⚫︎ 井伊直弼生存説(無理筋)
直弼サマが殺されちゃって、さあ大変!
どどどどうしよう、なのはその朝、先に登城して大老の到着を待っていた幕臣たち。とりあえず直弼サマのご遺体と首は回収されて彦根藩邸で布団かぶってるけど、大老が暗殺されたらと知れたらエラいこっちゃやで。幸い雪の早朝だったから目撃者も少ないし、襲われて大怪我はしたけど、まだ死んでないってことにしよ! 13th家定様が亡くなった時もそうしたし、慣れてるっし!
てな感じで、ひとまず時間を稼ぐ幕府。これにより、井伊さん家が無事に息子に家督相続を済ませ、彦根藩もお家断絶にならぬよう配慮。だので、みんな死んだの分かり切ってるにも関わらず、各藩としても井伊さん家に「具合いかがっすか」とお見舞いしないわけにもゆかず。特に、殺した張本人の水戸藩からの使者は命がけ。激おこ彦根藩士に斬り捨てられるの覚悟でお見舞品を届けに行ったそうな。(むっちゃ睨まれたけど無事に帰れたとか)
⚫︎ 不平等条約で金がどんどん無くなるの!
なんとか強引に直弼サマの死は誤魔化したものの、どうやったって誤魔化せないのが「不平等条約による金の流出」であった。これについてのカラクリは割愛するが、要するに外国と貿易を始めたせいで、日本の金銀がみるみる減ってゆくのである。慌てて万延小判の発行などで対策するけど、日本市場はハイパーインフレとなり物価が高騰しまくっちゃう。これには浪士も志士も藩士だろうが関係なく、農民、町人、庶民まで、全方位からブーイングの嵐。
せめて外国との貿易で国が潤えば、いかに武士らが正義に熱く燃えようが、庶民にとっちゃ「なんかお侍さんが騒いでんな」くらいのことだったのに、物価が上がってもうてはそうは問屋が卸しちゃくれぬ。庶民までもが声を揃えて「尊王攘夷」を唱え出し「だーから開国なんか勝手に進めっから言わんこっちゃねー!」と、全国的な幕府バッシングが吹き荒れた。もはや炎上祭りである。
⚫︎ こうなったら必殺技「公武合体」だ!
と叫んだのは、後釜の安藤信正クン。刀振り回すアブねー奴らが「尊王尊王」言ってるから、ならば孝明天皇の妹「和宮(かずのみや)」と、14th家モッチーを結婚させて「幕府と朝廷は一丸でやってるんだぜ」アピールしようってのが狙いである。てゆーか、もうそれくらいしか幕府の威信を回復させる手が思いつかないの。だからお願い!って言われましても和宮さんにはフィアンセがおりまして。。
普通に無理!って断りたい孝明兄妹でしたが、これはチャンスであらしゃいますぞと「岩倉具視(いわくらともみ)」がしゃしゃり出て。婚姻を実現させてあげる代わりに、一橋慶喜と松平春嶽の謹慎解除をはじめ、富国強兵の後に必ず尊皇攘夷を確約する条件を幕府にのませることに成功。和宮と共に江戸へ降り「この婚姻は幕府が朝廷から人質を取ろうとしたものではない」という誓書までモッチー直々に書かせるなど、幕府と朝廷の立場を逆転させたのであった。
⚫︎ 皇女和宮 vs 天璋院篤姫
気の毒なのは、政争の具にされた皇女和宮である。いやいや縁談を承諾する交換条件として、服装や髪型など公私にわたるすべてにおいて、武家風の大奥のやり方には一切従わないこと、天璋院篤姫や家茂の母は大奥に住まわせず、一切対面しないことを提示した上での輿入れとした。それを聞いて篤姫は激怒。「将軍家に輿入れするからには武家風儀に従ってもらいます!」と、大奥を舞台に火花散る女の戦いが繰り広げられることに。
篤姫は「御所風儀を守るというようなことはいっさい聞いておりませぬ」と、御所風儀の約束をすべて反故に。姑にあたる篤姫は上座につき、和宮の席はその左脇の下座に設けられ敷物も用意されていなかったため、和宮は屈辱を感じ自室に戻って声をしのんで泣いたという。だが、篤姫同様、和宮も結婚したらしたで将軍のことを好きになり、やがて篤姫ともお互いの確執を捨て、命をかけて共に江戸城を守る徳川びいきのお嫁さんになってしまうのだから、縁とは不思議なものである。
