vol.122「孝明天皇の崩御」について


慶応2年12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇が急逝された。幕府を庇護していた天皇の崩御は、あまりに突然であり、在位21年、36歳という若さであった。その後、1年程度で260年も続いた幕府が倒れたため、その死を巡っては、当時から毒殺ではないかと疑われてきた。幕末最大のミステリーの一つであろう。


孝明天皇の崩御は、その後の歴史に極めて大きな影響を与え、明治維新を一気に早めたとも言える、歴史的な大転換と言える事象である。しかし、その死因については、いまだに病死・毒殺といった諸説が存在していると認めざるを得ない。




⚫︎ 討幕は望んでなかった孝明天皇


なにかと幕末をややこしくしてくれた孝明天皇であるが、いつも幕府の存在を前提にしており「倒幕志向」などは毛頭なかった。それゆえ、破約攘夷を条件に和宮降嫁を勅許したし、将軍家によって攘夷さえ実行されれば満足なスタンスであったのだ


ところが、過激な感じに盛り上がったDQN長州勢が「三条実美」といった過激廷臣や、尊王志士と結託し、文久2年(1862)12月には幕府に攘夷実行を宣言させ、翌年3月には将軍「家モッチー」の上洛を実現させた。さらに、孝明天皇みずからが軍を率いた攘夷実行を計画し、その先の倒幕まで視野に入れ始めた。


「ざけんな長州! オメーら頭沸いとんのかっ!?」と、この状況をひっくり返したのが、孝明天皇の決断による8月18日政変である。攘夷実行は望んでいたものの、自身の親征だなんて冗談じゃない!と、幕府や摂関体制を否定する勢力の排除を選択したのだ。ここまでの孝明天皇は、歴史の表舞台に立ち、多くの肉声を発信したが、これ以降はめっきり政治の表面からは退いた感が強い。


徳川慶喜に期待しながら、禁門の変第一次長州征伐を幕府と一体になって乗り切ることに成功したものの、幕長戦争(第二次長州征伐)では期待した幕府軍は敗戦を重ね、しかも慶喜は孝明天皇の期待を裏切り、戦争継続を諦めてしまった。そして、追い打ちをかけるように、戦争の最中の7月20日に将軍家モッチーが大坂城で急逝した


満を持して将軍に就いた徳川慶喜は、政局運営を安定させるために方針転換を図り、有力諸侯との連携を模索し始めた。特に、薩摩藩の取り込みは極めて重要であった。慶喜は、久光の名代的存在である「小松帯刀」に接近し、幕薩融和に意を用いた。そこに、突然の不幸が慶喜を襲う。最大の庇護者である孝明天皇が、天然痘で崩御されたのだ。


慶応2年12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇は急逝されたが、その崩御があまりに突然であり、劇的であったため、その当時から毒殺説がまことしやかに喧伝されていた。しかし、明治維新後の日本では、天皇が暗殺された可能性など、とても人前で論じることなどできる雰囲気ではなく、孝明天皇毒殺説が活発に議論され始めたのは戦後のことである。


現在は病死説が優勢のようであるが、決定的な一次史料が発見されなければ、いずれかに断定することは困難である。


天皇の体調について、最初に異変を見いだせるのは、慶応2年12月11日、内侍所での御神楽の臨時奉納の時である。


その神事は、午後6時半ころから午前1時半ころまでという、長時間に及んだ。その前に沐浴されたが、重要な点は既にこの段階で風邪気味であった事実がある。沐浴が症状を悪化させる契機となった可能性が、実は十分にあった。しかも、ドクターストップの状態にもかかわらず、厳寒の深夜に神事は継続されたのだ


12月12日、不安が的中し、朝から高熱を発したため「高階典薬少允」が診察して風邪薬を調合した。13・14日の公式発表はないものの、13日も発汗・解熱せず、食欲は全くない状態で、しかも、高熱でうわ言が続いていたとされる。14日には「山本典薬少允」が診察、この時、初めて天然痘と診断が下されたとする記述もある。


しかし、典医の1人「伊良子光順」の『拝診日記』によると、15日も発汗がないこと、お通じが頻繁のため、伊良子が昼夜付き添っていたことが記されている。一方で、発疹を確認しておらず、初期症状段階であったと推察する。


16日に至り、劇的な展開があった。天皇は吐き気と下痢が激しく、一睡もできない危険な状態となった。高階らが拝診すると見点(発疹)があったため、天然痘も専門とする小児科の「久野典医」らも呼ばれて拝診した結果、天然痘と診断を下した。


12月17日、典医らが再度検討した結果、天然痘と断定し、前日からの発病として初めて公式に発表した。この時、典医らは今後の経過見通しを関白「二条斉敬」に伝えているが、10日ほどで治癒するとした。更に、連名で報告を『武家伝奏』に提出している。これによれば、12日より発熱があり、一昨朝よりは吹出物があり、今日、痘瘡と診断した。総じて言えば、悪性ではなく相応の容体であると報じた。ここからは、1週間後に崩御される気配が微塵も感じられない。


