vol.93 「生麦事件」について(前編)


文久の改革を成功させ、ご満悦で京都へと帰る久光っちゃん。まさに大願成就の凱旋パレード。ところが、そこに思わぬ邪魔者が。ええい無礼な異国人め、余が直々に成敗してくれる!って感じの絵ですね ↑ これは。見てくださいこのヒーロー感たっぷりの凛々しい顔を。本当のところは ↓ こうだったくせに。



⚫︎ 以下、wikiさんの記述によりますと、、


文久2年(1862年)、薩摩藩主・島津茂久の父で藩政の最高指導者・島津久光(44歳)は、幕政改革を志して700人にのぼる軍勢を引き連れて江戸へ出向いたのち、勅使・大原重徳と共に京都へ帰る運びとなった。久光は大原の一行より1日早く、8月21日に江戸を出発した。率いた軍勢は400人あまりであった。


八ツ時(午後2時)頃、行列が生麦村に差しかかった折り、4人の騎馬のイギリス人と行き会った。横浜でアメリカ人経営の商店に勤めていたウッドソープ・チャールズ・クラーク、横浜在住の生糸商人ウィリアム・マーシャル、マーシャルの従姉妹で香港在住イギリス商人の妻であり、横浜へ観光に来ていたマーガレット・ボロデール夫人、そして、上海で長年商売をしていて、やはり見物のため来日していたチャールズ・レノックス・リチャードソンである。


この日は日曜日にあたっており、4人は東海道で乗馬を楽しんでいたとも、観光で川崎大師に向かっていたともいわれる。4人は外国人居留地のある横浜・関内を出て、小舟で神奈川に渡り、そこから馬に乗って東海道を江戸方面に進んでいた。


生麦村住人の届け出書と、神奈川奉行所の役人の覚書、そして当時イギリス公使館の通訳見習だったアーネスト・サトウの日記を突き合わせると、ほとんど以下のような経緯を辿った。


行列の先頭の方にいた薩摩藩士たちは、正面から行列に乗り入れてきた騎乗のイギリス人4人に対し、身振り手振りで下馬し道を譲るように説明したが、イギリス人たちは「わきを通れ」と言われただけだと思いこんだ。しかし、行列はほぼ道幅いっぱいに広がっていたので、結局4人はどんどん行列の中を逆行して進んだ。


鉄砲隊も突っ切り、ついに久光の乗る駕籠のすぐ近くまで馬を乗り入れたところで、供回りの声に、さすがにどうもまずいとは気づいたらしい。しかし、あくまでも下馬する発想はなく、今度は「引き返せ」と言われたと受け取り、馬首をめぐらそうとして、あたりかまわず無遠慮に動いた。その時、薩摩藩士数人が抜刀し斬りかかった。


4人は驚いて逃げようとしたが時すでに遅く、リチャードソンは深手を負い、桐屋という料理屋の前から200メートルほど先で落馬し、とどめを刺された。マーシャルとクラークも深手を負い、ボロデール夫人に「あなたを助けることができないから、ただ馬を飛ばして逃げなさい」と叫んだ。


ボロデール夫人も一撃を受けていたが、帽子と髪の一部が飛ばされただけの無傷であり、真っ先に横浜の居留地へ駆け戻り救援を訴えた。マーシャルとクラークは流血しつつも馬を飛ばし、神奈川にある当時、アメリカ領事館として使われていた本覚寺へ駆け込み助けを求め、ジェームス・カーティス・ヘボン博士の手当を受けた。


『薩藩海軍史』によれば、リチャードソンに最初の一撃をあびせたのは当番供頭・奈良原喜左衛門であり、さらに逃げる途中で鉄砲隊の久木村治休が抜き打ちに斬り上げ致命傷を与えた(久木村は同事件の回顧談を鹿児島新報紙上に詳細に語っている)。落馬後、瀕死のリチャードソンに「今、楽にしてやっど」と、介錯のつもりでとどめを刺したのは海江田信義であったという。


