vol.124「パリ万国博覧会」について


1867年のパリ万国博覧会は、1867年4月1日から10月31日までフランスの首都パリで開催された国際博覧会である。42か国が参加し、会期中1500万人が来場したんですと。


なお、ここで発表された水族館と電気にまつわる出展作品から、ジュール・ヴェルヌが『海底二万里』の着想を得たんだとか。なんだか楽しそう。戦争するばかりでなく、友好や文化交流を深めるターンがあっても良い。ええやん、ええやん、ええことやん。




⚫︎ 開催の背景としては


ナポレオン3世は、帝政の基盤を強固なものにするために、民衆の支持を必要としていた。1851年のロンドン万国博の成功は、ナポレオン3世を強く刺激し、彼は「帝国の栄光という夢で国民を恍惚とさせること」の必要を直感的に感じ取っていた。それが「ミシェル=シュヴァリエ」に代表される『サン=シモン主義者』の産業社会実現の夢と合致して、パリ万国博覧会が実施されることになった。


1回のパリ万博は、パレ=ランデュストリ(産業宮殿)を本会場とし、1855年5月に開催された。しかし、クリミア戦争の影響などで準備が遅れ、開会式の当日は施設の一部が未完成であった。ナポレオン3世は、開会式で型どおり演説したが、一回りしただけで会場をあとにした。ナポレオン3世は展示内容に明らかに不満をもった。来場者数もロンドン万博におよばなかったが、政治的には成功した。それはイギリスのヴィクトリア女王夫妻が、クリミア戦争での協力のお礼を兼ねてパリ万博に来場したことであり、それをホストとして迎えたことによってナポレオン3世はフランスの皇帝として国際的に認知されたのだった。


また、産業機械の展示は実際に動かして見せたり、生活関連展示を多くしたり、サン=シモン主義の理念を実現する工夫は至るところに見られた。それらの展示を通じて産業教育や自由貿易の必要性を認識させることが彼らの目標であったが、民衆に産業発展が生活向上に結びつくことを無意識のうちにすり込んでいく効果は十分にあった。それが1860年の英仏通商条約締結による自由貿易の実現に結びついた。


「シュヴァリエ」と「ル=プルー」らは、サン=シモン主義のユートピアの実現を目指し、1867年のパリ万国博覧会を準備した。メイン会場はシャン=ド=マルスの丘に、巨大な楕円形の展示場が設けられ、テーマは同心円状に、国と地域は放射線状に配置され、産業の象徴でもある鉄と鉄鋼で造られた。まさにそれは「サン=シモンの鉄の夢」の実現であった。


同時に宇宙と社会の縮図というコンセプトになっており、見学者は一体化した世界を実感できるしくみになっていた。会場の周囲のレストランではボルドーのワインが評判を呼び(フランスがワイン輸出国としての名声が高まったのもこのときからである)、ドイツのビールも好評でフランス人にもビールを飲む習慣が始まった。またトルコのコーヒーや中国の茶などを味わうことができた。機械ギャラリーでは工業国が競って巨大な機関車や大砲を展示し、電信、ミシン、織機などの機械が実演つきで並べられた。


メイン会場の周囲の公園には各国のパビリオンが建設された。51年のロンドン、55年のパリでの開催は、万国といいながら実態はヨーロッパ諸国に過ぎなかったが、この67年パリ万国博覧会は、中近東、アジア、ラテンアメリカ諸国も参加し、名実ともに万国博覧会となった。


んですって。

ええやん、やるやんナポレオン3世。さすがナポレオンの孫やな。じっちゃんの名に賭けて頑張った感あるやん。





⚫︎ 江戸幕府の参加


一方、このパリ万博は、日本が初めて参加した万国博覧会としても有名である。

1865年(慶応元年)3月、フランスのナポレオン3世は駐日公使「レオン・ロッシュ」を通じて、幕府(14代将軍徳川家茂)に対して参加を要請した。当初、参加に消極的であったが、ロッシュの説得を受けて8月に至り、ようやく参加を決定した。パリ万国博に参加することで、フランスとの良好な関係をこれまで以上に築く重要な機会として捉え、また、幕府の権威を国内外で高めることを目的としたのだ。


また、この計画を引き継いだ15代将軍の徳川慶喜は、実弟「昭武」をパリ万国博覧会使節としてフランスに派遣し、かつ5年間留学させることを決定した。その目的は、江戸幕府を代表して将軍後継者の地位にある昭武を自身の名代として、各国の皇族や王族が参列するパリ万博に出席させ、その後に欧州各国を訪問することによって、幕府の権威を国際的にアピールするためであった。さらに、昭武を将来の指導者とするため、長期留学も計画していた。 


しかし、幕府・慶喜の思惑は、密かにパリ万博ヘの参加を画策していた薩摩藩の存在によって、木っ端微塵とされてしまい、幕府の威信は地に墜ちてしまう。幕府の滅亡にも直結したパリ万博ヘの薩摩藩参加の道筋を開いた「五代友厚」の動向、そしてパリ万博の参加資格をめぐる幕府VS薩摩藩の激突が、そこにはあったのだ。


