さて、幕末グルメごっつぁん投稿は終わりにして、話を「元治の内乱」後に戻そう。俗論派を一掃して長州藩内を幕府恭順路線から、武備恭順(従うフリして戦いに備える)路線に変えた高杉晋作さんでありましたが、最新の武器を手に入れるためには外国と貿易せにゃならないワケで。
いっそ下関を外国に向けて開港しちゃおうぜ、なんて言ったもんだからバリバリ攘夷派から「あいつやっぱ裏切り者だわ」と命を狙われるハメになり、愛人ちゃんと逃避行の旅に出たんですと。ヒーローなのに何故にそんなことになっちまうだか、ホント長州藩てば複雑で謎だらけな藩じゃのう。
ともあれ、この頃に長州藩は軍艦を買ったり、最新の銃を大量に仕入れたり、となる流れなわけですが、よくまあそんな金持ってたな?と。この時代、大抵の藩ってのは借金まみれだったんとちゃうんかい?と。素朴な疑問が生まれて来る。
てことで ↑ の本を読んでみたところ、謎がスルスル解けまして、知ってた歴史の見方がガラリと変わったので、それらを数回に分けて、まとめてゆくことにしやす。
⚫︎ 歴史は勝者が作るものである
というのは理解できる。こないだの「赤禰武人」や、ちょいと前の「田沼意次」などが良い例だろう。あのように、負けた方は散々な言われようで語り継がれる場合がある。反対に、勝った方は都合の悪い部分を隠して自らのストーリーを美化できる。周知のとおり長州勢は、この先の明治維新における勝者側だ。特に「伊藤俊輔(博文)」や「井上聞多(馨)」あたりは最後まで勝ち残る勝者中の勝者となるわけで。この一連の長州勢の大逆転サクセスストーリーにも、そうした脚色や改竄があったとしても不思議ではない。
だいたい「長州藩」という名前の藩は存在しないんですと(!)。正確には「萩藩」であるにも関わらず、いつの間にやら長州藩でまかり通ってしまい、私のようにそれで正しいと思い込んでいる日本人が山のようにいるらしい。それと同じく、明治維新の戦いや歴史が勝者に都合良くどこかで美化されていても、我々はそれを疑わずに信じてしまっているのだ。うっそマジかよ!である。
てなワケで、この本を読んで学んだ「うっそマジかよ事案」のうち、今回は長州藩、もとい、萩藩の「金」にまつわる驚きの事実について、以下にまとめてゆくとしよう。
⚫︎ 萩藩100万両の謎
明治4年の「廃藩置県」で藩体制が解体された際、萩藩には100万両もの資産が残っていたという。しかし、あれだけ戦争尽くしで莫大な金が出て行ったはずなのに、なおも100万両も残ってるとは、じゃあ戦争前は一体いくら持ってたんだよ?って話になるが、もともと萩藩は借金まみれの藩だったはず。ん? おかしくね?
そういや、久坂玄瑞も、高杉晋作も、伊藤俊輔(博文)も井上聞多(馨)も、とかく長州人は金払いが良いってことで京都人にも好かれていたってな話だったよな。長州ファイブを密留学させるのだって、大金がかかっとる。それにここから軍艦やら銃やら大量に買い付けるわけだけども、なんでそんな羽ぶりが良いのさ?
詳しい人が計算してみるには、文久から明治初年までに外国から購入した蒸気船は10隻で、代価はおよそ50万両。 小銃の購入は1万数千挺で、およそ10万両。大砲は慶応元年プロシャに2万両発注したことが分かっている。2500人の兵を5年間養うのにおよそ30万両かかるとして、幕末軍事費の総計として200万両は使ったはず、なんですと。
しかし、幕末時代の藩主「毛利敬親(たかちか)そうせい公」が当主に就いた1837年(天保8年)の時点で、萩藩には115万両の借金があったのは紛れもない事実。とすれば天保8年からおよそ30年の間に300万両以上の資金が生み出されたことになる。300万両とは、現在価値で最大200兆円にもあたり、これは国家全体の予算規模の2倍に匹敵する。30年かけたって、とても1藩で賄える金額ではない。
じゃあ一体どうやって萩藩はそんな大金を工面したと言うのだろうか??
