vol.134「王政復古の大号令」について

慶喜による急転直下の「大政奉還」によって、実はピンチになってたのは西郷どんの方。ニセの討幕の密勅までこしらえたのに、討つべき幕府がなくなってしまったのでは、討てるもんも討てない状況に。


さすがクセもの慶喜ナイスな切り返し。

慶喜vs西郷どんのバチバチ頭脳戦もいよいよクライマックス!




⚫︎ 西郷どんの思考(想像)


ぐぬぬ〜、あと一歩で慶喜たおせるハズじゃったのに、ヒラッと軽くかわされてしもうたでごわす。。まさか本当に大政奉還すっとは予想外じゃった。おかげでみな戦わずに討幕が成ったとお祭りムードじゃっどん、こげなこつでは今までと何も変わりもはん!


いや、変わらないどころか慶喜がフランスから最新の武器を手に入れてしまえば、武力でも我らに勝ち目はなくなってしまう。。敵の装備が旧式のままのうちが唯一の武力討幕のチャンスなんじゃ。慶喜もそれを分かっているからこそ、一度政権を手放してでも時を稼ごういう魂胆じゃ。。


このままじゃと、新政府の中心に慶喜がまんまと収まり、長州再討伐の勅命を「そげなもん勅命にあらず!」とか言っちゃっただけに、薩摩は長州と共に袋叩きにされる運命でしかなか。これは大ピンチじゃ。。


どうにか、このピンチをチャンスに変える方法を考えんと。、、とりあえず、この大政奉還が茶番か本気か確かめるためにも、将軍職ポジションや朝廷システムも既存の役職は全部廃止したったらよか。そして、新たに作る三職のポジションから徳川勢を徹底排除するんじゃ。


じゃっどん、はたして会津藩らまで大人しく聞き入れるじゃろうか? おそらく無理じゃろな。ゆえに御所の門を我らの兵で固めて、クーデター的に決めてしまおう。怒り狂った会津兵らが戦を仕掛けてくるやもしれんが、今すぐ戦をしたくない慶喜が制止する可能性の方が高かろう。


さらに次の手として、復権の下心がないという証に、徳川の領地や財産を差し出せと言うちゃろう。同時に薩摩の仕業と分かるように江戸で火付けなどして奴らの怒りを煽りに煽るんじゃ。そこまでしたらば慶喜もさすがに家臣らの怒りを抑え切れなくなるに違いなか。。




⚫︎ 浪士による騒擾活動


薩摩藩士・西郷隆盛は討幕の名分が立たない事に苦慮し、百万の兵をもつ徳川家を憤激させようと謀った。その手始めとして「薩土討幕の密約」によって、土佐藩より移管を受けた勤王派浪士・中村勇吉、相楽総三、里見某らを中心とし、さらに討幕勢力の拡大を構想して浪士を募集し、藩邸内に匿った。


その第一計として浪人を関東各地へ放って、開戦時には関西・関東どちらでも江戸幕府を奔走させ疲れさせようと考えた。そこで西郷は薩摩藩士・益満休之助と同藩の陪臣(倍々臣)・伊牟田尚平に「江戸へ出たら浪人を呼び集め、関東中で騒乱を起こせ。もし徳川家が警備隊(警察)を送ってくればできるだけ抵抗せよ」と告げると、両人は大喜びで江戸へ向かった。


益満と伊牟田が三田の薩摩藩邸に着くと、同藩邸の留守居役・篠崎彦次郎とともに、公然と浪人を募集し始めた。益満らは同藩主・島津忠義の名で「(江戸幕府第13代将軍徳川家定の御台所で、薩摩藩出身の)天璋院さまご守衛の為」と偽って徳川宗家へ浪人公募の旨を届け出た為、老中らは拒むことができなかった。