んーそうなんか。知らんかったけど、なんかそうゆうの嫌ね。また覇権争いか。国際社会の面前でやめてよ恥ずかしい。。





⚫︎ 薩摩藩のパリ万博参加と五代友厚


薩摩藩のパリ万博への参加は、五代友厚にとっては滞欧中の予期せぬ大成果であった。そもそも、フランス政府はパリに滞在していた幕府使節団の全権である外国奉行「柴田剛中(以下シバター)」に対し、打診を繰り返したものの、シバターは確答を拒み続けた。そこで二度の訪日経験があり薩摩藩士のフランス留学を世話していた「シャルル・ド・モンブラン伯爵」は一計を案じ、パリ滞在中の薩摩藩士「五代友厚」に参加を要請したのだ。幕府から冷遇され続けた意趣返しとでも言えそうな行動である。薩摩藩のパリ万博への参加の決定は、もちろん五代によるその場での独断であった。


消極的な態度を示していたシバターは、薩摩藩の策動を知ったため、態度を一転させてパリ万博への参加の意向を示し、しかも「大君(幕府)使節が承諾したからには、薩摩藩は出品に及ばず」と主張した。さらに、薩摩藩の万博参加を何とか妨害しようフランス政府に訴え出た。フランスの万博担当者との意見調整を、モンブランが仲介することになったことが幸いし、五代はフランス政府からの提案である幕府との共同参加を拒絶し、薩摩藩としての単独参加を要請した。


薩摩藩は万博参加を円滑に実行するため、正使として家老「岩下方平」、博覧会担当として「渋谷彦助」「野村宗七」ら総勢10名からなるパリ万博使節団を結成した。慶応2年11月10日に鹿児島を出発し、慶応3年1月2日にパリに到着した。


岩下は、改めてモンブランを「琉球国王薩摩太守」事務官長に任命し、すべてを一任。幕府使節「徳川昭武」より2ヶ月も早く事を進め、実に用意周到で、幕府に一歩先んじた行動であった。モンブランと協働し、迅速な行動を伴う薩摩藩の初動によって、幕府に対する薩摩藩のアドバンテージは絶対的なものとなったのだ。


慶応3年2月4日、「琉球国王」使節として、岩下方平はフランス外務大臣ムスティエに面会し、2月10日に万博の「展観所掛」5名を晩餐に招待し、独自の展示区画の斡旋を依頼した。こうして、翌3月には「琉球公国」として区画を獲得しており、主権国家としての参加を実現したのだ。2月27日、岩下らは万博開会式に出席し、さらに「薩摩藩琉球国」の勲章を配布して、西洋諸国に対して主権国家としての存在を大きくアピールした。


幕府使節はパリ到着後、フランス政府に対して、この間の薩摩藩に有利な措置に関して、断固として抗議した。フランスは政治的介入に消極的な姿勢を示したため、3月17日、帝国委員会の許で幕府「田辺太一(以下タナベー)」と薩摩藩(岩下方平、モンブラン同席)間で協議が行われた。その結果、統一「日本」区画とし、「大君政府」および「薩摩太守政府」として、個別に展示することを決定した。


タナベーは、「政府」という言葉に重きを置かなかったが、それが命取りとなる。この言葉が「大君、太守と申すも同義などとの説、新聞紙に記載、伝播致させ候」(『幕末外交談』)と、新聞紙上で幕府と薩摩藩が同じレベルにあると記載され、それが広まったとタナベーの回想録の中で語られている。タナベーは責任を取らされ、日本に召還されたが、欧米諸国が幕府と薩摩藩を同等と認識した事実は何よりも重いものとなった


その後、フランス政府は幕府を正当な日本代表と承認したものの、この協議での決定を踏まえたモンブランのメディア戦略により、日本は天皇を戴く連邦国家で、大君(将軍)も薩摩太守(藩主)と同等の諸侯に過ぎないというイメージの刷り込みに成功。この影響は計り知れず、徳川慶喜が期待したフランスからの600万ドルの借款計画が頓挫してしまい、幕府滅亡の要因の一つになったことは周知の事実である。




⚫︎ 反響


薩摩藩は、幕府と別個に展示館を設けた。展示館では、琉球の産物や薩摩焼、漆器、扇子、煙草など100種類以上の産物を約400箱出品されたほか、コンプラ瓶に詰めた状態で日本から運ばれた焼酎も出品された。


さらに、モンブラン伯爵の発案で日本初の勲章『薩摩琉球国勲章🏫を作成し、ナポレオン3世などフランスの高官に授与するなど、薩摩藩は幕府と別の独立国のように振舞った。


パリ万博を通じて、薩摩藩の外交面での廃幕運動は成功し、日本の王政復古を印象付けることに寄与した。しかも、幕府の借款計画を潰せたことから、内政面でも慶喜に大きなダメージを与え、大政奉還路線を取らせるなどの大きな影響を与えた。そのパリ万博への薩摩藩参加の道筋を作ったのが、五代友厚に他ならない。


一方、江戸幕府は、開成所の高橋由一・宮本三平らの油彩、北斎・国貞・芳幾・芳年らの浮世絵、銀象牙細工の小道具、青銅器・磁器、水晶細工などを出品したほか、 江戸・浅草の商人「清水卯三郎」が数寄屋造りの茶屋をしつらえた。3人の柳橋の芸者(おすみ、おかね、おさと)が独楽を回して遊んだり、煙管をふかしたりするだけの仕草が、物珍しさから、幕府や西南雄藩による公式展示以上の人気になったという。


昭武や幕府派遣留学生は数年の留学を予定していたが、翌1868年1月に大政奉還の報に接したため、使節団は10月19日に離仏、12月16日横浜に帰国した。





さすが五代パイセン。まんまとやってやりましたね。でもこりゃ幕府シバター&タナベーの自殺点な感も否めませんね。ほんとシバターがつくづく無能で情けない。お前らのせいで徳川の世が終わるんだぞ。ハラキレ



一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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