祝!ブログ継続2周年!
5日に1記事アップを自分に課してから無事3年目に突入いたしましてにございますよ。去年の今日が「大塩平八郎の乱」についてだったので、いかに幕末の長いことか。。
そんな話題に事欠かぬ混乱極める幕末ですが、ついに天下泰平の象徴である江戸城が陥落してしまいましたね。。世界情勢による必然だったのかもしれないとは言え、なんとも物悲しいものである。しかし、それにしても「無血開城」たぁ、実に見事なるソフトランディングだったとも言えるわけで。
鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が盛大に大負けかましてくれたことや、慶喜が歴史に残るヘタレっぷりを発揮してくれたことなど、運命のいたずらが味方してくれた奇跡もさることながら、ある程度このシナリオを描き、うまいこと裏から導いた奴らの腕前も、天晴れとしか言いようがない。
その筆頭が、アーネスト・サトウだ。
こいつちょいちょい出てくるけど一体ぜんたい何者なんなんだぜ? てことで、以下にJB press様の秀逸シリーズ記事より要点を抜粋してメモらせていただきにゃす。
⚫︎ 英国通訳官アーネスト・サトウ
幕末維新史を彩った外国人を挙げるとすれば誰を想像するであろうか。和親条約のペリー、通商条約のハリス、武器商人のグラバー、英国公使のパークスなどであろうか。もちろん、彼らも幕末維新期の日本に与えた影響は計り知れない。しかし、忘れてはならない人物として、英国通訳官のアーネスト・サトウが存在する。
そもそも、サトウはこの時期に来日した誰よりも、日本語を巧みに操ることができた。候文の読み書きができた、唯一の西洋人である。なんと、幕末期に伊藤博文や井上馨と文通をしていたというから驚きである。また、サトウは幕末の多くの偉人たちと交流を重ねている。
横浜のイギリス公使館では、日本語書記官ユースデンが中心となって、オランダ語畑の通訳官が幕府との外交交渉を担当していた。しかし、外交交渉の増大に伴い、日本語を直接英語に翻訳できる通訳官が必要とされた。日本語を駆使するサトウの登場が、切望された背景がここにある。
サトウが来日して6日目の1862年9月14日、薩摩藩士が上海のイギリス人商人リチャードソンらを殺傷する生麦事件が勃発し、政局を揺るがす大事件に発展した。サトウは、神奈川方面にリチャードソン救出に向かう騎馬自衛軍団をホテルの前で見送ったが、その後サトウと親交を深めるイギリス公使館付医官ウィリアム・ウイリスは、生麦事件の現場に急行して惨状を目撃している。
12月2日、代理公使ニールは第2次東禅寺事件の賠償金4万ドルの要求と、生麦事件の協議のため江戸を訪問した。サトウは臨時通訳官のシーボルトらと一行に加えられ、初めて江戸訪問を経験した。江戸を引き揚げるまで、愛宕山、王子、洗足池、目黒不動、浅草、神田明神、上野不忍池、芝明神前などへ馬で遠乗りして観光した。こうした体験は、サトウが日本文化に造詣を深める出発点となったのだ。
イギリス政府は、生麦事件の犯人処刑と賠償金10万ドルを薩摩藩に要求した。1863年(文久3)8月6日、ニール以下8名の公使館員も7隻のイギリス艦隊に搭乗し、鹿児島に向けて出航した。サトウとウイリスは、軍艦アーガスに乗り込み遠征に参加した。
しかし、交渉は進展せず、台風の最中、8月15日から16日にかけて各砲台とイギリス艦隊は砲撃戦を展開した。イギリス側には戦闘にならないとの油断があり、緒戦は苦戦。旗艦ユーリアラスのジョスリング艦長ら13名が戦死しており、思いもよらぬ打撃を受けた。
戦闘終了後、3回にわたり和平交渉が開催され、決裂寸前にまで至ったが、武器や軍艦の購入を要望するなど、薩摩藩の起死回生の対応によって、その後の薩英間の交流を深めることに寄与する会談となった。
また、1864(元治1)年8月末から、イギリスのクーパー提督を総司令官とする4国連合艦隊が横浜から下関へ遠征し、9月5日から長州藩への砲撃を開始した。いわゆる、四国艦隊下関砲撃事件である。サトウは、クーパー提督付通訳として旗艦ユーリアラスに搭乗し、9月6日の戦闘に参加。外国側の圧勝に終わったこの事件によって、長州藩の藩論は即時攘夷から未来攘夷へ転換することになった。
