はい、ということで白河口の大敗に続く、次の負け戦がこちら「平潟の戦い」でございます。てゆーか戊辰戦争は結果的に全部負けるんですけどね。負けるとわかっていても武士には戦わねばならぬ時がある!ってなわけで。この戦いはどうだったんでしょうね。
全く知らなくって、なんかスミマセン。
⚫︎ 新政府軍の平潟上陸作戦
無血での江戸開城は大きな転換点となり、これまで旗色を明確にしていなかった西日本の諸藩も、慶応4年にこぞって明治新政府軍に参加した。関東での徳川旧幕府勢力との戦いも、市川・船橋戦争から上野戦争へ至る一連の戦闘によって彰義隊らを壊滅させ、小康状態となった南関東から兵力を移動できる状態になっていた。
新政府側は、西日本の諸藩の兵と関東の薩長の兵力を合わせて一軍を編成。当時、越後方面で勃発した北越戦争では、双方大軍を展開しての膠着状態に陥っており、一方の奥州街道の要地である白河口では新政府軍が度々旧幕府軍を撃破していた(白河口の戦い)が、戦力の不足が顕著であった。
西郷隆盛は上野戦争の以前から「兵力が越後口に傾き過ぎ、白河口が寡少で均衡がとれないばかりか、四方を優勢な敵に囲まれている」と危惧を露にしていたが、大村益次郎に「まずは関東を平定してから」と止められた経緯があり、板垣退助率いる土佐藩兵と薩摩藩兵を中心とする一軍が白河口への援軍に向けられた。
こうして一軍を新設派遣した新政府軍だったが、その間にも諸藩の新政府参加は続き、加えて江戸警備の再編成によって更に一軍の編成が可能になった。新政府軍は海路を用いて白河口から東の磐城地方の平潟に敵前上陸する作戦を立案する。
平潟は列藩同盟の勢力圏にあり、平潟周辺を制圧するまでの補給は海路に頼る危険を伴うものだった。新政府は大軍を送りこむことで平潟一帯を確保し、海路と同時に常陸方面からも陸路での兵員、物資の補給を行う計画だった。
平潟を抑えることは陸前浜街道の確保にもつながり、白河口方面の後方遮断と、磐城平藩や中村藩に対する威圧が期待できた。また、磐城平藩と中村藩を脅かせば、隣接する仙台藩にも影響を与えることは必然であった。
一方、このころの列藩同盟軍の情勢はと言うと、仙台藩、米沢藩を盟主とする奥羽越列藩同盟は東北各地で明治新政府軍と、同盟から寝返った諸藩との戦端を開いていたが、庄内藩をのぞいて目立った戦果はあがっていない。
仙台藩:新潟方面と白河口方面に兵を派遣。白河口では700名の新政府軍相手に敗退を続けていた。しかし、実質100万石とされた仙台藩の動員兵力は東北では群を抜いていた。
米沢藩:新潟方面において幕府軍とにらみ合いが続いていた。
会津藩:白河小峰城を占拠していたが、5月1日に白河口の戦いで新政府軍に奪われる。仙台藩とともに度重なる攻撃をしかけたが、奪還には至らなかった。
浜通り諸藩・中通り南部諸藩(中村藩、棚倉藩、磐城平藩、湯長谷藩、三春藩、泉藩、守山藩):いずれも小藩であり、北に位置する仙台藩の影響下にあったため列藩同盟に加わっていた。
この「平潟の戦い」はあまり知られていないが、奥羽越列藩同盟の脆弱部分を急襲した作戦であり、東北の戦況を変えた戦いだと言って良い。
⚫︎ すんなり上陸できちゃいました
奥羽越列藩同盟側も海路からの侵攻の可能性は考慮に入れており、平潟周辺には仙台藩だけでも14小隊(磐城平に6、中ノ作に2、小名浜に2、平潟に2、塙に2)を分散配置し、浜通り地方(平潟から仙台までの沿岸部地方のこと)諸藩の兵も控えていた。加えて、箱根で敗戦後に東北で合流した林忠崇、人見勝太郎の100名が加わっている。
