vol.115「幕末の食」について③

⚫︎ Marlboro TigerのReload the 明治維新
【長州おはぎ】について
https://ameblo.jp/boochan-777/entry-12733694884.html?frm=theme



さて、人様のブログまんま引用という卑怯な手で楽をするのも今回で最後としよう(たぶん)。これ以上このように他人の褌で相撲を取っていては、自分の勉強にならないからね。って言うけど、いやいや、かなり勉強になったと思うよ。完璧な教科書だったもん。


特に、今回の【長州おはぎ】については目から鱗もんで。これを学ぶことで当時の町の人々の空気まで分かるし、時代の流れの読み方まで変わってくる、という素晴らしい記事である。Marlboro Tiger様ホントありがとうございます。神です。




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さて、ここの所【鍋】ばかりを紹介して来た幕末グルメ・シリーズだが...

 

ボチボチ鍋からは卒業しよう(笑)...。

 

今日ご紹介するのは、幕末の京都で爆発的に大ヒットしたB級グルメ...【長州おはぎ】だ。幕末の京都に突如現れたこの奇妙なネーミングのおはぎ...一体どう言う食べ物だったのか、がっつりご紹介しておきたい。


コイツがどの様な意図をもって...何故誕生したかを、簡単に説明せねばならない。佐幕派ファン、会津ファンの方には少々耳の痛い話になるかも知れないが、暫しお付き合い頂きたい。

元治元年(1864年)七月十九日午後の京都の風景である。いわゆる【禁門の変】によって焼失した京都御所以南の被災地域を表している。左が北、右が南になっているのでご注意頂きたい。

 

京を包囲した長州軍は軍事力を背景とした示威行為で朝廷を威嚇し続けたが、自分達の復権が絶望的である事を悟り、遂に暴発。御所を守る幕府方勢力と激突した。この図はその惨状を記録した物だ。戦争は半日で終結。長州は破れ、散り散りとなって京から敗走して行った。

長州軍を率いた久坂玄瑞も自決を遂げ、戦争を主導した藩幹部はある者は戦死し、ある者は後日捕らえられて首を跳ねられた。尊王攘夷の西国の盟主に君臨した長州藩は、この一挙でトドメを刺されてしまう。

御所を守り抜いたのは、彼ら...会津藩である。御所の西...蛤御門で激突した両軍は、凄まじい攻防を繰り広げ、一橋慶喜、薩摩藩も加わっての大激戦となった。

この戦いを描いた屏風をご覧頂こう。

画面右端に...


...こんなマークの旗が見えるだろう。

 

これが、長州藩毛利家の家紋【一文字三星紋】だ。長州の主・毛利家は鎌倉幕府草創の功臣、大江広元の四男季光を祖とする一族だ。その大江氏は阿保親王を祖としており、その阿保親王は平城天皇の第一皇子であったことから一品の位にあるとされ、一品親王と称された。【一品】の字体と、三武の星座(オリオン座のベルトの部分)を組み合わせたデザイン...一説によると、それが一文字三星紋のオリジンであるとされる。戦国期に空前の大版図を中国地方に築き上げた毛利...その栄光を伝える旗は、京で燃え尽きてしまった...。

敗走する長州軍に対する掃討作戦は熾烈を極めた。彦根、会津、桑名藩兵の砲撃によって御所の南...鷹司邸から出火した火災は、瞬く間に燃え広がり、南は仏光寺、西は西洞院、東は寺町までを焼き尽くした。

 

実はこの火災は二十日になって一旦は鎮火していた。

ところが...である。

 

再びゲリラ化した長州の敗残兵を掃討する為、攻撃を再開させた会津、彦根の砲撃によって再び火災が発生。これがより以上に延焼し、京の街に壊滅的な被害を及ぼしてしまうのである。人為的な二次災害の側面もあったとご想像頂きたい。イメージし易い様にお伝えすると、現代の京都御所の敷地分の長方形を、もう少し大きくして真南にコピーしたエリア...それが最大の被災地域だ。阪急烏丸駅~阪急河原町駅を底辺とし、その北方御所前の丸太町に至るエリアが消失した。今日の京都経済の中心地がすっぽりと入ってしまう。

焼失した家屋は何と二万七千戸。八百十一町が焼き尽くされ公家屋敷十八、武家屋敷五十一、土蔵千二百も同時に灰燼と帰した。四条からは遠く離れた東本願寺もこの火災によって消滅している。現代の四条界隈同様、当時の三条〜四条にも官庁街、オフィス街、宿泊施設、名所旧跡が集中していた。これが壊滅したのだから相当なダメージだった筈だ。修学旅行で寺町通りや新京極通りの商店街をフラフラした事がある人は多いだろう。あの界隈が、鴨川対岸の八坂~祇園に比べゴチャゴチャしている様に感じるのは、一つには禁門の変によって町ごと丸焼けにされてしまった事も起因している。


