新年あけましておめでとうございます。私しか読者のいないブログですが、昨年中は大変お世話になりました(私に)。今年も何卒よろしくお願い申し上げます(私を)。はい了解です、こちらこそよろしくお願いします。
ってことで、2025年もこんな感じの一人芝居を続けながら、幕末についてまとめを作ってゆくわけですが、きな臭さ全開になる前に14th家モッチー君と和宮ちゃんの婚礼にまつわる事柄に触れておきましょか。新年なのでね。おめでたくね。
⚫︎ 素敵すぎるプリンス、家モッチー
子供のできない病弱な13th家定の後継者候補として、井伊直弼サマをはじめとする南紀派に担ぎ上げられた少年、家モッチー(もとの名は慶福)君。理由は13th家定の従兄弟にあたり血が近いから。対する一橋派が推す慶喜は聡明なる成人であったが、1st家康まで遡らないと血が繋がらない。ってことでモメにモメたが、直弼サマが安政の大獄でじゃかましい一橋派を黙らし、13歳にして将軍に就任する。
もちろん本人は成りたかったワケではない。幼少の頃は風流を好み、池の魚や籠の鳥を可愛がるのを楽しみとしていたが、将軍として元服してからは、自分の役目と責任をその歳でもしっかりと心得て、文武両道を修めるように努めた。ささやかな楽しみすら捨て、良い将軍であろうと心がけていた姿は、幕臣たちを感激させたという。
しかも、こんなエピソードもある。
書の達人として知られていた幕臣「戸川安清」は70歳を過ぎた老人ながら、推されて家茂の習字の指南を務めていた。ある時、教えていた最中に、突然家茂が安清の頭の上から墨を摺るための水をかけ、手を打って笑い「あとは明日にしよう」と言ってその場を出て行ってしまった。同席していた側近たちが、いつもの家茂らしくない事をすると嘆いていると、当の安清がむせび泣いていた。将軍の振る舞いを情けなく思ってのことかと尋ねると、実は老齢のため、ふとした弾みで失禁してしまっていた事を告げた。その頃の慣例として、将軍に教えている真っ最中に粗相をしたとなると厳罰は免れないので、それを察した家茂は、わざと水をかけて隠し「明日も出仕するように」と発言することで不問に処することを表明したのである。泣いたのは、その細やかな配慮に感激してのことだと答えたという。
⚫︎ 公武合体のための政略結婚が決定
堕ちた幕府の威信を取り戻すべく、公武合体のため、様々な駆け引きを経て、皇女和宮ちゃんが家モッチー将軍に嫁ぐことが決定。1861(文久1)年10月20日。この日の午前8時頃、前代未聞の大行列が京の都を出発した。行列の総員は、約3万人。これが、道幅の狭い中山道を江戸に向かうことになるのだから、それはもう大騒ぎである。場所によっては、行列の長さは50キロメートルに達したとも伝えられる。
↑ の画像は、この和宮降嫁の大行列を報じる瓦版の一部である。豪華絢爛な衣装に身を包んだ人々が、どこまでも続いている様子が描かれている。珍しく冊子型のこのかわら版は、掲載した絵以外にも、行列に参加した大名の名が、武鑑(諸大名、旗本の氏名、石高など様々なデータを掲載した書物)の形式で長々と記されている。
事実、この大行列の護衛のために、12もの藩から人員が出された。それのみならず、移動の際の沿道警備に、29藩があたっている。これほどまでに大袈裟な輿入れは、ただ儀礼的な理由から行われたわけではなかった。大金と大人数を投入し、限界まで豪勢なものとすることによって、朝廷の威光を内外に示し、それに保障された幕府の権威を見せ付けることを狙ったのである。庶民が興味を持ち、熱狂しつつ見物したのは言うまでもない。瓦版屋は大いに潤ったことであろう。
⚫︎ 和宮ちゃんにも超優しい家モッチー
文久2年(1862年)2月11日、ふたりの婚礼が行われる。その様子はそれまでの13代の将軍たちの婚儀とは異なっていた。和宮が征夷大将軍よりも高い身分である内親王の地位で降嫁したため、嫁入りした和宮ちゃんが主人、嫁を貰う家モッチーが客分という逆転した立場で行われた。これは後々まで、江戸城内において様々な形で尾を引くこととなり、篤姫や大奥の面々から反感を買う。
