長崎に入った際、乗員にコレラ患者が出たと伝わる。この年に、日米修好通商条約を含む5カ国との不平等条約が結ばれ、鎖国政策を続けて来た日本では国民に不安が広がっていた。外国から伝来した感染症の流行が重なり、大きな恐怖心を生んだことが想像できる。
江戸の死者数は約10万人とも、30万人に上ったとも記録が残り、浮世絵師・歌川広重も、13th家定も、命を落とした。コレラは当時の物流の中核だった廻船(かいせん)によって、東北などの港町にも運ばれた。江戸の死者数のピークが安政5年だったために流行年とされるが、翌年の被害の方が甚大だった地域も多い。
つーか、ペリー来てから、地震、風災、疫病と、ウソみたいな厄災続きでホントロクなことない! 自然災害はまあ幕府のせいじゃないから我慢するけど、開国したせいで外国の病気が蔓延して家族の命奪われたら、そりゃあ攘夷運動に火が付くのも仕方ないすわ。
⚫︎ 「三日コロリ」と恐れられた致死率
↑ は、明治時代に入って描かれた風刺画だが、虎(コ)と狼(ロ)と狸(リ)が合体した化け物と、衛生隊が戦っている絵である。突然、身近な人たちが下痢や嘔吐に苦しみ出し「三日コロリ」と怖れられたとおり、あっという間に衰弱死するさまを目の当たりにし、さらに、死者のそばにいた者もまた同じように……という状況。「細菌感染」という概念がないのだから、これはもう、呪いか妖怪の仕業としか思えないわけで。江戸の人々は、まじないや厄除けのお札で病を追い払おうとするしかなかった。
巷では様々なデマが飛び交い、やれ「外国人が海に毒を撒いたから魚を食べたら病気になる」だとか「病人の枕元に置いた赤飯をみんなで食べれば病気が移らなくなる」なんて迷信を本気で信じるありさま。大勢で祈祷のために寺社へ集まることで、密を作って逆に感染を拡大させちゃったり。頼みの綱の漢方医は、まったく根拠のない療法を薦めるだけだったり。病を恐れた民衆にできることと言えば、邪気を払うために豆まきをしたり、家の前に松の飾りや錦絵を貼りつけたり、獅子舞に舞わせたりすることくらい。
おかげで、江戸中に病気が蔓延して死人が続出。あまりに次々と人が亡くなるので埋葬、火葬もままならず、火葬場に入りきらない棺桶は火葬場近くの道の傍らに積まれているような状態だったとか。このとき、江戸でのコレラによる死者は、すでに3万人を超えていたと言われている。寺の住職たちからは、その何倍もの人が死んでいるという悲痛な声も上がっており、戒名に使える文字が足りない状態だったとか。
⚫︎ 「江戸の台所」銚子を守った男
千葉県の銚子は、日本一の水揚げを誇る漁港があり、醬油の製造も盛んなこの地は、利根川を使えば陸路より早く物資を江戸に運べるということで、「江戸の台所」とも呼ばれる一大食糧基地であった。銚子が打撃を受ければ、江戸への食糧供給が滞る。そんな重要拠点である銚子を三日コロリから守ったのが、若き蘭方医の「関寛斎(せき かんさい)」という男である。
彼は九十九里浜らへんの農家生まれであったが「農民としての人生ではなく、西洋医学を究めて医師として歩み、多くの人の命を救いたい」と強い意志を抱き、農作業を手伝いながらも、西洋医学を教える私塾「佐倉順天堂」(現在の千葉県佐倉市)の門下生となった。
ひとたび佐倉順天堂の門下生となれば、上級武士の子息だろうが、農民や町人の出身だろうが、同じ部屋で寝泊まりし、時を惜しんで学ぶことになる。ここでの階級は、身分ではなく、あくまでも個々の努力と実力次第であるという信念が徹底されていた。
しかし、下級農民の身分で月謝と寄宿費を払うのは厳しいものがある。そこで、順天堂の開祖である佐藤泰然は「やる気と能力のある若者には勉学の機会を与えてやりたい」と、家の奉公人として寛斎に下働きをさせ、その給金で学費等を賄わせるという計らいをした。
そんな泰然の思いに報いるため、寛斎は診療所の雑巾がけや子守、薬の調合、種痘や手術の手伝いなど骨惜しみすることなく働きながら、西洋医学の勉強に励み、泰然から一目置かれるほど腕の立つ医師に成長した。そして、江戸で猛威を奮う三日コロリが銚子でも蔓延しないよう奮闘することになる。
⚫︎ その手法は、まさに「隔離」「ソーシャル・ディスタンス」
非科学的な迷信に何の意味もないと怒りさえ感じていた寛斎は、まず、指など露出しているところを湯で消毒して治療にあたることにし、病人と健康な人とを分けた。そして、隔離された健康な者にはきれいな水や栄養のある食べ物を与え、病人の呼気や排泄物からできるだけ遠ざけ、身体や居室をとにかく清潔に保つよう徹底。と同時に、祭りなど大人数で集まるような行事をやめさせるため、そうした集まりが病を広めてしまうと民衆に伝え、『コレラ予防対策八か条』 を町に広めた。