御救長屋と呼ばれる被災民救済のための仮設住宅も提供されるようになるのだが、結局この被災から京都は立ち直れなかった。続く鳥羽伏見の戦いが追い討ちをかけ、首都を東京に奪われてしまう事となるのだ。


この戦争を伝える瓦版は多く残されているが、恐らくは多くの京都人がこの光景を間近で目撃した。戦争前に避難はしていたであろうが、自分達の街...1000年の都が、名所旧跡と共に灰燼に帰する一部始終を涙を流しながら見守った...。戦後どの様な事が起こったか。不思議な事に、攻め寄せて来た長州軍への怨嗟の声は殆ど無く、その怒りは帝を守り抜いた幕府側に向けられる事となるった。何故そうなったか...理由は簡単だ。

 

掃討作戦の中心となった会津藩兵が敗残兵となった長州の落武者を掃討する為、彼らの街を焼き尽くすのを目撃したからだ。その恨みの描写は、【八重の桜】でも会津藩兵に石を投げつける京都人の姿で描かれていた。その会津藩の手先である新選組が志士狩りをヒートアップさせるにつれ、民心はますます幕府サイドから離れて行った。

 

そして戦争終結から一ヶ月が経過した頃...


街角にコイツが現れ始める...。


爆発的にこの風刺グルメが売れ始めたのは9月の事。【長州おはぎ】と言う。この妙な盛り付けのおはぎが、狂った様に売れ始めた。皿の上に丸いおはぎを三つ三角形に配置し、箸を上部に横一文字に置く...一文字三星紋...つまり長州を象った食品なのだ。長州藩の藩都である【萩】を示す【おはぎ】を、毛利家の家紋【一文字三星】に似せてトッピング...更には長州藩【36万石】にかけて【36文】で販売すると言う徹底ぶり(笑)。まだある。オーダーする時にお約束があるのだ...。

 

客は必ず『負けてくれへんか?』と売り子に問う。すると売り子は『いいや、負けられへん。一銭(一戦)も負けられへん!』と言い返す。このやり取りは、【長州は負けない】と言う事を意味しており、当時多くの人々がこのやり取りを楽しんだと記録されている。

写真の人物は、京都守護職にして会津藩主・松平容保。

 

民意。これを彼、そして会津藩首脳部は見誤った。戦争勃発の真相はどうであれ、この蛤御門の戦いによって、会津藩の京における信用は失墜した。それは四年後の鳥羽伏見戦争において大きなしっぺ返しとなって返って来る。京阪神の庶民は熱狂的に長州の凱旋を歓迎した。そして鳥羽伏見戦に勝利するや、町の商店には薩摩や土佐の旗に混じって長州の旗【一文字三星紋】が土産物として即座に並んだと言う。

王城を護衛すべく、心血を注いで戦ったのに、京の人々は誰も認めてはくれなかった...。天皇を守る為、そして主君を守る為...良かれと思って行ったことが全て裏目に出てしまった。その象徴が【長州おはぎ】だ。

 

まだ目が完全に失明する前...

 

京に残留する彼の目に...

このグルメのブームはどう映っていたのだろう...。

この写真ほどには、あからさまには出されてはいなかっただろうが、その食材が人気になっている事くらいは耳にしていた筈だ。


この戦闘で長州を倒した会津藩や薩摩藩は、身分差別が殊の外厳しい。それは京の街においても【鼻持ちならない奴ら】と映った事だろう。身分制度自体が崩壊しつつあった長州藩の侍は、フランクで、庶民受けするスマートさを持っていたと想像する。元が侍では無かった者も多く含まれていた。

 

だが、会津は違うのである。プライドが高い。それが災いした一面もあったのではないか...。

 

一方で、我がご先祖...薩摩の【ボッケモン】どもは上手く立ち回ったものだ。禁門の変の掃討作戦では、情け容赦なく長州藩の残党を殲滅。彼らの蛮勇を考えた場合、相当エゲツない殺し方で長州人を惨殺した筈だ。だが...それほど京の人々の恨みを買わなかった。恐らく、後の民意を考慮して砲撃、放火を控えたのだろう...。そして、ここから討ち倒した長州を抱き込んで行くのだから、相当なワルだ(笑)...。

コイツには、そんなドラマが隠されている...。そう言う代物だ。

【長州は負けない!】それだけを伝えるために考案されたグルメ。

味や製法、レシピに関しては...もう、別にいいよね? 大体想像がつく(笑)


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いやはや、目から鱗が100枚くらい流れ落ちましたよ。こんなん教えてくれる人あんまいないんとちゃいまっかね。プチ雑学のようでいて、歴史を学ぶにあたり当時の情勢や空気を知るのに何より役立つお宝情報であります。おかげさまで理解度が深まりました。

お鍋尽くしからデザートまで大変おいしくご馳走になりました。

ありがた山の寒ガラスにございます!

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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