「二本松少年隊」という名を、知ってる人は知っているでしょう。でも、知らない人には知られていないんですよ(小泉構文)。私は知ってるような知らないような感じなので、調べてみますね。
⚫︎ 背景
二本松藩は10万700石を領し、領国の岩代安達郡は会津藩の猪苗代盆地へ通じる奥羽街道の要衝に位置していた。周囲の小藩である守山藩(2万石)、三春藩(5万石)に比べて石高が高く、藩主の「丹羽氏」は丹羽長秀に連なる名門のために準国主格待遇を受け、老中で白河藩主「阿部正外」の追放以降、白河城の城郭を預かっていた。
藩士の気質としては、会津藩同様に漢学が盛んで、忠君愛国の教育が家臣団に深く根づいていた。しかし、そのために軍制、兵装、戦術の洋化の動きは鈍く、結果として旧態依然の軍備で戊辰戦争に参加することになる。藩の兵力は1,000から2,000足らずとされ、戊辰戦争時は農民兵、老人兵、少年兵を動員してかろうじて2,000を維持していた。
二本松藩が管理していた白河城は、4月9日の段階で新政府軍参謀の「世良修蔵」の命令で新政府軍へ管理が移る。二本松藩兵は一部を残して退去し、会津討伐のための仙台藩、棚倉藩、三春藩らの兵が入っていた。
だが、19日に世良が仙台藩に処刑されると、20日未明に二本松藩を除く各藩の兵士は白河城を退去し、代わって会津藩兵が白河城に入った。23日には家老丹羽富穀の主導の元、列藩同盟に参加する。白河城には会津藩、仙台藩、棚倉藩の2,300名の軍勢が入ることになり、二本松藩兵は自領へと軍を引き上げた。
しかし、大軍にもかかわらず5月1日、新政府軍の攻撃により白河城が再び新政府側に戻った。会津藩は奪還のため二本松藩に増援を要請、二本松藩はこれに応え、8小隊と砲隊からなる主力を白河口に送った。しかし、会津、仙台兵を中心とする相次ぐ攻勢にもかかわらず白河城への攻撃は失敗に終わり、二本松藩兵もしばらくの間、白河周辺に釘付けになる(白河口の戦い)。
この時、二本松藩と白河城の間を守山藩、その北に三春藩といった同盟に参加した諸藩が隔てていたため、二本松藩を守る戦力は老人隊、少年隊、農民兵を含んだ予備兵のみだった。
お〜、嫌な予感プンプンですな。
⚫︎ 棚倉の失陥 三春、守山の帰順
新政府軍としては北上にあたり、一番の気がかりは東にある列藩同盟側の棚倉藩であり、これを放置すると後方で蠢動される可能性があった。そのため24日、板垣退助が800名からなる別働隊を率いて棚倉藩へ向けて出兵する。棚倉城は仙台藩と相馬中村藩が守備にあたっていたが、先立つ18日に平潟へ新政府軍が上陸していたために、対応すべく棚倉の旧幕府軍は平潟へ向けて移動して手薄となっていた。
そのため、棚倉城はわずか一日の戦いで簡単に陥落。阿部正外は棚倉城を放火して撤退したため、板垣退助は城下の蓮家寺を本陣に定め、民政を慰撫し軍略を練った。白河と棚倉を抑え、北上の体勢の整った新政府軍は平潟方面軍の磐城平藩の攻略を翌月まで待ち続ける。これは磐城平藩制圧後、山道を通って三春藩を攻撃する平潟方面軍と歩調を合わせるための戦略的な判断であり、7月13日に磐城の戦いで磐城平城が落城して三春藩を二方面から攻めることが可能となった。
この時、旧幕府軍の主力は棚倉への救援には向かわなかった。旧幕府軍は新政府軍の兵力が二分される好機と見て白河城へ攻勢をかけていたからである。しかし、守りに徹する新政府軍は最新式の銃器によって計7度の襲撃全てを退け、14日に旧幕府軍は白河城攻略を断念した。
