vol.152「美人剣士・中沢琴」について


秋田・庄内戦争には、酒井鬼玄蕃とは別に、もうひとりヒーローがいるらしい。その名も美人剣士「中沢琴」(って女性だからヒーローじゃなくてヒロインか)。

男勝りの剣術を駆使し、新選組が結成される前の近藤や土方らと行動を共にし、戊辰戦争を生き抜いた幕末の最強剣士。

これがフィクションじゃなく本当に実在したってんだからすごい。




⚫︎ 強すぎるおてんば娘


天保10年(1839年)、上野国利根郡利根村穴原(群馬県沼田市利根町穴原)に生まれた。 父は中沢孫右衛門、法神流剣術の道場主だった。


法神流というのは「楳本法神(うめもとほうしん)」という剣士が作った流派で、群馬県ではかなり流行していて、門下3000人というほどだった。 この流派を引き継いでいる有名な人物で「昭和の剣聖・持田盛二」がいる。


中沢琴は子供の頃からヤンチャで男勝りなところがあった。いわゆるおてんば娘といったところだろうか。父の孫右衛門はそんな琴に剣術や長刀、鎖鎌などを教え込んだ。


琴はやがて成長し、身長は五尺七寸(約170㎝)になった。江戸時代の平均身長は「男性:155㎝」「女性:143㎝」。現代の世でも女性で170㎝は相当高いと思うが、 当時の平均身長からみると驚くほどの長身だった


長刀の実力は父や兄を凌駕するようになってきた。


文久3年(1863年) 京へ上洛することになった将軍・徳川家茂の警護を目的に「浪士組」が結成されることになった。尊王攘夷論者・清河八郎の発案で文武に秀でたものであれば犯罪者でも農民でも身分年齢問わずに参加できた。その数は総勢234人にも上った。 その浪士組の中には、後の新選組の核メンバーになる近藤勇土方歳三沖田総司永倉新八などもいた。


琴は当時25歳、兄・貞祇(さだまさ)と一緒に応募した。法神流をひっさげて臨んだ伝通院での立ち合い。女と侮る男どもを徹底的に叩きのめして名をあげた琴。しかし、剣の強さは他の浪士と引けを取らないが、女性だということで断られてしまった。


琴は髷を結い、再度交渉し末非公式に参加することが許され、晴れて浪士組のメンバーとして京に向かった。公式名簿の中に彼女の名前はない


一行は京都へ 琴は男性よりもはるかに長身で、面長で目鼻立ちがよく整っていたので、京都に到着すると女性はもちろん男性からも言い寄られていた。何も知らない京都の女性から見れば長身のイケメン剣士。もてないはずはない。男装を解いた女の格好のときは、高身長でも美人だったので、今度は多くの男性から言い寄られた。


もともと尊王攘夷論者である清河八郎は、京都に到着した浪士隊のメンバーに対し、浪士隊の真の目的を話した。その内容とは、幕府側の警護とは表向きのものであって、本当の目的は天皇をたて、外国人を打ち払う尊王攘夷運動であった。その目的を達成するため、清河は浪士組に対し、江戸に帰還することを命令した。


一部の浪士隊の隊士達は、将軍を警護するために京都に来て、将軍の滞在中に自分たちだけ江戸に帰れないと反発。反発したメンバーの中には後の新選組の中核になる近藤勇芹沢鴨らがいて、京都残留を決意。将軍、京都警護の目的で壬生浪士組(後の新選組)を結成した。


そういった中、中沢琴は自分も京都に残留したいと訴える。


「兄上!このまま江戸へ帰っては『何しに京まで行ったのか』と人に笑われてしまいます。ここは一つ彼らに合流して、京都で一旗あげましょう!」


しかし貞祇は、興奮する琴を冷静に諭した。


「……あのな琴。腕を奮いたいお前の気持ちは解らんでもない。しかし、浪士組を抜けるということは、幕府の扶持も後ろ楯もない、単なる浪人になるということだ。わしは兄として、大事な妹にそんな暮らしはさせられん」