益満らは東奔西走し募集した500名の浪人らをまとめると、彼らを江戸から関東一帯へ放って騒擾活動をさせた。さらに、慶喜の復権に向けての不穏な動きを感じた討幕派は、薩摩藩管理下の勤王派浪士たちを用いて、江戸幕府に対し江戸市中で放火、町人への強盗・庶民への辻斬りなど騒擾による挑発作戦を敢行し始めた


四散した浪人らは、江戸で豪商や民家を強盗し、関東取締出役・渋谷和四郎の留守宅を襲うと家族を殺傷した。彼らは誰にはばかるところもなく、至るところで財産を盗んで騒擾事件を起こした。これらの浪人による騒擾事件は、10月下旬からはじまり、12月になると最も凄まじくなった。


江戸の市民はこの浪士集団を「薩摩御用盗」と呼んで恐れ、夜の江戸市中からは人が消えたという。薩摩藩邸を根城としていた浪士集団、後の赤報隊は、総勢500名ほどとされ、そのうちの多くは、金で買われた文字通りの、人別帳からも外された無頼の徒であり、強盗、殺戮、放火などを好んでやるような輩であった。


そのとき庄内藩主・酒井忠篤 (庄内藩主)は新徴組を率いて江戸府内を取り締まっていたが、薩摩藩が放った浪人による暴動に人手が足りなくなり、10月末から歩兵半大隊、撤兵二中隊、奥詰銃隊半大隊、遊撃隊らへ市中の見回りと警備をさせていた。11月2日に酒井は城門の勤番人数を増やし戒厳をしき、月末には前橋藩、佐倉藩、壬生藩にも協力させた。




⚫︎ 王政復古の大号令


慶応3年10月の大政奉還により、雄藩側の政治的正統性が失われた状態で、兵庫開港が予定通り実行されることは、慶喜の政治的復権を内外に強く印象付けることになる。雄藩側としては、政変を起こすのであれば、少なくとも兵庫開港予定日から遠く遅れない時期に起こさなければ、時期を逸することになる。


そこで、慶応3年12月9日(1868年1月3日)に決行することとした。その前夜、岩倉具視は自邸に薩摩・土佐・安芸・尾張・越前各藩の重臣を集め、王政復古の断行を宣言し、協力を求めた。こうして、5藩の軍事力を背景とした政変が実行に移されることとなるが、政変参加者の間において、新政府からの徳川家の排除が固まっていた訳ではない。


越前藩・尾張藩ら公議政体派は、徳川家をあくまで諸侯の列に下すことを目標として政変に参加しており、実際に親藩である両藩の周旋により年末には慶喜の議定就任が取り沙汰されるに至っている。


また、大久保らは政変にあたって、大政奉還自体に反発していた会津藩らとの武力衝突は不可避と見ていたが、二条城の徳川勢力は報復行動に出ないと予測しており、実際に慶喜は政変3日前に越前側から政変計画を知らされていたものの、これを阻止する行動には出なかった。


つまり、この時点では、兵力の行使は新政府を樹立させる政変に際し、付随して起こることが予想された不測の事態に対処するためのものであり、徳川家を滅ぼすためのものではなかった。


慶応3年12月8日(1868年1月2日)夕方から翌朝にかけて、摂政二条斉敬が主催した朝議では、長州藩主・毛利敬親、広封父子の官位復旧と入京の許可、岩倉ら勅勘の堂上公卿の蟄居赦免と還俗、九州にある三条実美ら五卿の赦免などが決められた。これが旧体制における最後の朝議となった。


慶応3年12月9日(1868年1月3日)、朝議が終わり公家衆が退出した後、待機していた5藩の兵が御所の九門を封鎖した。御所への立ち入りは藩兵が厳しく制限し、二条や朝彦親王ら親幕府的な朝廷首脳も参内を禁止された。そうした中、赦免されたばかりの岩倉らは、天皇出御のうえ御所の御学問所に参内して「王政復古の大号令」を発し、新政府の樹立を決定、新たに置かれる三職の人事を定めた。


