vol.117「慶應元年のゴタゴタ」について


幕府は第一次長州戦争に勝利し、元号を忌々しい「元治」から「慶應」に変え、これまでのゴタゴタが終わったアピールをしようとする。が、残念ながらゴタゴタは終わらない。なぜなら長州に勝ったと思ってるのは幕府ばかりで、ほんとは誰にも何にも勝っちゃいないからである。だって戦ってすらいないのだから。


そんな中途半端な状態で、とりあえず改元した慶應元年は、いったいどんな年だったのであろうか。ちょいと調べてみましょうか。




⚫︎ 自らを過信するバカ幕府


幕府は長州藩が藩内急進派を処刑し、「純一恭順」の態度を表したことにより幕府の権威が今なお盛んであると錯覚して、かさにかかったように旧来の方針に従って長州を圧迫。和議の成立により、長州藩は屈服したものと解し、恭順した長州藩への処罰は、藩主父子を江戸へ召喚して行う旨を宣言した。加えて、諸大名に命を発し、前年に復活を命じていた参勤交代の実行を厳命。あたかも幕閣の盛時を思わせる勢いであった


2月5日と同7日、老中「本荘宗秀」同「阿部正外」が二波に分かれ、幕府歩兵4箇大隊3000名を率いて上洛した。この狙いは朝廷を示威することだけでなく、「一橋慶喜」を将軍名代から下ろし、松平容保を京都守護職から、同定敬を京都所司代から罷免して江戸に連れ戻し、幕府からみれば朝廷と気脈を通じている「一会桑」を朝廷から切り離そうとするところにあった。朝廷周辺には30万両の賄賂がばらまかれ、これを以って朝廷諸役を買収しようとした。


朝廷としては率兵上京により京に生じさせた混乱の責を黙しがたく、本荘・阿部両名に参内を仰せ付け、国事掛の公卿が列席する席で、大声で両老中を叱責した。老中らは恐懼して弁明につとめたものの聞き容れるところとはならず「ただちに東帰して将軍上洛を急がせよ」とする勅諚を受けた。老中両名の率兵上京は逆効果に終わったのである


ところで、幕府はさきに越前に残っていた水戸天狗党を徳川慶喜(禁裏守衛総督)をして征圧せしめ、武田耕雲斎ら筑波西上勢は越前において加賀藩に降伏したが、幕府は2月、351名にも上る叛徒を斬首した。このことは威嚇的効果を狙ったものであろうが、示威に過ぎたきらいがあり、長州藩に対しては逆効果をもたらした。幕府が天狗党の降伏者の全員をむごたらしく斬首したという話は、長州藩が和戦両様の構えを捨て、徹底抗戦に踏み切るについて大きく影響したのである。


慶應元年、いよいよ進発の日取りが5月16日と布告された。幕府が掲げる将軍進発の目的は、江戸下向の幕命に従わず改悛の情を示さない長州藩の「征伐」にあり、あくまでも幕府の権威を誇示するのが目的であった。しかし、幕府世論は決して進発に乗り気ではなく、旗本たちの士気はさほど高くなかった。内心では「将軍はまさか本当に長州までは行くまい、大坂を経て姫路ぐらいまで進めば済むだろう」と甘く考えていた節があるという。


しかし、慶応元年5月16日、将軍家モッチーは江戸城を発し、再び帰ることのない征旅の途に就く。江戸の群衆が大勢で見物する中の壮麗な軍事パレードであった。この日、誰一人として幕府軍の大勝利を疑う者はなかったであろう。




⚫︎ 長州再征の勅許


長州藩は元治元年11月に三家老を自裁させ、その首級を征長軍に差し出したが、これは伏罪の証として行われたものであり、その後藩主父子の処分、藩の削封、これを前提とした毛利家の相続等が幕府から申し渡される段取りであった。このような処分は幕府の威勢が上がっている時代であれば幕命を以って行い得たのであるが、今次幕府は長州処分を朝命を奉じて遂行する方針をとった。そうである以上、戦後の処分も朝命に従おうとしたのも当然と言えば当然であるが、外様藩の処分を自力で行うことができなかったという点からみれば幕府権力の衰退をみることができる。


しかし、長州側は幕命を拒絶する旨を決定、遷延策をとる。これに対し、幕府としては威圧をかける以外にはなく、「いついつまでに上坂すべし、さもなくば追討する」と伝達したが、これにも服する見込みはないとみて、将軍家茂は入京し、長州追討の勅許を奏請した。


他方、長州藩側は藩内革命後、三家老を処罰したことで禁門の変に関する謝罪はすべて済ませた。これ以後糾問には応ずる必要はないとして拒絶し、朝敵となっても何らやましいところなしとする確乎とした立場に立つまでになっていた。この頃、長州藩や薩摩藩は朝命というものを生身の「天皇」の意思ではなく、「制度としての天皇」によって作成される抽象的な意見表明(公共にとって肯うことができるか、もしくは受ける側にとって好都合な意見)と解するようになっていた。


