幕末の謎を解き明かしてゆくと、なんだか歴史の見え方が変わってしまい、なんだか素直に学べなくなってきた。もはや通説には胡散臭さをプンプン感じてしまうし、かと言って真実系もそれはそれで受け入れ難い。よって、なかなか筆が進まない。
しかし、ここで挫折してしまうのも悔しいので、ひとまずは薩長同盟について通説のままにまとめてみよう。
幕府による長州藩(萩藩)への第2次長州征討が刻一刻と近づくなか、京都・二本松にある薩摩藩の藩邸に、敵対しているはずの長州藩士「桂小五郎」らが訪れ、薩摩・長州藩の会談が行われる。のちに薩摩藩家老「小松帯刀(たてわき)」邸へと場所を移し、薩摩藩と長州藩の間に盟約が結ばれたのが「薩長同盟」である。そうね。
敵対していたはずの薩摩と長州がなぜ盟約を結んだのか、当時の状況も踏まえつつ背景を合わせて解説しよう。どこまでホントなんだか分かりゃしないが。(そう思っちゃうと書くのがバカバカしくなる、泣)
⚫︎ 確かに同盟を組むべき局面ではある
薩摩と長州は、京都を中心とする幕末の政治世界における「雄藩」として大きな影響力を持ったが、薩摩藩は「公武合体」の立場から幕府の開国路線を支持しつつ幕政改革を求めたのに対し、長州勢は急進的な「破約攘夷論」を奉じて反幕的姿勢を強めるなど、両者は容易に相容れない立場にあった。
薩摩藩は文久3年(1863年)8月18日に、会津藩と協力し、長州藩勢力を京都政界から追放(八月十八日の政変)。翌元治元年(1864年)7月19日には上京出兵してきた長州藩兵と戦火を交え、敗走させる(禁門の変)。ここに至り、両者の敵対関係は決定的となる。
禁門の変で朝敵となった長州勢は、幕府から第一次長州征討を受けるなど、窮地に陥った。一方で薩摩藩も、自藩の主張する幕政改革の展望を開くことができず、大久保利通や西郷隆盛らを中心に幕府に対する強硬論が高まっていった。
長州・薩摩間の和睦は、第一次長州征討中止の周旋や、五卿の太宰府延寿王院への受け入れに奔走していた福岡藩の尊皇攘夷派の周旋によって、イギリスの駐日公使であるハリー・パークスが高杉晋作と会談したり、薩摩や同じく幕末の政界で影響力を持っていた土佐藩を訪問したりするなどして、西南の雄藩を結びつけさせたことに始まる。
長州藩の失脚後、幕府は「一会桑政権」のもとで、にわかに勢力を盛り返しつつあった。慶喜から「第二次長州征伐」の命令が出されると、薩摩は次は自分たちが幕府の標的にされるのでは?と考えていた。そこへ、土佐藩の脱藩浪人で、長崎において「亀山社中(後の海援隊)」を率いていた「坂本龍馬」や「中岡慎太郎」が、犬猿の仲である両藩に対し「雄藩同士が手を組めば討幕も夢じゃないぜよ」と薩長同盟の会談を勧めた。
薩摩は幕府側として第一次長州征伐に参加したが、戦争のために多くの費用がかかることを懸念していた。そしてそれが薩摩など雄藩に対する幕府(慶喜)の狙いでもあることを分かっていた。薩長同盟を結ぶことで、長州征伐への参加を回避できるため、倒幕を進めたい薩摩にとっても悪い話ではない。
一方、長州勢は完全に孤立していたため、第二次長州征伐が始まれば勝ち目は無かった。他藩と同盟を結べるなら願ってもない話であるが、よりにもよって薩摩藩とは。禁門の変で京から追い出された恨みは深く、反対派を説得できるかどうか正直、自信がない。
⚫︎ 龍馬の奮闘で何とかディールに
龍馬と中岡慎太郎の周旋により、慶応元年(1865)閏五月、下関での薩長の会合が用意される。しかし、薩摩の代表であった西郷が会談延期を申し入れ、破談となってしまう。桂にしてみれば、藩内に蔓延する反薩摩の気運を抑えてまで薩摩と手を結ぼうとしたのだが、結果的に煮え湯を飲まされたかたちになる。
仕切り直して慶応二年(1866)再び会談の場が設けられた。今度こそ同盟を結ぶための会談が行われるはずであったが、ことはすんなりとは進まず、坂本龍馬が京都に到着する1月20日までの10日間にわたって議論は膠着状態に。すでに会談は終わったものと思っていた坂本龍馬が桂小五郎から状況を聞くと、会談が膠着状態にあり打ち切って帰ろうと考えているという驚きの答えが返ってきた。
自分達のほうが立場は上だから長州から話を切り出すべきという薩摩藩と、幾度にもわたり攻撃を受けてきた薩摩に対してこれ以上頭を下げるわけにはいかないという長州、それぞれが体面を重視するがゆえに会談は難航。そこで坂本龍馬は、桂小五郎にもう1度会談に応じるよう説得する一方で、薩摩藩の中心人物である「西郷隆盛」のもとに向かい、長州が抱える事情を説明したうえで薩摩側から話を切り出すよう要請。