その理由として、いわゆる陰謀論めいた書籍類では、ロスチャイルド家や、フリーメイソンの意を受けた長崎の武器商人「トーマス・グラバー」たちが金を貸していたとされることが多い。長州だけでなく薩摩も彼らから借りた金で武器を買い、明治維新を成し遂げたという説明だ。
確かにそれは大筋で間違いではないが、少々短絡的だ。 いくらロスチャイルドでも誰彼かまわず、金を貸すわけがない。融資をするにあたってデューデリ(財務調査)をしない銀行などないということだ。 つまり、薩長が金を借りることができたということは、ヨーロッパの銀行家たちが信用するに足る資産をこの2藩が持っていたことに他ならない。
⚫︎ 長州には唸るほどカネがある
これは大河ドラマ内での高杉晋作のセリフ。諸説あるが、幕末の長州藩は200万石相当の財力があったと言われる。他藩同様、借金に苦しんでいたはずの萩藩が、一転スーパーリッチになった秘訣は、1700年半ばに7代藩主「毛利重就(しげたか)」が行った財政改革から始まる。
重就は1763年に「宝暦検地」として、萩藩内の土地調査を行い、税対象となる新田を増やして一気に6万石もアップさせた。さらに重就はここで一計を案じる。表向きには2万石の石高増とし、残った4万石を密かに別会計としたのである。
この別会計こそが維新の時の軍資金で「撫育(ぶいく)資金」と呼ばれるものだ。撫育資金は、一般会計の“本繰”とはまったく別の極秘資金とされ、藩主直轄の撫育局によって運用された。
「撫育方の収支決算は別して密々にする」これが撫育資金のルールであった。ちなみに収益でいえば、撫育局は本繰の4倍あったとされ、このため本繰が大赤字でも、撫育は常に潤沢な資金であふれていた。こういった状況だったからこそ、幕末に途方もない軍資金を捻出することができたのだ。
とはいえ、検地によって絞り出した資金だけではまだ足りない。そこで撫育局が考え出したのが殖産の道だ。「防長四白」と呼ばれる特産品(米、紙、塩、ろう)の生産を強化。また、その特産品を流通させるため、海上交通の要所である下関などの港湾開発に着手し「越荷方(こしにかた)」を創設する。これは日本各地からやって来る商人たちのための藩直営のいわゆる倉庫業で、すぐに評判になった。
例えば、大坂で米の値段が下がっている時、北前船の米商人たちは一旦、馬関で荷をおろして越荷方の倉庫に保管、米の値上がりを待って大坂に出荷したのである。さらに越荷方は倉庫業のかたわら、商人たちを相手に米を担保に金を融通する金融業までスタートさせる。 倉庫業と金融業が順調にまわるようになると、今度は新潟藩らと組んで、朝鮮や上海との密貿易にも着手。また幕府にとがめられても言い逃れできるよう、密貿易を専門に取り締まる組織も作るなど、カモフラージュにも余念がなかった。
倉庫業と金融業と密貿易。この3つで稼ぎだした金を使って、萩藩は維新のための戦費を稼ぎだしたのである。結論から言えば、萩藩の藩庫には相当の蓄財があったのだ。ただし、それはあくまで別会計で、一般会計がどれだけ赤字になろうと、基本的には表に出て来ない金だった。この秘密の資金があったからこそ、萩藩は武器弾薬を買うことができ、藩主は100万両の蓄財ができたのである。
これが幕末の萩藩における潤沢な資金の謎の答えだ。京都の公卿たちに対しても、金の力を伴うロビー活動によって彼らを攘夷派に染め上げていたらしい。桂小五郎をはじめ久坂玄瑞などの長州藩士が、京都人にちやほやされながら大手を振ってのさばっていたのも、同じく撫育資金を資金源に派手に飲み食いしていたから、というわけだ。
なるほど、合点が入った。どおりで、やたら京都人が長州勢の味方をしたわけだ。
⚫︎ 撫育資金の真実
撫育資金と別会計。これが萩藩の武器弾薬を買い支えた源であり錬金のからくりである。これがなければ、萩藩の攘夷運動もなければ、討幕もなかっただろう。また、外国の武器商人たちも重要な商売相手として丁重に扱ったりなどしなかったはずだ。現金なグラバーなどは、最初の取引では即金にこだわっておきながら、彼らに金があると知った瞬間「お二人(井上と伊藤)が取引を始めれば100万ドルぐらいの金はいつでも用立てるので決してご心配には及ばぬ」という絶大なる信用保証まで与えたほどだった。
そういう意味では、この秘密資金は画期的なファイナンス・システムであったと言うことはできるだろう。しかし、これら撫育資金は庶民を絞ることによって誕生した金である。
再検地とはどこの藩もそうだが、最初から加増ありきで行われるもので、宝暦検地の時は畦道まで耕作地とみなし、家の近くにたまたま生えていた実のなる木々まで年貢の対象にした。プラス6万石は、そうやって無理やり叩きだした数字なのである。もちろん石高が増えれば、その分、年貢も増える。加増のしわ寄せは農民たちに重くのしかかっていく。
結果、萩藩は農民一揆が多発する藩として知られるようになる。特に、1831年(天保2年)に起きた「防長大一揆」では13万人以上の民衆が蜂起した史上最大の一揆に発展している。