16日、仙台藩の大隊長塩森主悦は白河城への攻撃が埒が明かないと見て、棚倉の奪還に方針を変更して棚倉方面へと兵を向ける。その途上、棚倉北東にある浅川で新政府側の陣地に遭遇する。ここには北上に備えて土佐藩兵、彦根藩兵が駐屯しており、仙台藩の攻勢により一時苦境に陥るも、棚倉城からの増援を得て撃退した。この敗戦と平潟に上陸した新政府軍の存在がきっかけとなり、仙台藩兵、二本松藩兵は白河城と棚倉城の攻略を断念して郡山へと撤退を始める。
24日、新政府軍の板垣支隊は棚倉城から北上を開始する。翌25日には土浦藩領の蓬田へ到達し、三春藩まで後一日の距離に迫った。この時、既に三春藩は板垣に恭順の使者を送っていたが、一方では旧幕府軍には援軍を求めるなど戦意高揚を装って仙台藩、二本松藩からの信用を得ていた。
三春藩には増援および監視役として200名の仙台、会津藩兵が駐屯していたが、24日には仙台藩が兵力を南西の郡山に引き上げたこともあって孤立した存在だった。また、駐屯する200の兵士も新政府軍の接近に伴って三春藩の求めるままほとんどが城外の陣地に入り、残された数十名の兵士も新政府軍が接近すると北に引き上げて三春藩の離反を止める要因はなくなった。
新政府軍が三春藩に接近した26日、三春藩は藩主の「秋田映季」自らが城外に出迎えて新政府軍に帰順する。この帰順は旧幕府軍にとってみれば直前まで信用させた上での手のひら返しであり「三春狐にだまされた」と、三春の変節を詰る歌が現在でも残るほどの禍根を残した。
三春藩の帰順の翌27日、三春藩に平潟方面軍が到着し、板垣支隊はその兵力を倍以上に増強する。同日、三春藩から一日の距離にある守山藩も新政府軍に帰順して新政府軍は一気に戦線を北へと押し上げることに成功した。
この時、二本松藩の主力は仙台藩と共に三春藩の南西にある郡山にあり、新政府軍と二本松藩の間には予備隊のみが存在していた。三春の即日無血開城は仙台藩、二本松藩とも想定外のことであり、旧幕府軍が集結する郡山以北に新政府軍が進出した状況となる。
平潟方面軍が合流して兵力を増強した板垣支隊は、この機に三春と二本松藩に向けて兵を進める。二本松藩では新政府軍の接近に伴って降伏についての軍議が開かれたが、家老による「死を賭して信義を守るは武士の本懐」の一言により抵抗の道を選んだ。
⚫︎ 二本松少年隊
当時の二本松藩の兵力は2000程度と見られるが、白河城攻略戦にも人数を出しているため、新政府軍接近を前に兵力は不足。やむなく数え17歳(満15歳)、さらに事態が切迫すると数え15歳(満13歳)の少年までの動員を認めざるを得なかった。もちろんそれは藩上層部が独断で決めたことではなく、戦況を知った少年たちが出陣の嘆願を重ねた結果、藩庁が苦渋の決断を下したものである。
後に「二本松少年隊」と呼ばれる彼ら少年たちは、62人を数えた。なかでも二本松藩砲術師範役の息子「木村銃太郎」22歳を師と仰ぐ、16人の少年たちが異彩を放っていた。木村は伊豆韮山の江川太郎左衛門のもとで西洋砲術の修行を積んで後、4月に帰国すると、藩命によって少年たちに砲術を教えていたという。
少年たちに出陣命令が下ったのは、7月26日早朝であった。16歳の「上崎鉄蔵」は、玄関まで見送りに出た母と祖母が「行ってらっしゃい」と言うと、「行ってらっしゃいではないでしょう。今日は、征きなさい、です」と応えて、母を苦笑させたという。
また「岡山篤次郎」13歳は、出陣に際して母親に所持品のすべてに「二本松藩士 岡山篤次郎十三歳」と書いてほしいと頼んだ。 母が理由を尋ねると、「私は書が下手なので、私の字では恥ずかしいのです。名前を書いておけば、戦死した時に、私の屍(かばね)だとすぐにわかりますから」と応えた。