一方で、『中山忠能日記』によると、明治天皇の生母である娘の慶子からの手紙には、「御出物は大分沢山、御毒深く、少々御たちよろしからず、御大便御通じ、今少御少く医師皆申候、何分二十日頃大に御大事」とある。実際には相当に悪性で、3日後が山であると、ただならぬ状態を伝えているのだ。


このように、天然痘であったことは疑いなしとするのが妥当であるが、一方で、医師団は治癒を前提とした見通しを示し、しかも、発疹が良性と公表した事実は見逃せない。これは関白以下、朝廷中枢部の判断でなされたものであろうが、この情報に接した者は、その後の経過を楽観視したとしても不思議ではない。しかし、実際には『中山忠能日記』の通り、極めて重篤であったのだ。この食い違いは、様々な憶測を呼ぶことにつながる


12月24日も、「益々御機嫌よく」との公式報告があり、発疹も収まり概して順調であるとされた。しかし、夜中より容態が急変する。そもそも夕刻から、空嘔(からえずき)が頻繁にあり、発熱して下痢が3度あった。


典医らは体内に残っていた毒の作用だと診断したが、尋常でない苦しみの体であった。その後危篤となり、25日午後10時過ぎには崩御された。29日に至り、ようやくその事実が公表されている。


『中山日記』によると、25日の様態について、「昨夜より御大便度々御通し御容体御宜しからず、御えつき強く御召上がり物御食されず、何とも恐れ入る御様子」と、ただならぬ症状が記述される。「既に親王御方をも、今日午刻前御様子宜しからずとの御事にて、御違例中ながらにわかに御前に御参りと申様の御事」と、明治天皇も最後の挨拶に出向くなどの慌ただしさであった。


なお、28日の記載では、「去二十四・五日頃は何の仰も不被為在」と、こん睡状態であり、「二十五日後は御九穴より御脱血、実以恐入候御容体の由」との最後を伝えている。その苦痛たるや、胸がふさがる思いである。


孝明天皇の崩御直後から、毒殺説は囁かれていたらしい。それがはっきり分かるのが、イギリス外交官として活躍した「アーネスト・サトウ」の証言である。「天皇陛下は天然痘にかかって死んだという事だが、数年後、その間の消息によく通じているある日本人が、私 (サトウ)に確言したところによれば、天皇陛下は毒殺されたのだ」(『一外交官の見た明治維新』)と明言している。


その理由としては、「外国人に対していかなる譲歩を行う事にも、断固として反対してきた。そこで、来るべき幕府の崩壊によって、朝廷が否応無しに西欧諸国と直接の関係に入らざるを得なくなる事を予見した人々によって、片付けられた」というのである。


ところで、毒殺犯について、「岩倉具視」を推す説が多い。岩倉が黒幕となり、孝明天皇の側室であった異母妹の堀河紀子、または姪の女官が実行犯と言うものだ。幕長戦争(第二次長州征伐)において、腰が引けている幕府よりも、孝明天皇の方がむしろ積極的であった。家モッチーの没後、征長戦争は集結へと向かったが、徳川宗家を継いだ慶喜が自ら軍を率いて再征に出ようとしたことがあったが、この時、薩摩藩がすかさず長州征討の中止を訴える建白書を朝廷に提出。慶喜は出陣を断念した。また、岩倉具視もこの建白書に同意し、さらに22人の公家が幕府と距離を置くことを求める建白を行なった。


しかし、これが孝明天皇の怒りをかう。天皇は幕府を支持する自身の方針を批判されたと取り、倒幕派の公家を謹慎させたほか、岩倉をその黒幕と見て監視を強めたのである。そして、将軍空位の状況を打開すべく、慶喜に将軍宣下を命じ、15代将軍としている。こうした情勢から、幕府と対立する薩摩藩と気脈を通じ、二条関白・朝彦親王に反発する廷臣、つまり岩倉が、天皇を邪魔に感じたため毒殺した、とする説である。


しかし、政治状況からの推理は、その結果がすべて分かっている後世の創作ではなかろうか。確かに孝明天皇の死後、わずか約1年後には大政奉還があり、王政復古があった。庇護し続けた慶喜は朝敵となり、幕府は瓦解した。


一方、岩倉の政界復帰は「王政復古クーデター」の直前であり、孝明天皇の死と岩倉の復権には直接の関連性はうかがえない。また、岩倉の天皇崩御前後の政見は、幕府の存在を前提にしており、天皇を毒殺する動機があったようには思えない


孝明天皇はその治世において、大きな精神的ストレスを抱えたため、死の直前には心身ともに相当なダメージがあり、ボロボロな体調であったのではないだろうか。在位20年間に、ペリー来航条約勅許問題安政の大獄和宮降嫁8月18日政変禁門の変長州征伐といった、一生の間にひとつも経験ができないような大事件が、鬼連チャンであった。


まさに内憂外患の中で、孝明天皇は気が休まることなどなく、常に精神的ストレスと病気に苛まれていたのだ。天皇は激動の時代に翻弄され、その犠牲となったと言えよう。


孝明天皇の後継となったのは、数え年16歳の「祐宮(さちのみや)天皇」だった。以後、朝廷は幕府と距離を置くようになる。




てことで、真相はいまだに闇の中である。。


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