撫育資金は、萩藩の領民たちから絞りとった重税を原資として構築されていた。もしも、幕末にこの金がなければ、萩藩は攘夷を唱えることも、討幕を実現させることもできなかったはずだ。しかし「防長大一揆」のようなものも起きはしなかった。もしも、一般会計に組み入れていれば、戦争はできなかっただろうが、人々が貧困に苦しむこともなかったのだ。
この後、萩藩は幕府を倒し、新政府を樹立する。維新の志士たちはそのまま要人となり、今で言う「官僚」は長州閥によって独占される。これが意味するものとは、新政府の官僚制度は長州閥が作り上げたということである。現在の財務次官にあたる大蔵大輔が「井上馨」で、彼はのちに大蔵卿(現在の大蔵大臣)となる。また、局長クラスにあたる大蔵少輔は、のちの総理大臣「伊藤博文」が担っており、大蔵省はその初期から長州閥が牛耳っていた。
萩藩時代、この伊藤&井上コンビは下関(馬関)で、撫育局直属の外人応接係を担当しており、その上司である「桂小五郎(木戸孝允)」は越荷方のトップであった。さらに、その越荷方の現場役として采配を奮っていたのが、あの「高杉晋作」だった。そう。長州出身の志士たちはみな撫育局員だったのである。
撫育局の人間ならば、撫育資金と別会計の重要さは痛いほどわかっていただろう。一般会計とは一切連動しない、自分たちが好き勝手に使える金。これを密かに蓄えておくことの重要性は彼らが一番よくわかっていた。明治の官僚機構は、そんな彼らが作ったものであり、その制度は約150年経った現在でも「特別会計」として継承され、ほとんど変わっていない。
日本の官僚制度はエリートによる権力支配であり、これは明治新政府を支配した長州閥によって作られた。これを打破しようとこれまで多くの政治家たちが制度改革に取り組んだが、一度として成功したことはない、強固な制度だ。
つまり、現代に続く、裏会計思想の嚆矢は、萩藩の撫育資金であり、元撫育局員で大蔵官僚であった伊藤博文、元撫育局員で大蔵大臣であった井上馨、元撫育局トップで明治政府参与であった木戸孝允らが、その制度の中に埋め込んでいったものなのだ。
一般会計の数倍の資金力を持ちながら、何があっても一般会計とは無関係。中身を公にせず、使用目的も議会の承認を得る必要がない(=藩主のOKさえあればいい)。そして担当者によるムダ遣いまでそっくりである。
考えてみれば、萩藩の志士たちは湯水のように金を使っていた。 高杉晋作は1862年(文久2年)幕府の視察船で上海に向かったが、物資の補給のため長崎で約100日間の足止めをくらっている。この間、彼は毎晩のように豪遊し、芸者の身請けまでして藩からもらった渡航費を残らず使ってしまった。そのため、船が出航する際には買った芸者を転売し、その金を持って上海に向かったほどだ。
さらに、上海から帰国すると長崎で見た蒸気船にほれこみ、藩の許しも得ずに売買契約を結んでしまう(結局、藩は金を出さず、契約は反故になるが)。1866年にはやはり長崎でトーマス・グラバー所有の艦船オテントサマ丸を3万6000両で衝動買いしている。
井上馨にしてもそうだ。イギリス密航資金として藩から渡された600両を、伊藤らとどんちゃん騒ぎで全額使いきってしまっている。肝心の留学費用は、江戸屋敷の撫育金を担保に、萩藩出入りの豪商に5000両借りて工面している。藩の一般会計は切迫しているというのに、100両、200両などハシタ金といわんばかりに当たり前のようにムダ遣いしているのだ。
歴史学者の中には撫育資金の説明として「特別会計のようなもの」という人もいるが、それは真実ではない。 真実は、特別会計“のようなもの”ではなく、特別会計“そのもの”なのだ。
以上、今回の「うっそマジかよ案件」はここまで、であるが、もうこれだけでも相当に見る目が変わってしまった。今までは長州勢って、とにかく攘夷ジョーイと大義のためならば立場の悪化も省みず突き進む熱い奴ら(バカ)なのかと思ってきたが、なんだか資金面で随分とズル賢い奴らじゃないか。
領民から絞り上げた金をジャブジャブ使って女遊びしておきながら「国のため」とか「民意じゃ」とか、どの口が言いよるんか。これを知ってしまうと、もう討幕運動にロマンも何も感じられん。そのへんの事情を取り繕うため、途中で死んでいった奴らをやたらヒーローとして脚色したな、さては。のちに明治政府は「讒謗律(ざんぼうりつ)・新聞紙条例」を出して、政府批判の言論弾圧を行ってるし。
久坂玄瑞も、高杉晋作も、気高き志士かと思いきや、ちゃっかり妾はつくって楽しんでるし、なんか変だなとは思っていたが、そーゆーことかお前ら!
良いように描いてんじゃねーし。
参考
https://media.rakuten-sec.net/articles/-/13155
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=495
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