6月13日に品川から出航した輸送艦が平潟に到着したのは16日であった。同日、小船に乗り換えて数名が平潟へと上陸する。その動きは平潟の西にある勿来関で仙台2小隊50名を率いていた「大江久左衛門」の知る所となったが、大江は何故か軍を動かさず新政府軍の上陸を傍観した(なんでじゃ)。
新政府軍はこの機に全軍上陸させようと村民らに金銭、子供らにビスケットを渡して懐柔。朝廷の御用であることと、賃金を支払う旨を約束して揚陸を手伝わせた(ちょっろ)。
やがて斥候隊が三分隊上陸するにおよび、仙台藩大江隊は後退を開始する(なにしてんねん)。かくして、上陸を妨げるものがなくなった新政府軍は悠々と上陸し、平潟を確保した(罠じゃなかったの?と逆に驚くパターン)。
浜通りには既に仙台藩の兵力が浸透しており、特に「人見勝太郎」ら徳川旧幕府出身者が「遊撃隊」を率いて諸藩を見張って離脱すれば攻撃する動きを見せていた。また、藩ごとの事情もあり、藩主が不在の磐城平藩では実務を取り仕切る隠居の「安藤信正」が一貫した佐幕派であり、戦意を自ら高めていた(安藤信正って坂下門外の変で背中切られて老中から失脚した彼か!)。
他の3藩は藩論が割れており、特に泉藩では新政府軍への恭順を求めて2名が自刃したものの、仙台藩、二本松藩、会津藩らに近い地勢的な理由から率先して新政府に寝返ることもできず、仙台藩の求めるままに新政府軍へ向けて出兵した(嫌々にも程がある)。
このころ「板垣退助」率いる800の兵は白河口の戦いをサポートするべく棚倉城へ迫っていた。思いの外、容易に平潟の上陸作戦が進んだとの報告を聞いた板垣は、棚倉城急襲を決した。列藩同盟に地の利あり、と思われたが板垣隊の攻勢はすさまじく、一日で棚倉城を落としたのである(板垣つよー)。
この棚倉城陥落により、平潟に上陸した部隊と白河口の部隊との連携が容易になったことで、平潟上陸部隊も動き出した。平潟上陸部隊が目指すのは、磐城平藩や相馬中村藩、そして仙台藩である。
⚫︎ グタグタしててドンドン攻め込まれる
6/16に全軍上陸を終えた新政府軍は斥候隊を派遣しつつ守備を固め、第二陣の柳河藩317名、岡山藩302名を待つことにした。一方、目前での上陸を許してしまった列藩同盟側も新政府軍の海への追い落としを企図して仙台、磐城平、泉の各小隊、および人見遊撃隊を出陣させ、その斥候騎兵が平潟の北にある関田付近で新政府軍の斥候と遭遇。両軍は関田において交戦を開始した。
新政府軍は各方面を守るために軍を分散配置しており、関田方面を守っていたのは薩摩藩の私領一番隊であった。薩摩藩は勿来関からの仙台藩兵の出撃を危惧して軍を二分し、一方を北の関田へ向けて進軍させ、もう一方を西の勿来関への対処にあてた。関田の半隊は同盟軍を撃破・撤退させ、西に向かわせた半隊は勿来関から出撃してきた仙台藩1小隊と九面村付近で遭遇、交戦を開始した。
両者の戦力は拮抗していたが、銃声を聞いた薩摩藩私領二番隊が勿来関方面へと殺到。結果、仙台藩小隊の右側面を突く形となり、仙台藩小隊はたまらず敗走した。新政府軍はこの戦いにおいて第二陣到着までの時間を稼ぐことに成功し、一方列藩同盟側は状況を打開することはできなかった上、仙台藩と人見遊撃隊の間で敗戦の原因を押し付けあった(レベル低い)。