なお、当時近習番だった松方正義の直談によれば、駕籠の中の久光は「瞑目して神色自若」であったが、松方が「外国人が行列を犯し、今これを除きつつあります」と報告すると、おもむろに大小の柄袋を脱し、自らも刀が抜けるよう準備をしたという。


この事件は、東禅寺事件などそれまでに起こった攘夷殺傷事件とは違って個人的な行為ではなく、大名行列の供回りの多数が一斉に斬ったものであり、直接久光の命令こそなくとも、暗黙の了解の下に行われていたことは歴然としていた。事件直後、各国公使、領事、各国海軍士官、横浜居留民が集まって開かれた対策会議でも「島津久光、もしくはその高官を捕虜とする」という議題が挙がっていて、下手をすれば戦争に直結しかねないだけに、イギリス公使館も対処の仕方に苦慮を重ねることとなる。


事件直後、ボロデール夫人の要請に応えて最初に動いたのは、イギリス公使館付きの医官だったウィリアム・ウィリスである。騎馬で、まだ続いていた薩摩藩士の行列のわきをすりぬけて生麦に向かううちに、横浜在住の加勢の男たち3人が追いついてきて、やがてイギリスの神奈川領事ヴァイス大尉率いる公使館付きの騎馬護衛隊も追いついた。一行は、地元住民の妨害を受けながらもリチャードソンの遺体を発見し、横浜へ運んで帰った。


イギリス代理公使ジョン・ニール中佐は、薩摩との戦闘が起こることを危惧して騎馬護衛隊の出動を禁じていたが、それを無視してヴァイス領事が出動したことで、2人の間には確執が生じた。事件当日の夜から翌朝にかけて、横浜居留民の多くが、遺体収容を果たしたヴァイスを支持し、武器をとっての報復を叫んだ。


フランス公使デュシェーヌ・ド・ベルクールがそれを応援するようなそぶりを見せていたことも、居留民たちの動きを加速した。しかしニール中佐は冷静であり、現実的な戦力不足と全面戦争に発展した場合の不利を説いて騒動を押さえ込み、幕府との外交交渉を重んじる姿勢を貫いた。




やってくれました久光っちゃんw

自分の率兵上京で盛り上がった過激な攘夷派を、肩透かしでガックリさせた上、身内の薩摩藩士らをも寺田屋で粛正までしておきながらの、結局自分がいっちゃん攘夷派的なことやっちゃう、という壮大なオチ。いやもう逆に、全てはこのオチのためのフリだったのではないかとさえ思える、見事な裏切りの笑いが完璧すぎて脱帽である。

しかも、この後のダサい対応がまた笑えて笑えて ↓




⚫︎ 久光っちゃん一行の動向は、、


久光一行はその夜、横浜に近い神奈川宿ではなく保土ヶ谷宿に予定を変更して宿泊した。一行の中にいた大久保利通の当日の日記によれば、横浜居留地の報復の動きを警戒して、藩士2人が探索に出ている(←この時点で何かもうダサいw)。生麦村の村役人は、ただちに事件を神奈川奉行に届け出、これを受けて調査を開始した奉行は、久光一行に対して使者を派遣し、事件の報告を求めた。


しかし、久光一行は、翌日付で「浪人3〜4人が突然出てきて外国人1人を討ち果たしてどこかへ消えたもので、薩摩藩とは無関係である」という届出をすると、奉行の引き止めも意に介さずそのまま急いで京へ向かった。(←すっごダサいw)


神奈川奉行からの報告を受けた老中・板倉勝静は、薩摩藩江戸留守居役に対して事件の詳しい説明を求めたが、数日後に「足軽の岡野新助が、行列に馬で乗り込んできた異人を斬って逃げた。探索に努めているが依然行方不明である」と虚偽の説明をしたため、神奈川奉行からの詳細な報告を受けて事件の概要を把握していた幕府は憤り、江戸留守居役に出頭を求め糾弾したが、薩摩藩側はしらを切り通した。(←すぐバレる嘘ww)