しかし、琴も強がって聞き入れない。


「尽忠報国の志あらば、それしきのこと!兄上が帰りたければ帰ればよい、私は一人でも参ります!」


「そうは行かん。兄一人おめおめと帰っては、父上と母上に申し訳が立たない。ここはどうあっても、一緒に江戸へ帰るのだ」


「嫌です!」


「そもそもだ。此度の江戸帰還とて、ただ帰るのではなく、上様の御為に務めを果たすべき地が、京の都から江戸へ変わっただけのこと。真に尽忠報国の志あらば、どこであろうと己が最善を尽くすのが、武士のあるべき姿、とるべき道であろう。違うか?」


かくして兄に説得された琴は仕方なく江戸へ帰る。もし、琴が京都に残留していたらほぼ間違いなくこの壬生浪士組に参加し、後の新選組に名前を連ねていたに違いない。それどころか、実力を考えると、何番隊かの隊長を任され歴史にもっと名前を刻んでいた可能性もある。


近藤や土方、沖田らとともに京都で女性剣士が暴れまわっているところを想像すると面白い。




⚫︎ 新徴組として活躍する


文久3年(1863年)4月 清河八郎は裏切りの行動に幕府側に目を付けられ、後に龍馬暗殺で有名になる「佐々木只三郎」に暗殺された


清河の同士も捕縛されたため、江戸にもどってきていた浪士隊らは目的を失ってしまったため、幕府は幕臣「山岡鉄舟」や「高橋泥舟」が主導で浪士組を再編成し、ここに江戸市中警護を目的とした「新徴組」が結成された。


琴と兄・貞祇は新徴組に参加し、江戸の市中警護や海防警備として江戸湾の見張りなどを担当した。江戸でも琴はイケメンということで評判が高く、相変わらず男性にも女性にももてていた。


元治元年(1864年) 新選組もそうだったが、もともと不逞の輩が多い新徴組の幾人かは立場を利用し幕府の邪魔になる商家などを襲ったり、ゆすりたかりを働いたりする者もおり、泥舟と鉄舟は不祥事の責任を取らされ罷免。謹慎の罰を受ける。その後、新徴組は出羽国庄内藩の大名・酒井家に預けられた


慶応3年(1867年)10月、大政奉還

大政奉還の直前、薩摩藩は朝廷から討幕の密勅をもらっていた。しかし大政奉還により武力討幕の大義を失ってしまい、一度燃え上がってしまった藩士らの火の向けどころを見失ってしまった。西郷隆盛は密命を出し、各地で薩摩藩士による幕府に対する挑発行為が行われていた。強盗、辻斬り、放火、江戸の治安は急速に悪化し、薩摩藩は「薩摩御用盗」と呼ばれて恐れられた。


市中見廻りに精勤する琴たちは、いつしか江戸の庶民たちに「おまわりさん」と呼ばれ頼りにされるようになる。新徴組は新選組同様に剣術の達人クラスで構成されており、彼らが江戸市中を巡回することで乱れきった江戸の治安はなんとか保たれていた。


その仕事ぶりは「酒井(新徴組を預かった庄内藩酒井家の事)なければお江戸は立たぬ お巡りさんには泣く子も黙る」と謳われて讃えられる程。ちなみにこれがお巡りさんの語源と考えられている。

12月23日 庄内藩の屯所へ鉄砲が撃ち込まれ、使用人1名が死亡。幕府側はこの薩摩藩の挑発行為に業を煮やし、将軍の留守を守る淀藩主・老中・稲葉正邦はついに武力行使を決意する。


12月25日 軍監・石原倉右衛門を総大将に、上山藩・鯖江藩・岩槻藩・出羽松山藩と共同で、薩摩藩邸を包囲。庄内藩士「安倍藤蔵」が薩摩藩邸に交渉に入る。藩邸の留守役の「篠崎彦十郎」に賊徒を引き渡すよう通告。だが、篠崎は要求を拒否。交渉は決裂し、薩摩藩邸の討ち入りを決定した。篠崎は庄内藩兵に槍で突き殺され、包囲する庄内藩兵たちも砲撃を始め、薩摩藩邸に討ち入りを開始した。

戦闘開始から3時間後、薩摩藩邸は炎上。死者は、薩摩藩邸使用人や浪士が64人、旧幕府側では上山藩が9人、庄内藩2人の計11人だった。また、捕縛された浪士たちは112人におよんだ。