6/20、新政府側の増援として飛隼丸の岡山藩兵302名と三邦丸の柳河藩317名が平潟に到着。しかし、それでもなお磐城地方制圧に動ける人員ではなく、後続の第三陣、第四陣らを待ちながら平潟周辺を抑えるのが基本方針となった。
列藩同盟軍も平潟で政府軍に自由な行動を許すわけにはいかず、続々と援軍を送りこもうとしていた(だから動き遅いんだって)。
6/24、旧幕府側の遊撃隊と仙台兵は、鮫川をわたって大島へ出撃。そこの住民が官軍に好意的であることを咎めて放火した。帰り際にも植田に放火し、同盟側は西の八幡山に陣を構えた(八つ当たり激しめw)。
植田に程近い関田に駐屯していたのは岡山藩であり、単独で鮫川を渡河して八幡山へ攻め込むものの、今回は列藩同盟側がよく守り、岡山藩兵も攻めあぐねる。そこへ九面村方面から薩摩12番隊が駆けつけ、岡山藩兵の援護に回って新政府軍は次第に形勢を建て直していく。さらには新政府軍の増援に柳河藩も到着するにおよんで、同盟側も防衛を断念して撤退を開始した。
新田宿へ移動を始めた同盟軍を新政府軍も追跡するが、日没を迎えたことで新政府軍も攻勢を中止する。新政府軍が八幡山を確保して戦闘は終了した(もはや優しい)。
翌6/25、土佐藩の板垣退助が800の兵で棚倉城を攻略したとの情報が平潟の官軍にも届く。これにより白河口の戦いは一挙に新政府優位に傾き、新政府軍は列藩同盟の相次ぐ奪還のための派兵を凌ぎつつ、本格的な北進の準備を始めつつあった。
一方、平潟勢としても座して戦況が打開されるのを待つわけにはいかず、近く到着する第三陣をもって浜通り諸藩へ攻勢に出ることを、6/27の軍議において決定する(最初の水際で防いどきゃ良かったものをよお)。
新政府軍に第三陣が到着したのは6/29。常陸笠間藩200名が陸路を通って到着した。前述の通り6/28時点で新政府軍の攻勢は始まっており、笠間藩はそのまま平潟の守備につく。笠間藩は磐城郡神谷村に5,000石の飛び地を有していたが、戊辰戦争の始まりと共に同盟側に奪われており、その立場からの参戦であった。
笠間藩は宇都宮城の戦いの小山を巡る戦闘において、当時の諸藩がそうであったように槍を構えた鎧兜の騎馬武者と火縄銃を携えた足軽隊という旧式兵装のまま密集突撃を敢行し、旧幕府側に散々に打ちのめされたことから装備を新調している最中であったが、財政難で遅々として進まず、未だ鎧武者がちらほらと混在していた(頼りないことこの上なしw)。
⚫︎ 泉藩、湯長谷藩への攻勢
6/28午前、新政府は植田で軍を二分し、薩摩藩、岡山藩、大村藩は海沿いを通り泉藩へと向かい、柳河藩、佐土原藩は山道を通り湯長谷藩・平藩へ向かった。
列藩同盟軍は小浜付近に陣を築き、先鋒の薩摩2番隊を迎え撃った。これに対し、薩摩藩は部隊を2つにわけて一隊で迂回攻撃をさせて挟撃して敗走させた(弱い)。敗走した同盟軍はなおも泉藩の南方で陣を敷いたが、これも迂回攻撃に抗しきれず敗走を重ねた(弱っ)。
同日、新政府軍は泉藩の藩庁泉陣屋に到着するが、藩主本多忠紀一行が退却した後だったため難なく占領した(弱すぎ)。泉に駐屯した新政府軍だったが、西南方面からの銃声で湯長谷が戦闘中であることを知り、薩摩藩12番隊は戦闘中の柳河藩、佐土原藩を援護すべく新田坂方面へ向かった。また、続いて出発した薩摩藩1番隊は新田宿を通過して敵後方に回り込もうしていた(ほら、こっちは勇ましい)。