1864年7月、藩主を説得するため急遽ロンドン留学から帰国した長州ファイブの伊藤博文と井土馨は、全権の高杉晋作とともに、講和談判に通訳として参加した。これ以降、サトウは伊藤らと交流(文通)を開始し始めており、双方にとって有意義なパイプが確立したのだ。
⚫︎ 『英国策論』の成立
1865年(慶応1)4月1日、アーネスト・サトウは通訳生から通訳官に昇進した。イギリス公使館に、初めて日本語を自在に駆使する外交官が誕生した瞬間である。サトウの同僚である、3歳年少のアレクサンダー・フォン・シーボルトは、1859年(安政6)に再来日した父シーボルトに連れられ、13歳で日本の地を踏んでおり、日本語の会話に能力を発揮していた。とは言え、サトウはシーボルトより、読む・書くという点でも遥かに優秀であった。
順調にキャリアを積んでいたサトウは、日本来日からこれまでの体験や見聞を踏まえ、1866年(慶応2)3月16日から5月19日にかけて3回、横浜で発行されていた週間新聞『ジャパン・タイムズ』に無題・無署名の論説を発表した。この写本が『英国策論』として広範囲に流布し、1867年(慶応3)以降には、印刷されたものが大坂や京都の書店で販売されるに至った。
『英国策論』は、朝廷・諸藩・幕府といったすべての勢力に広く知られ、例えば『近衛家書類』『中山忠能履歴資料』に写本が収録されている。また、1866年12月3日にサトウが宇和島を訪問した際、伊達宗城は既に読んでいることを、直接サトウに話している。
サトウは『英国策論』の中で、将軍は日本を代表しておらず、将軍とのみの条約を維持することはできないとする。そして、諸侯は将軍の命令を聞かず、貿易の利益にも与っていないとの認識を示した。
天皇こそが日本の陛下であり、勅許は必須であるが、実権は諸侯にあるので、条約は両者と結び直すべきであると主張。なお、外国が将軍と条約を結んだことが大きな間違いであったことに気づいたのは、生麦事件からであると述べる。生麦事件によって、将軍は諸侯を統制できないことが明白となり、諸侯が割拠を始めた契機であると指摘。そして、外国は今の通商条約を破棄して、新条約を結ぶべきであると結論づけた。
サトウは日本の実情を鋭く分析しており、かつ薩長の主張とも軌を一にする内容であった。薩摩スチューデントの寺島宗則によって、ロンドンでの外交交渉で主張された内容と一致していることは、極めて重要であろう。
一方で、サトウはこの段階で伊藤博文や井土馨と既に文通を継続しており、間違いなく彼らからの情報も参考にしていたと考える。『英国策論』は、イギリスと長州藩の合作の可能性も否定できない、極めて政治的な論考であるのだ。
『英国策論』は、世界最強国家の大英帝国の官吏であるサトウが幕府を否定し、「天皇・諸侯連合」との通商条約の結び直しを謳っている事実は重要である。サトウ個人の非公式な見解が、イギリスの対日政策を代弁するものと受けとられたことは、その後の政局にも大きな影響を与えた。
幕府は一層フランスとの結びつきを強め、薩摩藩の後ろにイギリスの影を見ることになった。そして、薩摩藩はイギリスの後押しがあることに自信を深め、抗幕姿勢をより強固にすることが叶ったのだ。
⚫︎ 大政奉還前後のサトウの動向
1866年7月のパークスの鹿児島訪問には同行しなかったが、同年12月から1867年(慶応3)1月にかけて、サトウは各地の政治情報を収集するため、西国諸藩に派遣された。英国艦隊の旗艦プリンセス・ロイヤルに乗船し、長崎に初上陸。そこで宇和島藩士や肥後藩士から、大名会議の開催、長州藩の処分問題、兵庫開港の諾否などについて情報を入手した。
1867年1月、軍艦アーガスで鹿児島を訪問した際には、島津図書・新納刑部・島津伊勢ら薩摩藩の家老クラスが対応した。その直後、今度は宇和島を訪問し、前藩主で賢侯の1人である伊達宗城と会談して親交を結んだ。横浜への帰途、サトウは兵庫で西郷隆盛と初めて会談し、一橋慶喜の将軍職拝命の情報を入手した。また、西郷に対して、兵庫開港・長州藩処分問題を利用することによって幕府を追い詰める方策まで提言したのだ。
