vol.118「幕末の謎」について②


「日本において体制の変化がおきるとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない」


これは、イギリスの「ハモンド外務次官」から、イギリス駐日公使「ハリー・パークス」に宛てた通信の一説である。なんとも意味深な言葉であり、イギリスが幕末の日本を影からコントロールしていたことを吐露しているような文言だ。この一節は、陰謀論系の維新本では必ずと言って良いほど引用され「イギリス謀略説」を裏付ける元となっている。


また「伊藤俊輔(博文)」「五代才助(友厚)」「寺島宗則」ら、薩長の英国留学生たちは、パークスらの通信文の中で「エージェント」と呼ばれていた。通常「エージェント」と言えば「スパイ」の意であり、これらの事実も「イギリス謀略説」に一層の説得力を与えている。


ってことは、やはりイギリスが薩長などの雄藩を裏から動かし、討幕に向けた維新を促進したのであろうか? 今回はそんな「イギリス謀略説」についての検証をお届けしよう。





⚫︎ 英国さんの反論「それやってウチらに何の得があるってんですか」


あのですね、ウチら大国ですよ、大国。日本は小国ですよね。日本なんて黒船で乗り込んだだけで、ブルって不平等条約にサインするような脆弱な国ですよ。それを、わざわざ裏工作して、政権トップすげ替えるような回りくどいこと、するワケないじゃないですか。


だいたい、ウチらと和新条約や通商条約を締結したのは、幕府なんですよ。貿易を進める上で、ウチらがバックアップするべき勢力は当然、幕府に決まってるじゃないですか。単なる地方勢力に過ぎない上に、反欧米勢力でもあるDQNな長州や、生麦事件でイギリス人を殺した薩摩などに肩入れする必要なんか、これっぽっちもないですって。


それでもあえて薩長の味方するってんなら、まずは両藩内にウヨウヨいる過激な尊攘派を一掃して、親英派で固め、それから幕府転覆をはかる、とか、二手間も三手間もかかる、まだるっこしいことをしなければならないワケで。そんな面倒なことするメリット何かあります?


しかも、ウチらイギリスは、フランスが幕府陸軍をレベルアップさせるべく、フランス陸軍の教官派遣をしたというの聞いて、競うかのように英国海軍教官団を日本に呼び寄せてます。これって幕府の海軍力の増大を意味するワケで、反幕府勢力にとっては、めっちゃ脅威でしょう。味方どころか敵、の動きですよね。


こんなイギリスの、どこが薩長寄りですと? はっきり言って、イギリスは常に幕府側に立ってましたっての。それなのに「イギリス謀略説」とか言われんの、意味わからないんですけど。





⚫︎ ハリー・パークスさんの弁明「誤解させるような動きしてスミマセンネ」


ああ確かにワタシ、薩摩訪問しましたよ。それが怪しい怪しいってみんな言うんで、弁明しときますけど、誤解ですそれ。確かに、このころ第二次長州征伐で、幕府軍と長州軍が萩藩の国境を挟んで睨み合ってた時期だったんで、このタイミングでの薩摩訪問は、幕府の不信を買いましたわね。


実際、フランス公使のロッシュ君は、幕府からの依頼を受けてワタシが薩摩に行かないよう、捕まえて説得するために長崎まで来てましたからね。結局すれ違いで会わなかったけど。だからって、ワタシ別に薩摩に擦り寄ってたワケじゃないですよ。薩摩の芋侍どもが、やたら兵庫開港に反対してるもんだから「なんでそんなに嫌なのよ?」って理由を聞きに行っただけなんですってば。


そしたら西郷どんは「今の体制のままでは幕府が貿易を独占して息を吹き返す可能性があるから一旦それを阻止し、朝廷の調整のもと大名会議を開いた上で、各藩足並み揃えて広く日本を開港したいからでごわす」って言うんですわ。それ聞いて、なるほどなと納得しましたけども、一応「ウチらは日本の誰が利益を独占しようとも正直構わんのだから二度と開港の邪魔しないでよ」と釘刺して帰りましたし。





⚫︎ ハモンド外務次官の証言「あの文章はパークスの暴走を戒めるための言葉」


我々イギリスの立場は極めて明確です。イギリスにとって重要なのは貿易であり、それを阻止しようとするものは何者であれ敵、それを促進するものは何者であれ味方、という点で一貫してます。


ミーが書いた「それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない」て言葉の意味はですね、内政干渉する気がないイギリス本国としては、ハリー・パークスに対して「あまり派手に動いて、イギリスが関与しているような印象を持たれることは避けるように」と指示してるだけです。