されど、素敵なプリンス家モッチーは、無理やり嫁がされた和宮ちゃんを気遣い、まめに手紙を書いたり、お土産をプレゼントしたり、彼女の悲しみを理解し、彼女の孤立を防ぐため温良篤厚に接したので、和宮ちゃんも心を開き、周囲も認める相思相愛の夫婦になった。その夫婦関係の良さは、和宮の側近が仲睦まじい2人のことを日記に記していたほど。
また、家モッチーは和宮ちゃん以外の女性を傍に置こうとしなかったため、側室は1人もいなかった。彼女を心から愛していたこともあって、少しでも時間ができれば和宮ちゃんと雑談を交わし、かんざしや金魚などを贈った。成人した歴代将軍の中で、側室を1人も持たずに正室1人を大切にしたのは家モッチーだけである。ちなみに、和宮ちゃんも、想像妊娠しちゃうくらい家モッチーに惚れ込んでいたんだとか。おかげで敵対していた篤姫や大奥女中らとの軋轢もすっかり氷解。なんて素敵な王子様なの。
⚫︎ けど、なんか京都の尊攘派が怒ってる
「和宮を嫁にやる代わりに攘夷の決行を約束したよな? で、いつやんだよ?」
「いや、だからそれは日本が外国並みに力をつけてからの話であって、、」
「あー? よく聞こえねーから京都来いや!」
ってことで結婚から、わずか1年後の1863(文久3)年2月13日、今度は家モッチーが京都に向かって出発する。朝廷からの要請を受けてのものであるが、実質は、家モッチーの義兄である孝明天皇が、いつまで経っても攘夷を「実行」しない幕府にしびれを切らして呼び付けたのだった。
江戸から京都に向かう将軍一行は、約3000人。和宮の大行列の10分の1の規模ではあるが、将軍の上洛は第3rd家光以来、なんと229年ぶりとあって、こちらも大事件である。かわら版屋にとっては、再び最高の商機が巡ってきたわけだ。
↑ の瓦版では、行列に加え、江戸から京都までの宿場の名が書き入れられ、大変見応えのある一枚となっている。上部には、行列に参加した藩の詳細も、藩主の家紋とともに記されている。そして、驚くべきは、このかわら版のサイズ。なんと全長140cmにも達するものなのである。
ここまでかわら版屋が力を入れたのは、「絶対売れる」と確信していたからで。実際、将軍上洛の行列絵図も大受けで、これ以外にも多種多様な刷り物が売り出された。庶民にとって大行列は見世物で、それを見た記念として、この瓦版を購入したのだろう。
なお、この際、和宮ちゃんは愛する家モッチーの無事を祈り、24日から増上寺の黒本尊の御札を勧請し、御百度参りを行っており、妻として夫である徳川家茂の無事を祈っていたという。また、和宮ちゃんが詠んだこの歌 ↓
「惜しましな 君と民との ためならば 身は武蔵野の 露と消ゆとも」
は、これまで降嫁を決心した時に詠んだものとされてきたが、近年では文久3年の家茂上洛中に詠んだものと推定されている。さらには、上洛の前夜には夫婦で夕食を取り、ひとときの別れを惜しんだことも側近の日記に記されているのだとか。ラブラブですな〜、ヒューヒューだよ!(古い)
はい。滑ったところで、今回はここまで。
ピュアなふたりのほっこりエピソードのおかげで、幕末の動乱の中でもホッと一息つくことができました。この先、悲しい結末が待っていることは、まだ言わないでおいてあげましょ。
それにしても、家モッチー良い男やな〜。大袈裟に誇張されたわけでもなく、事実なのが素晴らしい。こんな素敵なプリンスが現れたら、私もコロッと想像妊娠しちゃいそうですもんw
参考
https://mag.japaaan.com/archives/61251
https://news.yahoo.co.jp/articles/1b969b771480ad712f70ae4860ed49b7541f87b3?page=1
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