すでに長州寛典論に傾斜している薩摩藩(大久保一蔵)は、長州処分と外国交渉に関しては、諸大名を京都に召致し、天皇臨席のもとに衆議によって決定すべきだとして朝議参加者達に入説する。公論結集を眼目とした新たな機関の創設を求めるものであった。しかし、かような衆議による決定こそ一会桑の立場からみれば嫌忌するべきものであり、到底容れらるべきものではなかった。


宮中では長州再征をめぐる朝議が開かれ、夜を徹しての大論戦となった。大勢は再征勅許に傾いたが、その様子を聞いた大久保は直ちに二条関白の邸に乗り込んで談判に及び、定刻に至るもやめず、身体を張って関白の参内を阻止した。大久保の行動に激怒した慶喜は、一座の面々に、「一匹(ひつ)夫(ぷ)の策謀で朝旨が左右されるようなら、将軍以下は辞職する他なし」と恫喝を加えて、衆議を長州再征の勅許を取り付け方向で一決させた。


他方、大久保は朝議に関わった朝彦親王のもとに入説し、「勅命と可申候え共(もうすべくろうらえども)、非義の勅命は勅命に非ず」という後に有名になる一句を親王に吐き、朝議の再審議を求めたが、不発に終わった。翌日にも大久保は朝彦親王邸に参上し、「朝廷是かぎりと、何共(なんとも)恐入次第(おそれいるしだい)」との捨てゼリフを残して、そのまま退出した。


こうして朝幕協調体制が確立し、それを一会桑グループが仲介するという構図が出来上がった。




⚫︎ 四国連合艦隊と兵庫開港要求


それで愈々長州へ向け進発、と見えたが、ここに長州再征のスケジュールどころか外交の根本に触れる大問題が生じた。慶応元年9月16日、英・仏・蘭の軍が艦隊を組んで兵庫沖に来航し、兵庫の開港を迫るという難問をつきつけたのである。ちなみに、アメリカ合衆国だけは艦隊を派遣しなかったものの、公使が同行しており「四カ国艦隊摂海侵入事件」などとも呼ばれる。


兵庫港は、安政5年(1858年)に締結された日米修好通商条約およびその他諸国との条約(安政五カ国条約)により、西暦1863年からの開港が予定されていたが、異人嫌いで知られた孝明天皇が京都に近い兵庫の開港に断固反対していた。このため、幕府は「文久遣欧使節(開市開港延期交渉使節)」を派遣し、英国と「ロンドン覚書」を交換し、兵庫開港を5年間延長して1868年1月1日とすることとなった。


1863年から1864年にかけて長州藩(正しくは萩藩)と、イギリス・フランス・オランダ・アメリカ合衆国の四カ国との間に下関戦争が勃発し、敗れた同藩は賠償金300万ドルを支払うこととなった。しかし、長州藩は外国船に対する砲撃は幕府の攘夷実行命令に従っただけであり、賠償金は幕府が負担すべきとの理論を展開し、四カ国もこれを受け入れた。幕府は300万ドルを支払うか、あるいは幕府が四カ国が納得する新たな提案を実施することとなった。


英国の新公使ハリー・パークス」は、この機に乗じて兵庫の早期開港と天皇からの勅許を得ることを計画した。パークスは、他の三国の合意を得、連合艦隊を兵庫に派遣し(長州征伐のため、将軍徳川家茂は大坂に滞在中であった)、幕府に圧力をかけることとした(賠償金を1/3に減額する代わり、兵庫開港を2年間前倒しすることを提案した)。


折しも「無勅」に藉口して、攘夷運動の先鋒をなしていた長州藩は禁門の変以降朝敵となり、朝命を帯びてこれを征討すべく将軍が下坂している。この際四箇国代表団が、条約締結に対する最後の、そして最大の反対派である朝廷から「条約不許」の発言を取消させ、安政条約を承認させたいものと考えたのは政治判断としてタイムリーであった。国内の政情が大混乱にあるなか、「いまこそ絶好のチャンス」とばかり、弱みにつけ込んで交渉を挑むのは列強の昔からの常套手段であり、ここでもそれを用いたのである。


幕府は老中「阿部正外」および「松前崇広」を派遣し、9月23日から四カ国の公使との交渉を行わせた。四カ国は、幕府に対して「兵庫開港について速やかに許否の確答を得られない場合、条約遂行能力が幕府にはないと判断し、もはや幕府とは交渉しない。京都御所に参内して天皇と直接交渉する」と主張した。四カ国の強硬姿勢から要求を拒むことは困難と判断した阿部、松前の両老中は、2日後やむをえず無勅許で開港を許すことに決めた。パークスらが京都へ押しかけて朝廷と直接交渉されては一大事。ここは幕府の権威を示すためにも勅許なしに兵庫を開港すべきであると考えたのである。