「久保豊三郎」12歳は、母に何度も出陣を願ったものの、年が満たないため許されなかった。それでもねだるように出陣を求めたため、母は困り果で幼いから、間近に砲声でも聞いたら恐ろしくなって帰ってくるだろう 。と考え、下男と一緒に行くことを条件に許した。豊三郎は下男の手を引くようにして、大壇口に向って行ったといいう。兄の鉄次郎も大壇口に出陣している。
「成田才次郎」14歳は、父から「敵を見たら斬ってはならぬ。突け。ただ一筋に突け、わかったか。わかったら行け、突くのだぞ。」と、教え諭され出陣したという。この突きは、初代藩主・丹羽光重公以来の二本松藩伝統の剣法だという。
少年隊62人中、数え年で、12歳1人、13歳14人、14歳19人、15歳10人、16歳12人、17歳6人、木村門下生16人を含む25人が隊長「木村銃太郎」、副隊長「二階堂衛守」の指揮のもと大壇口を守り、他の37人はそれぞれの部隊に配属され、7月29日を迎えた。
⚫︎ 大壇口の戦い
7月29日の霧深い朝であった。大壇□では敵の来襲必至の情報で、緊張して警戒に当っていた。大壇口守備隊は、丹羽右近を隊長とする三個小隊で、木村銃太郎の率いる少年隊23名はその配下となった。
8時頃、大壇口前方の尼子台に陣していた二本松隊に対して西軍の砲撃が開始された。西軍は組み易しと見たのか、隊列を組んだままに少年たちの眼下に姿を現わした。
「若先生(銃太郎)、まだですか?」少年たちの撃ちたくて気がはやるのを、「命令を待て、もっと敵を引き付けてからだ」と言い聞かせる。
大砲には、木村門下第一の砲手・岡山篤次郎と成田虎治の二人が付き、その傍には銃太郎が毅然として立ち、他の少年たちは陣立てに身をひそめ、銃を構えて敵を待ち構えた。
息詰まるような時が刻々と流れ、「撃て!」銃太郎の命令が下り、篤次郎と虎治の精魂込めた速撃弾は3発とも敵の頭上で爆発、敵は慌てて散り、左右の山林に身を隠し、大砲と銃を雨あられと撃ってきた。一方、民家にひそんだ敵を砲撃したところ見事に命中し、民家51軒を貫いた。この砲撃の確実さには西軍も驚いたほどで、一弾一弾よく目標に的中したと後に西軍の隊将が語っている。
しかし、多勢に無勢、新式銃を使い、統制ある巧みな近代戦法の西軍は包囲態勢を整え、徐々に少年たちを攻め立てて来る。
「若先生、早之助がやられました!」遠くで叫ぶ声がした。少年隊最初の戦死者である「奥田午之助」であった。少年たちは初めて戦争という実体験を、まじかに見せつけられた。仲間の命を奪われた少年たちは、弔い戦と奮起し、激しく向い撃ちあった。
こうした中、ついに隊長が敵弾で左腕を撃ち抜かれ重傷を負い、「もはやこれまで」と退却を決断し、自ら集合の太鼓を打ち鳴らす。敵は目前に迫り危険な状況となった時、追い討ちをかけるように敵弾に腰を打ち抜かれ、その場に倒れてしまう。「この重傷では到底お城には帰れぬ。我が首を取れ。」と副隊長に願うのであった。
少年たちは銃太郎を励まし、一緒に退却するよう懇願したが、「押し問答する時ではない。早く切れ。」と促し、副隊長は心を決め銃太郎の首を切り落とした。その瞬間、少年たちは一斉に号泣したという。
そして、少年たちは副隊長の指示に従い、泣きながらも銃太郎の屍を急いで埋め、首を下げ持ち、引き上げることになった。「青山助之丞」21歳と「山岡英治」26歳は、少年達の退却を助けるため、薩摩兵の真っただ中に 大刀を振りかざして斬り込み、戦死した。
退却中、負傷していた「成田才次郎」は仲間とはぐれてしまう。才次郎が松坂門入口に身を潜ませていると、長州藩士「白井小四郎」が率いる部隊と遭遇する。
二本松藩には「斬らずに突け」という伝統があった。浅野内匠頭が吉良上野介を討ち損じたことを聞いたとき、当時の藩主・丹羽光重(浅野内匠頭の大甥にあたる)が、「斬りつけずに突けばよかったものを」と口惜しがったということから、二本松武士の剣の伝統として受け継がれてきた。