柳河藩、佐土原藩は堅牢な陣地で抗戦する列藩同盟軍と相対し、攻略の糸口が掴めずにいた。だが午後、列藩同盟軍の左側背に突如として出現した薩摩藩12番隊に同盟軍は動揺し(すぐ動揺する)、柳河藩、佐土原藩も合わせて攻勢を開始する。さらに同盟軍の後背に大きく迂回してきた薩摩藩1番隊が現れるに至って戦況は決し、同盟軍は壊走状態となる。柳河藩、佐土原藩は湯長谷藩へ向けて前進した(楽勝っすね)。
一方、仙台藩は汽船長崎丸と太江丸をもって磐城平城に増援を送り、輸送を終えた両船舶に平潟への砲撃を命じた。平潟の守りである笠間藩兵に不安のあった新政府側は仙台藩の上陸作戦を恐れて狼狽したが、兵員を既に下ろした両汽船は砲撃のみで引き上げていった(絶好のチャンスをふいにするセンスのなさ)。
岡山、佐土原の両藩は前進を続け、湯長谷兵の主力は湯長谷館を難なく占領した(難なくね)。
増援として泉藩と湯長谷藩に向かっていた仙台藩柴田中務の1大隊は、林道通過中に左右から攻撃を受けて多数の死傷者と逃走兵を生じさせることになり、残存の部隊は磐城平城へ撤退した(ぐっだぐだ)。
6/29、湯長谷を失った列藩同盟軍は、撤退の助けとするため湯本に放火し(そればっかし)、合流した仙台藩兵や磐城平藩兵と共に浜街道の堀坂に陣をしいた。湯長谷を落とした岡山藩・佐土原藩ら新政府軍は、直ちに堀坂に向かったが火事で通れず、手間取りながらも東に迂回する。ようやく延焼する堀坂を回り込んでいくと、ちょうど同盟軍の側面をつく形となった。列藩同盟軍は虚を突かれて混乱し、被害を出しながら磐城平城付近まで退却する。
⚫︎ 仙台富田隊の壊滅
泉領奪還へと向かう仙台藩「富田小五郎」の1大隊だったが、既に水田地帯を進軍中に新政府軍に捕捉されていた。当時の諸藩同様、冨田隊は密集陣形で前進しており、薩摩藩の最初の砲撃で多数の負傷者を生じる(うわー!)。その上、間髪を入れず薩摩藩が突撃を敢行し、大村藩は側面に回りこんでの一斉射撃を仙台藩富田隊に浴びせかけた(うわわわー!)。
たちまち富田隊は総崩れとなり、輸送艦の停泊する小名浜方面へと撤退を始める。沖には太江丸と長崎丸が停泊しており、富田隊は海上での立て直しを図っていた。だが、中ノ作から沖合いの輸送艦までは30人乗り程度の大きさの伝馬船にのって沖を目指さねばならず、数も足りないために数度の往復が必要となった。それでも負傷者から搬送させようと奮闘する富田らの尽力で輸送は進み、薩摩藩が殺到する直前に最後の30人が乗り込む(にげろー!)。
後は沖へと漕ぎ出すのみだったが、潮の流れは干潮となっていた結果、船は沖へ向かうどころか浜へと近づいていく(あれー!)。そして浜には薩摩藩兵らが銃を構えて待ち構えていた(いやーー!)。仙台藩兵は為す術もなく銃撃を浴びることになり、この日仙台藩の戦死者は64人(一説には121人)、負傷者は22人に及び、中には殿を務めた富田も含まれていた(あぼーん!泣)。
一方の新政府軍の被害は、薩摩藩兵が戦死1人と負傷2人、大村藩兵が負傷1人を出したに過ぎなかった。海上に逃れた仙台兵も怪我人と士気の低下、隊長の戦死により大隊としての機能を喪失した。
、、なんかもう同盟軍がザコすぎて悲しくなってきましたわ。。せっかく歩兵は命かけてんのに、やっぱ優秀なリーダーがいないとこうもダメなもんなのかと思い知らされますねえ。この地に「河井継之助」とか「酒井玄蕃」とかがいてくれたら日本が辿った歴史は全然違ってたであろうに、残念です。
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