琴のいる隊は日向佐土原藩邸の襲撃を担当。琴は兄・貞祇とともに大いに活躍した。しかし、琴は戦闘中に左のかかとを斬られ負傷した。 幕府側は薩摩藩討伐の流れを止めることができず、結局、薩摩藩の挑発に答えてしまう形で幕府は討薩の意思を朝廷に上表。


慶応4年1月(1868年2月)京都に向け進軍を開始。戊辰戦争が勃発する。




⚫︎ 最強といわれた庄内藩


新徴組は、幕府方の有力武闘集団として激闘を繰り広げる。お国のためにという少女の純粋な思いは、やがて時代の激流に飲み込まれ、正義の在り方を問う苦いものに変わってゆく。いつの間にか自分たちが朝敵となって追いつめられる理不尽さとも闘いながら、目の前の敵を斬り伏せていく琴。その姿は健気で美しい。


薩摩藩邸襲撃の際に足を負傷していた琴を気遣い、兄・貞祇は故郷へ帰るよう促したが結局、庄内戦争にも参加。庄内藩として戊辰戦争を戦うことになった新徴組は、各地で無敵を誇るが、いかんせん多勢に無勢。兄の心配した通り、琴は足の傷が響き仲間からはぐれ敵兵10人以上に囲まれる。


「おい、こいつ女だぞ!」


「何だと、散々手こずらせやがって!」


「身の程知らずめ、思い知らせて……ぐゎっ!」


一瞬の隙を衝いた琴は敵兵2、3名を斬り捨てて囲みを突破、九死に一生を得て再び貞祇らと合流した。と、琴が獅子奮迅の大立ち回りを演じたエピソードが伝わっている。


兵器の近代化が進んでいた庄内藩は奮戦。奥羽同盟の藩が降伏していく中、新政府軍を相手に領土侵入を防ぎ抜き、戊辰戦争の最後、会津藩が降伏した4日後に庄内藩も降伏。 庄内藩は幕末最強の藩だということで語り継がれている。


降伏した庄内藩、そして琴や貞祇たちを待ち受けていたのは、新政府軍の総大将・薩摩の西郷隆盛による寛大な措置だった。通常、和議の場における敗軍の将士は、武装を解かれた丸腰で力関係を受け入れさせられるのが習いだったが、明治元1868年9月27日、庄内藩の本拠である鶴ヶ岡城に入った西郷は、逆に庄内藩士の帯刀を許し、逆に自分自身を含めた味方は丸腰となって交渉に臨んだ。


「お互い元より怨みなどなく、それぞれ信じる正義ゆえ、あるいはいっときの都合で敵味方に分かれたまでのこと。まして戦の勝ち負けは時の運、たとい敵であろうと武門たる尊厳を損なわぬように遇せよ」


勝利で驕り高ぶる部下たちを厳しく戒め、どこまでも謙虚な至誠を示した西郷に、多くの庄内藩士が感動し、後に西郷を慕ってその教えを学びに行く者が絶えなかったという。


琴も一時新政府側に捕えられていたが、その後釈放。 明治7年(1874年)に兄・貞祇とともに帰郷する。


故郷に帰った琴は男装する理由もなくなり女性の姿に戻り生活を送った。故郷に帰っても人気は相変わらずで、結婚を申し込んでくる男性が絶えなかった。


しかし、これと言った魅力的な男性にはなかなか出会えず、いちいち会って丁重にお断りするのも面倒になって来た琴は、求婚者たちにこんな条件(ハードル)を設ける。


「私より強い男性と結婚します!」


つまり「自分と剣術の試合をして、勝った者と結婚する」と言ったのであるが、これだけでも剣術の腕前に自信のない多くの男性を篩(ふるい)にかけることが出来た。


求婚してくる男性と幾度も剣術の試合をしたが誰一人琴に勝利する者は現れなかった。結局、琴は結婚することなく独身のまま過ごした。


酒が好きで、酔っては剣舞を舞った。昭和2年(1927年)10月12日、88歳、幕末最強の女性剣士はこの世を去った。




……なにこれ本当に本当なんすかね(本当なんでしょうけども)キャラが立ちすぎてて嘘みたいなホントの話ですね。


で、興味がわいて ↓ この小説を読んでますナウですが、やはり男社会で女が剣士として生きてゆくには幾多の困難と悔しき思いが描かれてましてな。悔しい場面はホント悔しくて悔しくて! ちょっと読むのが辛くなってますナウであります。


一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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