さすが久光っちゃんww

完全にこれはヤバいと認識している上で、何とか誤魔化そうとするあたりがもう最高。しかも全く誤魔化せてなくて。せっかくイギリスが全力サポートで各国との開港延期に協力してくれたタイミングで、よりにもよってイギリス人殺し。持ってるねー。笑いの神様が舞い降りて背中に乗ってる感じ。




⚫︎ そして、どーすんのこれ状態に、、


事件から2日後の8月23日、ニール代理公使は横浜において外国奉行・津田正路と会談した。この会談でニールは「勅使の通行は連絡があったのに、なぜ島津久光の通行は知らせてこなかったのか」と追及した。これに対して津田は「勅使は高貴だが、大名は幕府の下に属するもので達する必要はない。これまでもそれで問題はなかった」と答え、「勅使より薩摩藩の通行の方が問題が起こる可能性が高いのはわかりきった話でしょうが!」と、ニールに反論されている。


8月30日には、老中板倉勝静邸においてニールと板倉、水野忠精との折衝が行われ、ここでもイギリス側は犯人の差し出しを繰り返し要求した。当時の幕府においては、多数の軍勢を伴って幕府の最高人事に介入した久光に対して、敵意を持つ見方が一般であった。そのため、生麦事件の知らせに「薩摩は幕府を困らせるために、わざと外国人を怒らせる挙に出た」と受け止める幕臣が多数で、薩摩を憎みイギリスを怖れることに終始し、対策も方針もまったく立てることができないでいたという。


一方、東海道筋の民衆は、「さすがは薩州さま!」と歓呼して久光の行列を迎えたという。9月30日に久光は上洛、参内するが、孝明天皇はわざわざ出御して久光の労を賞し、これは無位無官の者に対しては異例の待遇であった。しかし、生麦事件をきっかけとして朝廷が攘夷一色に染まってしまったことは、久光および薩摩藩の思惑を超えた結果だった。薩摩藩の幕政改革の意図は攘夷ではなく、彼らの不満はむしろ幕府が外国貿易を独占していたことにあったのである。尊攘派の支配する京都の情勢に耐えかねた久光は、京都を発って鹿児島に戻った。


帰ってんじゃないよ、久光っちゃんw

自分が日本に何したか分かってのかアンタ。まだ幕府はイギリスとモメてて解決してねーぞ。なにその俺知らね、みたいな態度。アンタが表舞台に復帰させた慶喜春嶽も、いきなしアンタの尻拭いからの再スタートじゃ、そりゃ不仲になるわ。方向性の違いとかより、むしろこれでしょ原因は。




⚫︎ しかも、英国公使館が焼き討ちさるる


久光っちゃんの痛快な異国人成敗に影響された高杉晋作は「薩藩はすでに生麦に於いて夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお、公武合体を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。藩政府でこれを断行できぬならば!」と訴え、久坂玄瑞ら同志とともに品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行う


この公使館は、あのイギリス公使オールコック(遣欧使節団を全面サポートしてくれた人)が、デザインし、完成すれば江戸最初の洋館建築となっていたはずのものだった。が、この焼き討ちで完成目前にして全焼。現在の居場所である東禅寺でも二度も襲撃を受けていることから、政情不安な江戸ではなく公使館を横浜に置くことにした。


こりゃオールコックさんも、ニールさんも完全にブチギレてますよ。つか王者イギリス相手にこんかケンカ売って大丈夫ですかね。。



「おい幕府、こちとら日本と貿易本格化したいから、国内情勢が安定するまで待つ協力してやっんのに何だこれは。もうオメーには浪人や雄藩を統制する力もないってんなら、こっちもやり方変えるしかねーけど。とりあえず、この落とし前はきっちりつけてもらうからな、覚えとけよコラ」



うん、大丈夫じゃなさそうですね。

後半に続きます。怖いです。




参考
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/生麦事件#:~:text=生麦事件(なまむぎ,2名重傷)した事件%E3%80%82

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

こちらは一般社団法人「江戸町人文化芸術研究所」の公式WEBサイト「エドラボ」です。江戸時代に花開いた町人文化と芸術について学び、研究し、保存と承継をミッションに活動しています。