4月29日から5月4日にかけて、パークスを始め各国公使は大坂城で新将軍徳川慶喜に謁見したが、その際に慶喜は勅許を獲得していない兵庫開港を確約した。ちなみに、5月には慶喜は勅許を獲得して、最大の外交懸案を解決している。サトウは、パークスが慶喜との謁見によって、その見識と資質の高さに魅了され始めたことに危機感を抱き、西郷に革命の機会を逸すべきではないと奮起を促した。さらに、サトウはフランスが幕府を援助する場合、イギリスはそれを阻止すると述べ、天皇中心の新国家体制への移行を期待するとの言質を与えている。
7月23日、パークスはミットフォードとサトウを伴い、箱館経由で海路日本海側の諸港の視察に出発した。サトウらは新潟、佐渡を経て能登半島の七尾に上陸し、開港問題について加賀藩士と会談した。8月10日、サトウはパークスの指示により、陸路で大坂に赴いた。なお、サトウは金沢で「英国策論」の翻訳を読んでいた藩士と議論したり、各地で政治や物産の情報を収集したりした。
サトウは大坂でパークスと合流後、イギリス軍艦イカルス号水夫殺害事件の調査のため8月30日から土佐へ派遣され、山内容堂や後藤象二郎らと政治体制について議論した。そして、9月12日から1ヶ月間、長崎に滞在し海援隊などを調査した。さらに、長崎で伊藤博文、木戸孝允らと政治情勢を議論している。
11月10日、徳川慶喜が大政を奉還した。サトウは内戦が不可避であり、「終りの始まりが開始された」と予測した。 1868年(明治1)1月3日、朝廷は「王政復古の大号令」を発し、慶喜の辞官納地を決定した。7日には、サトウは大坂城へ移動する慶喜に邂逅している。 27日、鳥羽伏見の戦いが勃発し、本格的に戊辰戦争が始まった。
2月4日、西宮警備の岡山藩兵と英仏軍が神戸で衝突し、互いに発砲した神戸事件が勃発。英仏軍は神戸居留地を占拠し、港内の日本艦船を抑留した。新政府は岡山藩士1名を切腹させて解決したが、英仏米連合軍は居留地を警護することになった。
新政府は直ちに勅使として東久世通禧を兵庫に派遣し、政権交替と条約履行を約束して、開国和親を布告した。その後、サトウらも立ち会い、備前藩士滝善三郎の処刑が執行され、神戸は長州・薩摩藩兵が警護した。こうした迅速な事件処理と決断力は、外国側に好感を与えた。そして、パークスの主導により、各国は戊辰戦争への局外中立を宣言した。
神戸事件に続き、乱暴を働いたフランス軍艦水兵と同地を警備していた土佐藩兵とが衝突し、水兵11名を死傷させた堺事件が起こる。新政府は、フランスの要求をそのまま認め、11名を切腹させて解決した。さらに、3月23日、天皇謁見に参内するパークス一行を浪士が襲撃するというパークス襲撃事件が起きる。
新政府は、小松帯刀が中心となり、薩摩藩時代から培ったパークスとサトウとの友好関係を軸にして、これらの事件を解決した。新政府は、開始早々の危機一髪の難局を乗り切れたが、そこにはサトウによる隠れた助力があったのだ。
⚫︎ 江戸無血開城とサトウの役割
徳川慶喜は恭順の意を表し、上野寛永寺に蟄居した。しかし、東征軍は東海、東山、北陸道からの江戸総攻撃を準備。サトウは4月1日から1週間程度、情報探索のため江戸へ派遣されたが、サトウ日記がこの間空白なため、様々な解釈が成立している。
通説では、5日および6日の西郷隆盛と勝海舟の2度の会談(高輪薩摩藩邸)の事実を知らず、7日の江戸総攻撃が延期されたことを把握していなかったとされる。これは、西郷にも勝にも、サトウは会えていないことが前提となっている。
しかし、その一方で『一外交官の見た明治維新』によると、「わたしの主な情報源は、かつて徳川海軍の総指揮官であった勝安房守であった。わたしは人目を避けるために、暗くなってから勝を訪ねた」との記載がある。サトウの次回出府となる4月11日の段階では、江戸総攻撃は中止されており、江戸市中に安堵感が漂っていた。この時点ではもう「人目を避ける」必要性はない。となると断定こそできないが、サトウが勝邸を訪問したのは、4月初旬ではないか。