「王政復古の大号令」の内容は以下のとおり。

1. (慶応3年10月24日に徳川慶喜が申し出た)将軍職辞職を勅許。

2. 京都守護職・京都所司代の廃止。

3. 幕府の廃止。

4. 摂政・関白の廃止。

5. 新たに総裁・議定・参与の三職をおく。


この宣言は、12月14日に諸大名に、16日に庶民に布告された。慶喜の将軍辞職を勅許し、一会桑体制を支えてきた会津藩・桑名藩を追うことで、慶喜の新体制への参入を排しつつ、一方では従来からの摂政・関白以下の朝廷機構の政治権力を復活させるのでもなく、五摂家を頂点とした公家社会の門流支配をも解体し、天皇親政・公議政治の名分の下、一部の公家と5藩に長州藩を加えた有力者が主導する新政府を樹立するものであった。


12月9日18時頃から、御所内・小御所にて明治天皇臨席のもと、最初の三職会議が開かれた。山内容堂ら公議政体派は、慶喜の出席が許されていないことを非難し、慶喜を議長とする諸侯会議の政体を主張した。




⚫︎ 山内YO堂さんの猛抗議


「今日の(会議参加者の)ご挙動はすこぶる陰険なところが多い。そればかりではなく、凶器をもてあそんで、諸藩の武装させた兵どもに議場を守らせ、わざわざ厳戒態勢をしくにいたっては陰険さが最もはなはだしく、くわしい理由すら分からぬ。王政復古の初めにあたっては、よくよく公平無私な心でなにごとも措置されるべきでござろう。そうでもございますまいば、天下の衆心を帰服させられもすまい。


元和偃武から300年近くも天下泰平の世を開かれたのは徳川氏ではござらぬのか。なのに或る朝なれば突然理由もなく、大いなるご功績のあらせられる徳川氏ともあろうおかたをおそれおおくも排斥いたすとは、いったい何事なのか。これぞ恩知らずというものではないか。


いま内府公(慶喜公)がご祖先からご継承された覇権をも投げうたれ、ご政権をご返上なされたのは政令一途であらせられるからに違いなく、金甌無欠の国体を永久に維持しようとしたものであらせられます。かの忠誠のほどは、まことこのわたくしなどにも、感嘆を堪えがたいほどだ。しかも、内府公(慶喜公)のご英明の名は、すでに天下にとどろいているのではないのか。一刻でも早く、すみやかに内府公(慶喜公)のほうへ朝議にご参与していただき、台慮(たいりょ・貴人の考え)を開陳していただき遊ばされるべきだ。


しかるに、2、3の公卿のかたがたはいったいどんなご見識をもってこんな陰険な暴挙をなされる。わたくしにはすこぶる理解しがたい。恐らくではありますが、幼い天皇をだきかかえ、この国の権勢を盗もうとたくらむ悪意でもおありになるのではございますまいか。まこと天下に戦乱の兆しを作るくわだてと申すべきでござろう」


と一座を睥睨すると、意気軒高に色を成し主張した。

越前藩主・松平春嶽も


「王政を施行する最もはじめのときにあたって、刑罰の名をとって、道徳の方を捨ててしまうのは、甚だよろしくない。徳川氏にあらせられては200余年の太平の世を開かれた。幕府による天下泰平の功績はこんにちのわずかな罪を償うに余りありましょう。皆さまもよくよく、土佐殿(山内容堂公)のお言葉をお聞きになるべきです」