ですから、この通信文は「これこそイギリスの陰謀の証拠だ!」と大騒ぎするほどのモノでは決してございません。インドや清を植民地にし、大規模な搾取を行ったイギリスは、インドの独立戦争やアヘン戦争を引き起こし、そのために財政難を招いて、現政権の支持率も下げてしまってるんです。武器商人が太るだけで、イギリスの国益的にはなんのメリットもない内政干渉など、懲り懲りだったんですよ。





● 名探偵による考察(って言うテイで)「犯人はこの中にいます」


、、以上の聞き込みの結果、結局イギリスもフランスも幕府寄りであり、若干パークスが薩長の今後の躍進を視野に入れていた節はあるものの、肩入れするほどではなかったようだ。となると「イギリス謀略説」は、ただの陰謀論に過ぎないのだろうか?


いやしかし、まだ「エージェント」という言葉の謎が残っている。次はこの言葉に多く関わっている「ある人物」を調査してみよう。その人物とは「イギリス駐日通訳官アーネスト・サトウ」である。


彼は初代イギリス総領事オールコックの時からの通訳官で、当時の公使館の中では最も在日経験が長く、日本語にも堪能。幕末の日本は、攘夷派が急に開国派に変わったり、佐幕派がコロッと倒幕派に変わる混沌とした時期。そんな複雑怪奇な日本の実情を目の当たりにしてきた外国人は、このサトウだけである。


薩摩を攻撃した1863年の薩英戦争、長州の馬関を攻撃した1864年の下関戦争に参加し、薩摩の「五代才助」「松木弘安」や、萩藩の「伊藤俊輔」「井上聞多」と胸襟を開いて会話ができたのも彼だけ。当時の日本の情勢と、武士たちの動向を最も理解していた外国人は彼以外にはいなかった。


そんなサトウだが、加賀藩に七尾港を開港しないかと交渉に行った際「加賀藩から2人の武士を弟子にしよう」と言ったとか。サトウの弟子。それは加賀藩にとっても英国にとっても役に立つ、英語と諸外国の文明、制度に精通した侍を育成するという意味以外にはとれない。しかも、これまで何人もそういった“弟子”を育成してきたような口ぶりである。


そう。これこそがエージェントなのだ。 サトウが創りだした弟子、それがイギリスのエージェントであり、同時に各藩のエージェントだった。 つまり、サトウは実質的なスパイマスターの役目を幕末の日本で果たしていたのである。


サトウの弟子。彼らは、いつかは攘夷を行うため、外国の知識を学ぶべく各藩から送られたエージェントであり、それは同時にサトウからイギリスの思想を植え付けられ、イギリスのエージェントにもなってしまう侍たちのことである。そして、多くの場合、彼らは密航留学生であった。


例えば「長州ファイブ」と呼ばれる5人は、文久3年5月12日にイギリスに密航している。しかし、そのたった2日前の5月10日には、萩藩は外国船に砲撃を開始している。外国船を攻撃しておきながら、外国に藩費を使って密留学するのは、どう考えても辻褄が合わない。


また、外国船に攻撃しておきながらイギリス船には攻撃していないのも不思議である。 イギリス船が砲撃を受けなかったのは偶然かもしれないし、前もって知っていたのかもしれない。しかし、イギリスに密航留学生を送る一方で、イギリス船を攻撃しないのは、両者がどこかで内通していたのではないかという疑惑はぬぐえない。


もちろん、彼らがイギリスと通じていたことの物的証拠などはあるわけがない。たとえあったとしても、のちに明治の元勲となった、伊藤、井上らがそんなものを残しておくわけがないからだ。しかしながら、ある面白い状況証拠がロンドンで発見されている。


実はこの伊藤、井上の両名は「長州ファイブ」と言われる割に、他の3人とはかなり別行動を取っている。彼らが通っていたユニバーシティ・カレッジは、年度毎の学生登録簿が保存されており、これを見ると学生たちがどんな科目を聴講し、いくら聴講料を支払ったかが分かるのだが、記録を見ると他の3人は最初に7ヶ月分の学費を納めているにも関わらず、伊藤は聴講料を2カ月分しか入れていない。井上にいたっては金さえ払っていない。


そして2人は留学してから半年後、四カ国連合による長州攻撃が開始されると知り、戦争を止めるべく急遽帰国している。それはあくまでアクシデントであり、最初の予定では2人も他の3人らと同様に数年間留学する予定であったはずだが、留学目的で渡英していながら大学に金を払わないというのは不自然である。