⚫︎ 動かない藩主に、うずく志士たち
しかし、この公武合体の動きを気に入らないのは血気盛んな志士たちで。水戸浪士単独の大老暗殺成功を受け「我らも兵を率いて上洛しましょう!」と大久保利通は言うが、島津久光は「今動いたら同罪になっちゃうからヤ!」と動かない。「それじゃ水戸の浪士たちが可哀想でしょ!」「知らんこってす!」藩主がそんな調子なので動くに動けない志士たちはウズウズしちゃって仕方がない。
とうとう暴走タイプの薩摩藩士「伊牟田 尚平(いむだ しょうへい)」が、アメリカ公使館で通訳として働くオランダ人青年「ヘンリー・ヒュースケン」を殺してしまう。とんだトバッチリの的にされた可哀想なヒュースケン君に関する詳細は、こちら ↓ の記事が超オススメ。可哀想な話のはずなのに何故かクスッと来てしまうw
幕末日本を愛したオランダ青年 ヒュースケン殺害事件が悲し過ぎるhttps://bushoojapan.com/jphistory/baku/2023/12/05/111357
さらに翌年、今度は水戸浪士が「イギリス公使 J.R.オールコックが幕府の反対を押切って陸路入京して神州をけがした!許せん!」との理由から、江戸高輪の東禅寺にあったイギリス仮公使館を襲撃。警備に就いていた旗本や郡山藩士・西尾藩士らが応戦し、邸の内外で攘夷派浪士と戦闘し、双方が死傷者を出した。(第一次東禅寺事件)
⚫︎ 武市半平太プロデュース「土佐勤王党」爆誕
こうなると、いよいよ過激な志士たちの暴走が止まらない。身分を超えた新しい時代を作ろう、という決意のもと結成された「土佐勤王党」には、下級武士や郷士・農民など下士層を中心に190人ほどが参加。血盟外同志・協力者を含めると500名を超えたとも言われ、土佐における尊攘運動の一大勢力が出来上がる。
薩・長・土による同志間の会合で、武市が「三藩主同時入京」を提案。土佐も乗り遅れぬよう土佐藩参政「吉田東洋」に何度も会見を申し入れ「挙藩勤王」を説くが、却下され続けた。これに焦れた吉村虎太郎や龍馬をはじめとした複数の同志らが決別、脱藩者を出すことになる。藩主がなかなか動かないせいで、志士たちのウズウズと不満は最高潮に達し、もはや大爆発寸前であった。
⚫︎ そして悪夢が繰り返される
まるでデジャヴのような光景が「坂下門外」にて再び発生。無理矢理な公武合体に怒った水戸浪士6名による安藤信正への襲撃である。1年前の桜田事変以来、駕籠行列は50人にものぼる厳重な警備体制だったため、安藤は背中に傷を負っただけで助かり、襲撃者は返り討ちにされて暗殺は失敗に終わる。良かったじゃ〜ん信正ク〜ン。
とは、ならないのが武士の辛いところ。信正クンは、背中を切られた直後も包帯を巻いた姿でイギリス公使と面会するなど、襲撃に屈しない姿をアピールするが、襲撃されて負傷したこと自体を非難する声もあって、幕府はまたしても権威を落とす。そして襲撃から3ヵ月後には信正クンは老中の座を退く結果に。一方、尊王攘夷派の動きはますます活発になり、倒幕へと突き進んでゆくのであった。。(安藤政信 退場)
ふ〜、この同時多発的にいろいろなことが動く幕末の出来事を、時系列順にまとめる作業、、むっちゃ疲れる。。あまりに大変なので、もう放り出してしまいたいところだが、ここまで続けて来た以上、そうもいかんし、頑張るしかない、、誰にも褒めてはもらえんが、、
この時期の幕府も同じ気持ちだったかもね、、。
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