西郷の江戸総攻撃から無血開城への転換は、パークスの圧力であるとされている。そのお膳立ては、4月初旬に開催されたかも知れないサトウ・勝会談によって成された可能性を指摘しておきたい。そもそも、サトウの居所は泉岳寺(芝高輪)前のイギリス公使館(高輪接遇所)付近であり、西郷・勝会談地から指呼の間であった。サトウほどの事情通が、その会談情報を掴んでいないという可能性の方が低いのではないだろうか。
⚫︎ その後のサトウ
江戸城が無血開城され、上野戦争(寛永寺に立て籠もった旧幕臣ら彰義隊が敗北)によって、関東は旧幕府軍から新政府の勢力圏となった。これを機に、パークスは新任の公使館書記官アダムズやミットフォード、そしてサトウらとともに大坂へ向かい、5月22日、外国政府代表として初めて、大坂東本願寺で新政権承認への信任状を明治天皇に提出した。
6月22日、奥羽越列藩同盟が成立し、戊辰戦争は北越から東北へと展開。11月6日、会津藩が降伏したことにより、帰趨は新政府の勝利へと決し始めた。11月26日、サトウは東京に入る明治天皇を高輪接遇所前で見送ることができ、「鳳輦通過の際群衆が静まりかえった」と、その感動を日記に記載した。
1869(明治2)年1月1日、東京が開市され、5日にサトウを含むイギリス外交団は皇居(江戸城)で天皇に謁見した。 ちなみに、1868年12月9日、旧幕府軍の榎本艦隊は箱館を制圧し、交戦団体であるとの声明文を発表して、諸外国に局外中立を要請した。しかし、1869年6月27日、新政府軍の攻撃により降伏。ここに戊辰戦争は終結した。
サトウは賜暇帰国を希望し、1869年2月2日のシーボルトの日本帰任により、1年の賜暇帰国が確定した。サトウの功績に対し、岩倉具視から蒔絵の用箪笥、島津忠義から孔雀形の銀の舟の置物、勝海舟から脇差、明治天皇から大きな蒔絵の用箪笥などが贈られ、盛大な送別の宴が開催された。
2月24日、長男の病気治療のため帰国するパークス夫人や会津藩士野口富蔵らとともに、サトウは横浜を出航した。後年になって、サトウは1862年からの7年間が「人生でもっとも充実した時期」「本当に生きていた」と回想している。それだけ、この期間がサトウにとって、充実した日々であったのだろう。
1870年(明治3)11月、サトウは1年8ヶ月ぶりに日本帰任する。その後、外国人として初めて、伊勢神宮に参拝するなど日本各地を旅行した。また、日本に関する言語・考古学・歴史・民俗・地理・宗教に関する論文や旅行案内など、数多くの著作を執筆。それらを日本アジア協会を中心に発表し、日本研究の第一人者の称号をほしいままにした。
1875年(明治8)、サトウは2度目の賜暇休暇で帰国。1877年(明治10)2月、東京に帰任する途中、西南戦争直前の鹿児島に入り西郷隆盛と再会した。しかし、私学校生徒に取り囲まれていた西郷とは、会話らしい会話が叶わず、さぞや残念な思いであったことは想像に難くない。
1871年(明治4)ころ、武田兼と結婚し、2人の息子と1人の娘が誕生している。サトウの人生は、まさに東洋とともにあり、特に日本との繋がりは最も深いものであった。サトウなくして、近代日本のスタートはうまくいかなかったのではなかろうか。それほど、日本に大きな足跡を残し、貢献してくれた外国人であったのだ。
ほへぇ〜そうですか。
つまりは、サトウ無くして明治維新は成らずってなもんですかい。それってすごい主要人物じゃないですかい。そうなだけに新政府によってその活躍ぶりは意図的に隠されたのかしらね。あくまで日本人が主体で成した革命なのだ!ってなるように。なんかもうそうとしか思えませんな。でなきゃもはやこれだけの状況証拠がある以上、サトウが日本を操った真の黒幕で「西郷どんすらただの駒」ってなっちゃいますもんな。
でも、そう言えば確か我がブログvol.118「幕末の謎」について②の最後で、サトウは「まだ大事なことを見落としている!」って言ってましたわな(↑要おさらい)。。
何なんだろう。。
参考
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/79976
0コメント