これに慶喜が横槍を入れた。慶喜はいったん確定した幕閣の決定を覆し、阿部の報告する回答期限はブラフ(虚喝)の類いでさほど切迫性がないと見て10日間の回答猶予を四箇国側に認めさせたうえ、幕議の再審議を図った。阿部・松前は「もし諸外国が幕府を越して朝廷と交渉をはじめれば幕府は崩壊する」とした自説を譲らなかった。朝廷は、阿部・松前の違勅を咎め、両名の官位を剥奪し改易の勅命を下し、両老中は解任されてしまった。朝廷は、独断で兵庫開港を承認したとしたとして両老中に責任を取らせたのである。人事に対する露骨な介入であり、幕閣一同は歯がみをして悔しがった。


慶喜は、両老中が幕権主義者に持ち上げられて幕府を切り回すのを好まず、参内して二条関白となれ合いで両老中排斥の裏工作をしたという風聞が立った。万更、噂話にはとどまらない信憑性がある。こうして立場がなくなった将軍家モッチーは、10月1日、突然在坂の幕臣に総登城を命じ辞表を提出し「辞職して江戸に帰る!」と言って10月3日、現実に出発したのである。朝幕関係は分裂の危機に瀕した。自分は無能だから辞職する、後継ぎは慶喜に相続させてやってほしい、などと皮肉まじりに慶喜の野心をアテツけたという。


しかしこの騒動は、東帰する将軍の行列を慶喜が騎馬で追いかけて伏見で引き留め、膝詰めで説得して翻意させるという結果となった。分裂した幕閣の醜態が幕府最大の危機のさなかに衆目に晒された。慶喜は家茂を連れ戻し、次いで参内し朝議の開催を要求した。


朝議は4日から5日深更に及び慶喜は「かくまで申し上げるもご許容なきにおいては、それがしは責めを引いて屠腹すべし、そうなれば家臣たちは各々方にいかなることを仕出かさんも知るべからず」と慶喜は公卿たちを恫喝し、佐幕派の賀陽宮朝彦親王を通じて「条約勅許がなく開戦となれば、京摂はたちまち火の海と化し、皇位の安泰もおぼつかなく、伊勢神宮も灰となりましょう。すみやかに勅許のほどを」と孝明天皇に迫った。10月5日、諸藩の代表が招かれ諮問に与り、遂に条約を勅許するとの結論が出た。


10月7日、幕府は孝明天皇が条約の批准に同意したと、四カ国に対して回答した。開港日は当初の通り慶応3年12月7日(1868年1月1日)であり、前倒しされることはなかったが、天皇の同意を得たことは四カ国の外交上の勝利と思われた。また、同時に関税率の改定も行われ、幕府が下関戦争の賠償金300万ドルを支払うことも確認された。




⚫︎ 大坂に滞留する征長軍


慶応元年5月16日に江戸を出立した軍勢の行軍速度は著しく緩慢であり、将軍が入京したのは6月に入ってからのことである。35日もかかっている。幕府の召集に応じて下坂してきた諸藩兵の正確な数は手許にないが、第一次征長軍が15万というから、おそらく幕府歩兵を含めると10万ともいわれる軍勢が応召して続々と大坂に入ってくる。


しかし大坂まで出兵したものの、いざ来てみれば京都朝廷からは征長の詔勅がなかなか出ない。慶応元年6月に将軍が入坂してから、翌2年6月に長州藩に宣戦を布告するまで1年以上も大坂に駐屯して、澱んだ水のように動かず、結果として長州側に時間稼ぎを許すことになった。


大坂市中一帯に軍服姿の将兵が溢れかえって活況を呈していたとはいえ、やがて長期滞留にすっかり倦んできた。将と兵とを問わず、運よく戦争が起きずに国許へ帰れるのではないかと考えはじめるようになったのは、人心のゆきつくところやむをえなかった。調練は行われたにしても、1年以上も大軍が消費一方の生活をするのだから諸経費はかさむ一方で、将軍の大坂滞在中の支出は、戦費を除いても、慶応元年5月から翌2年5月までの1年で、すでに315万7446両に達していたという。


戦時インフレーションが進亢し、炭・薪・油など生活物資の価格は高騰し、5月には米騒動が発生し、ほどなく騒動は江戸にも波及した。幕府勘定方は財源を求めるのに必死で、慶応2年4月中には大坂の富商に252万5千両の献納を命じている。  



 

ふむふむなるほど、慶應元年ゴッタゴタですな。

せっかく改元したのに、元年からもう揉めに揉めてて縁起わるっww

そしてこれが江戸時代最後の改元となるのか。。家モッチーと和宮ちゃんも二度と会えなくなるし、いよいよ終焉の時が迫って来ましたね。

って、これもう家モッチーではなく慶喜の悪い笑顔にしか見えないんですけどww



参考
https://www.mclaw.jp/column/tsutsumi/colum47.html
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/兵庫開港要求事件

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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