さらに、龍馬は両藩に利害関係をもたせることを提案。薩摩で不足する食糧を長州から提供し、薩摩藩は長州が購入を禁じられている武器を「グラバー商会」から薩摩藩名義で購入し、長州に回送する――。かくして両藩の疑念は解消され、薩長同盟成立に至ったのである。
この薩長会談は水面下で秘密裏に行われたため、幕府はその動きを知ることはできず、犬猿の仲だった2つの藩が同盟を結ぶことを全く予想していなかった。同盟が結ばれた後も、桂小五郎や西郷隆盛らはたびたび会談を繰り返し、信頼関係を深めると同時に同盟も強固なものになってゆく。
薩長同盟と同年に起こった第二次長州征伐では、長州藩内で近代的な軍制改革が行われていただけでなく、幕府軍総督の消極的な姿勢から幕府側は全面敗北して、幕府の権威や武力は失墜。これが江戸幕府終焉への決め手となり、時代は一気に明治維新へと進むのであった。
と、言うのが通説であるが、どうもこれらには龍馬を引き立てるための演出が多分に含まれているらしい。そこで、評価高めのこちらの本を読んでみたところ、、
この本の中では、こう書いてある↓
薩摩藩の名義貸しによる武器の購入において、亀山社中の功績が大きく取り上げられる傾向にある。これは坂本龍馬が西郷隆盛の了解を取り付けたという不確実な前提によるものである。しかし、前述の通り、事実である可能性は低く、そもそも、亀山社中は小松が長崎に行く際、購入船(海門丸)の運用のために同行した龍馬以外のメンバーからなっており、実態としては小松配下の土佐藩脱藩浪士を中心とする一団を指す。
彼らはこの段階では龍馬とは一切関係がなく、そもそもこの時期、龍馬は長崎にいなかった。小松と共に鹿児島から長崎に向かったが、期せずしてユニオン号の運用も取扱うことになったため、結果として、あくまでも薩摩藩士として、長州藩に対して自分たちをグルーピングして「社中」を名乗ったに過ぎない。
社中の実態は、私設海軍・貿易結社にはほど遠く、薩摩藩・小松帯刀の下でユニオン号の運用に従事する土佐藩脱藩浪士の集団であり、社中の成立はあくまでもこうした経緯の中で偶然になされた。つまり、いわゆる「亀山社中」が存在したとは言い難く、この段階の社中が海援隊へつながったとする連続性はナンセンスである。
彼らは「薩摩藩士」として、名義借りによる武器購入に尽力する、井上・伊藤の身元保証を請け負うような援助をしている程度であり、実際の購入交渉は、井上らが直接グラバーと行っている。
いわゆる薩長同盟は周知のとおり、慶応二年一月二十三日に木戸孝允から坂本龍馬に送られた書簡に記された六箇条をもって成立したとされる。二十日夜、龍馬は池・新宮と共に密に入京し、薩摩藩二本松邸に入った。そして、翌二十一日には小松邸に移り、通説ではその日に龍馬の周旋によって六箇条が、つまり薩長同盟が成立したとされる。
しかし、既に述べた通り、十八日の会談でこの六箇条のアウトラインは成立しており、龍馬の周旋によって事態が進展した事実はない。そもそも、木戸は龍馬登場後、せいぜい半日ほどの間に六箇条の証明を獲得しなければならず、それ以前にアウトラインが成立していなければ、この短時間にこれだけの内容の了解事項が一から成立するのは不可能であろう。
また、龍馬が木戸・西郷間を周旋して「薩長同盟」を成し遂げたとする一次史料は存在せず、全て明治以降の創作に過ぎない。
↑ ほらね。やっぱり通説は脚色されており事実ではないみたい。何の力が働いてそうなったか知らんが、やたら龍馬びいきの演出が入ったせいで「中岡慎太郎」や「小松帯刀」らの活躍が霞んでもうてる。
学者さんや歴史に詳しい人は「いや龍馬はそんな立役者じゃないし」と分かってるのだろうけども、世間のあまりの龍馬人気の前に、訂正の声が上げづらい、もしくは訂正してるんだけど掻き消されちゃうんでしょうな。
真の立役者は、朝廷から薩摩から長州まであちらこちらに周旋した中岡慎太郎に、その称号を送ってやりたい。
中岡さん、頑張ってたのに龍馬の影に隠されてお気の毒なお方ですこと。。
参考
https://www.touken-world.jp/tips/11126/
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/薩長同盟
https://bs.tbs.co.jp/no2/57.html
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