才次郎はこの教えを父から受けていた。だから、迷わず白井を突いた。白井は突っ込んでくる敵が少年であることに気づき、手を出さないよう周囲の者を制したが、不覚をとり胸部を刺されて絶命した。
白井はこのとき、自分の不覚だから少年を殺すなと部下に下知したといわれるが、才次郎は、捕まえようとした長州兵に抵抗したので銃殺された。あるいは傷が深くて間もなく死亡したなど諸説あるが、いずれにせよ、この事件の後に絶命している。享年14歳。
「小沢幾弥」17歳は、息絶え絶えなところに、久保丁坂で土佐兵と遭遇した。すでに意識は混濁していた幾弥は、土佐兵に「敵か、味方か」と問い、腰の刀に手を掛ける。哀れに思った土佐兵は「味方だ」と答えると、幾弥は首を伸ばし、手振りで介錯を求めた。土佐兵は無言で幾也を介錯した。
母親から「二本松藩士岡山篤次郎十三歳」と書いてもらった篤次郎は重傷を負って倒れていた。土佐や薩摩の兵たちは、少年を憐れみ、懸命に看護に当たった。介抱にあたった土佐藩士は、「何としても回復させ養子に貰い受けたい」と話していたというが、篤次郎は助からなかった。
この日の戦いで隊長以下15名が戦士。二本松少年隊は壊滅する。このとき薩摩兵を率いていた「野津道貫」は、この日の激戦を振り返り、二本松藩士の壮絶な戦いぶりを賞して、「戊辰戦争中第一の激戦」と述懐している。
⚫︎ 落城
大壇口を始めとする城外の陣地をほぼ攻略され、二本松藩の指揮官らは二本松城に撤退して最後の抵抗に移ろうとしていた。二本松藩の望みは会津藩と仙台藩の援軍だが、両藩とも大軍を割ける状態ではなく、派遣された援軍も二本松城にたどり着く前に要所に置かれた新政府軍によって半壊の被害を受けて撤退してしまっていた。また、城内の仙台藩兵、会津藩兵も城を脱出し、後には逃げ場所のない二本松藩兵のみが残された。
二本松城にこもる重臣らは抵抗をついに断念する。城に自ら火を放つと、家老の富穀以下7名は次々と自刃して城と運命をともにした。この落城により、二本松藩は家老以下18名の上級職全てが戦死した。二本松藩の死者は218名におよび、その中には13歳から17歳までの少年兵18名も含まれている。
二本松城には明治新政府軍が入り、新政府軍は会津、仙台を戦略目標とした東北戦争において大きな前進を遂げた。北の福島藩に向かえば、中村へ進出した平潟方面軍と合同して仙台藩を直接攻撃可能であるし、西に向かえば会津藩の領地へついに足を踏み入れることができる。その2つの選択肢のどちらかを選ぶか、板垣退助と大村益次郎の討議の末に会津攻めが決定し、「母成峠の戦い」へつながっていくのである。
負けることがわかっているのに「武士の本懐」と、同盟の信義を守って玉砕した二本松。会津のように薩摩長州に恨まれていたわけでもない。徳川に格別な恩義を感じる家でもないし、仙台や米沢のように列藩同盟を主導した立場でもない。逃げようと思えば逃げられたわけで、現代の感覚からすれば「馬鹿だ馬鹿だよ二本松は馬鹿だ」という見方になるかもしない。だが、彼らはやはり「武士」だった。
維新後、板垣退助は「全藩を挙げて命を惜しまず戦った二本松藩こそ武士の鑑」と賞賛し、徳富蘇峰も「会津、二本松の卓越した政治姿勢があったから、日本は植民地にならずに済んだ」と語っている。
、、なんて悲しくも勇ましい。それが正しいのかどうかは置いといて、どっかのシバタはんとは雲泥の差なことは間違いない。
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