もしかすると、最初から伊藤と井上だけは早めに帰ることが決まっており、伊藤は2カ月分しか学費を入れず、元来が遊び好きの井上は大学にも通わずに“遊学”を繰り返していたのではないだろうか。


そもそも、文久3年5月10日に萩藩が外国船を無差別砲撃することを、伊藤たちは前もって知っていた。伊藤自らが後にそう語っているので確かだ。であるのに「四国連合艦隊が報復に出ると聞いて驚き急遽帰国した」というストーリーには違和感がある。「帰る国がなくなっては元も子もない」という理由で2人は帰って来るが、それなら出国する前に思いとどまるのが普通だろう。これから攘夷をやろうという時に、攘夷の本家本元イギリスに行く方がやはりおかしいのである。


前回の長州の「潤沢な撫育金」と言い「伊藤と井上の怪しい行動」と言い、どうやら、我々が聞かされてきた美談的ストーリーには、嘘が含まれているようですね。。





● 名探偵による解決編 サトウ:「証拠を出しないさいよっ証拠を!」


実は、あるんです。サトウさん、あなたはご自身の著書の中でこう書いてますね。


「もしもイギリスが自ら日本を統治しようと思えば、できなくはない。何しろ、この国の人民には服従の習慣があるのだから。ただし、そうするためには言葉の壁を乗り越える必要があり、その試みはたぶん失敗に終わるだろう。そんなことをするよりは、せっかく侍階級があれほどたくさんいるのだから、彼らに統治させるのが一番だ」と。


これは「日本人を統治するのは侍階級に任せるべきであり、イギリスは侍階級だけを統治すれば日本を掌握できる」とはっきり言っているも同然です。さらに、あなたはこうも書いている。


「従来、我々が日本で経験してきたことからすれば、小競り合いをすることによりかえって日本人の目が開け、以前に増して外国人のすべてと親しくなるようになろう」と。これはつまり「日本人を制するには実力差を見せつける方が効果的だ」という意味ですね。さらに、こうも書いている。


「これには、桂(小五郎)も同意見であった」と。


桂小五郎が同意見ということは、小競り合いとは下関戦争のことであり、薩摩で言えば薩英戦争のことでしょう。イギリスはこの2つの戦争によって日本に「橋頭堡(不利な地理的条件での戦闘を有利に運ぶための前進拠点の意)」を築いたことを、この言葉で認めたようなものではありませんか!


日本人が多少反発してきても、圧倒的な戦力でもって潰してしまえばいい。一度、実力差を見せつけておけば、日本はその後、従順になり、尻尾を振ってくる。これが当時のイギリス人たちが経験的に学んだ日本統治法だったのです。


これがイギリスの外交なのです。恫喝と搦手(からめて)、飴と鞭を巧みに使い分けながら、幕府勢力と反政府勢力を共に操り、最終的においしいところをいただくのです。そのやり方は今でも健在だ。日本の官僚たちをアメリアやイギリスに留学させて、彼らの考え方を学ばせるとともに、その国の政治家、有力者とのパイプを作る。それが日本に帰った時の力となり、外国からすれば日本における楔となるのです。


そう。留学生はそもそもエージェントであり、それは21世紀の現代でも変わらないのです。どうです、サトウさん! 違いますかっ!?


サトウ「ふっふっふ、、そこまでバレたのでは仕方ありませんね。。

しかし、貴方は大事なことを見落としている!

それが何かは、自分でよく考えてみることですね!」



「な、なんだと、、」(幕末の謎③に続くw)



参考
https://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/B01M66H9QQ/ref=tmm_kin_swatch_0?ie=UTF8&dib_tag=se&dib=eyJ2IjoiMSJ9.TC_oXwO7aNldJFGtWYWMIb7cqSAB7Exv05GrO7RFDu-mMIi_7L7uh9c-EZ39c8LPau1ws5R3Mx9N9BBteOlmEWacgeNhbDbvAuZB-m5XXD6422TBzU-SGiqB6OgTpbiIvkp8r_PeP1Jg51eivFiqFVUD6Rj_1tPwc6sdh6sXn9TgvquBVrOvv67YKzzfo-y-l5ou_uzzCXvo1lB4SPpfVQ.0imPA6NkywU8lowqIkMzjwKWQumsOWMlJDMpo1a1P_Q&qid=1738810897&sr=1-7

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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