『コレラ予防対策八か条』
一、生水、生ものを口にしないように
一、水はかならず沸かして飲むこと
一、魚は加熱して食べること
一、食器や箸、布巾、手ぬぐい、口に入れるもの、頻繁に肌に触れるものは、かならず熱い湯につけてから使うこと
一、手をこまめに洗うこと
一、吐いたもの、下したものには、決して触れないこと
一、厠などの周りに石灰をまくこと
一、体力をつけること
結果は如実に現れた。江戸とは人の流れも頻繁であったにもかかわらず、銚子はコレラによる死者をほとんど出すことなく「江戸の台所」としての機能を維持し続けた。関寛斎は、「予防」のための取り組みを徹底させることで、感染症の拡大を見事に抑え込んだのである。
寛斎の活躍がなければ、食糧基地が機能不全に陥ることになり、江戸も復興どころではなかったはずで、その後の維新に少なからぬ影響を与えたのではないだろうか。その意味では、徳川幕府滅亡の環境を整備することに一役買ったとも言えるので、ちとアレであるが、直接的にも間接的にも数え切れないほどの人々を救ったのだから、偉いのは間違いない。
しかも、蘭方医に自分らの面目を潰されたくない漢方医達からの、妨害や嫌がらせを受けながらの活躍なのだから、大したものである。ちなみに、世界で初めて「コレラ菌」の存在が発見されるのは1883(明治16)年のこと。関寛斎は、その25年も前にコレラの予防法や治療法を懸命に学び、恐ろしい感染症から多くの民衆の命を見事に守り抜いていたことになる。
⚫︎ その後も偉い寛斎先生
順天堂での先駆的な種痘奉仕や、銚子のコレラ防疫の成功などの体験は、若き寛斎にとって「人を拯い世を済す医に若くは莫し」という生涯の生き方の指針となったと思われる。戊辰戦争では「怪我人に敵も味方もあるか!」と、官賊の別なき施療を行い、赤十字精神の先駆とされ、その業績は西郷隆盛からも高く評価された。しかし、望めば「軍医総監男爵」を得れる立場を故あって捨て、その後30余年にわたり、徳島にあって庶民への医療と社会奉仕に力を尽くした。
彼の「世を済す」社会貢献は、医療を超えて維新後の旧武士たちへの救済、各戦役時の傷病兵慰問など多岐にわたる。その極は晩年、全資産を投じて北海道開拓事業へ転身。やがて目指す自作農創設と「平等均一の風」実現の農地解放へと向かうが、家族との対立などによりそれを果たせず、死を選んで波乱の生涯を閉じた。
彼が拓いた陸別には銅像が、東金には胸像が建てられたが、徳島では長く忘れられており「司馬遼太郎」は1988年(昭和63年)の徳島訪問を描いた『街道をゆく 阿波紀行』で、関寛斎を「阿波第一等の人」と詳しく紹介しつつ、徳島での忘却ぶりを嘆いたとか。また、司馬はこのほか小説『胡蝶の夢』で、寛斎を「高貴な単純さは神に近い」と評しており、これを読んだ徳島県立城東高等学校の社会科教諭が発奮し、高校創立90周年事業として記念碑の建立を呼び掛けて『慈愛 進取の碑』が1991年(平成3年)に完成。1996年(平成8年)には城東高校の東を流れる川岸の遊歩道に胸像も建てられたそうな。
という訳で、関寛斎さん神ですね。やはり医者はこうでねぇと。マジ気高いっす。人類の中で最も尊い存在っす。あと看護士さんらも偉い。命を救う仕事ほど神聖な仕事はねぇですね。大統領とか法王とかより偉いと思うの。だからこそ、金儲けのためにやってるような医者もいるのが心底腹立ちますわ。そーゆー医者と、こーゆー偉大なお医者様とは、もう呼び名からして区別して欲しい限り。例えば、前者は「商売医者(と書いてショウバイシャと読む)」と蔑んで呼んで、後者は「医の神様(イノガミサマ)」と崇め呼ぶとかね。
まあ、それは置いといて、三日コロリのダメージは甚大だったようで。地震、風災、疫病のトリプルパンチで日本ガタガタであります。幕府が今にも膝からリングに崩れ落ちそうな状態ですが、なんとさらに、この後とどめの如く「不当為替取引」と言う名の強烈クロスカウンターを食らって、腹から金を大量に吐き出さされるらしい。そんなんもうTKOですやん。。
ドクターストップしてあげてー(。´Д⊂) ウワァァァン!!
参考
https://cocreco.kodansha.co.jp/cocreco/general/health/LLKg1
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g00854/
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/関寛斎
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