と、山内に歩調をあわせた大論陣を張った。

すると、薩摩藩士・大久保利通が


「幕府が近年、正しい道に背いたのは重罪なだけでなく、このたびの内府公(慶喜公)の処置につきまして、わたしが正否を問いますと、尾張侯(徳川慶勝)、越前侯(松平春嶽)、土佐侯(山内容堂)、おさんかたの無理にお立てになった説をうのみにすべきではございません。事実をみるに越したことはない。まず内府公(慶喜公)の官位をけなしてみまして、所領を朝廷へ収めるよう命じまして(辞官納地)、わずかなりとも不平不満の声色がなく、真実をみることができましたならば、すみやかに参内を命じ、会議に参加していただけばよろしい。もしそれと違って、一点でも要求受け入れを拒んで、あるいはふせぐ気配があったなら、政権返上(大政奉還)はうそいつわりの策略であります。さすれば、実際に官位剥奪のうえ領地も削り、内府公(慶喜公)の罪と責任を天下に示すべきであります」


と言い、

公家・岩倉具視は大久保の説に追従し、まわりにも採用するようしきりに勧めながら「内府公(慶喜公)の正邪を分かつには、空論で分析をもてあそぶより、実績を見るに越したことはない」と弁論をきわめ、山内や春嶽とおのおの正論と信じるところを主張しあって、会議は決着しなかった。


この後、会議は休憩に入るが、休憩中に薩摩藩士・西郷隆盛が「短刀一本があれば片が付く」と刀を示した。この西郷の言葉を聴いてから休憩室に入った岩倉は「山内容堂がなおも固く前と同じ論陣を張るなら、私は非常手段を使って、ことを一呼吸の間に決するだけだ」と心に期し、広島藩主・浅野長勲へ土佐藩士・後藤象二郎を説得するよう依頼した。

浅野はその様にはからうと「私は岩倉卿の論が事理の当然とします。いま(広島藩士)辻維岳に命じ、後藤を説得させていますから、しばらくお待ちください。後藤がうなずきませんでしたら、私は飽くまでも土佐殿(山内容堂)に抗弁してやめませんから」と岩倉へ伝えた。


五藩重臣の休憩室で、後藤は大久保へ山内説に従わせようとしていた。しかしすでに同じ休憩室にいた辻が、浅野の指令をうけて「岩倉説に抗弁すると主君(山内容堂)に不利な結果になる」と遠回しに後藤を諭していたこともあり、大久保はなんら聞き入れることがなかった。


後藤はそれまで主君・山内の説どおり、「会議参加者一同が陰険なふるまいをやめ、公正にことを決める」よう一所懸命に全員を諭し続けてきていたが、主君が間接的に命をおびやかされている事を悟ると、今度は山内と春嶽の方を向いて「さきほど殿が申されたまこと立派なご説法は、さも内府公(慶喜公)がはかりごとを企てていらっしゃることをご承知の上で、隠そうとなさっているかのごとく嫌疑されております。願わくばどうかもう一度お考え直されますように」と言った。


明治天皇がすでに席に着き、会議参加者もあつまって議論が再開されると、山内は腹心の後藤にも裏切られ心が折れてしまい、敢えてもう一度論戦を始めようとしなかった。再開された議決では岩倉・大久保らの説に決まり、有栖川宮熾仁親王が天皇の裁可を得た。


こうして朝廷は、内大臣・慶喜へ官位返上と、領地からくる収入を天皇家へ献上するよう命じた。


最終的には岩倉や大久保らの意見が通ったが、会津藩・桑名藩など、親徳川派の譜代藩はこの処分に不満を募らせ一触即発の剣幕となる。





今回はここまで。いや〜なんか半沢直樹なみにピリピリしてておもしれ〜。

YO堂さんよく頑張ったね〜、でも負けんなよっ、もっと粘れよ〜。

それにしても西郷どんも大久保はんも手強いな〜。まーた優劣ひっくり返されちゃったですね、くそ〜。しっかし浪人を放たれた江戸の市民たちはホントいい迷惑!




参考
https://m.youtube.com/watch?v=yqxJCc-LvOchttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/王政復古_(日本)

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

こちらは一般社団法人「江戸町人文化芸術研究所」の公式WEBサイト「エドラボ」です。江戸時代に花開いた町人文化と芸術について学び、研究し、保存と承継をミッションに活動しています。