vol.162「山本八重の抵抗」について


会津史上、もっとも凄惨な歴史として刻まれる、戊辰の籠城戦。その幕開けは、血の海と化した城下町から始まった。


そして、ついに幕末のジャンヌ・ダルク降臨! 愛する故郷、愛する会津は私が守る!ならぬことはならぬものです・・・八重の腕が目を覚ます!


(こちらのブログ様より多分に引用させていただいております🙏 https://miunoheya.fc2.net/blog-entry-1044.html?sp




⚫︎ 女狙撃手・八重の奮闘


8月23日。半鐘が鳴り響く城下を、八重は急いで城に向かう。本丸に入った八重の異装は入場した女達から奇異な目で見られるが、そこに照姫が現れ、八重の男装に勇ましい姿だと声をかける。八重が、この装束は弟の形見だと告げると、照姫は以前に八重が詠んだ歌を引用し「では弟と共にその鉄砲に会津武士の魂を込めよ」と励まし、八重を勇気づけるのだった。


白虎隊が戻らない滝沢本陣の容保は、敵が迫っている敵を食い止めるため、外堀に陣を移すことを決断。藩士達にねぎらう一方で、弟・定敬には危険な会津を離れるよう言い渡す。そして官兵衛や内蔵助も城外の守備に向かおうとすると、それでは城の守りが手薄になると悟った八重が、自ら鉄砲隊の指揮を執ることを名乗り出る。


「わだすが!わだすが鉄砲隊を指揮しやす!」


すぐさま神保内蔵助らに「女の出る幕ではない!」といさめられるが、八重は食い下がる。


「自分は山本覚馬の妹、鉄砲の事なら誰にも負けないし、これは会津全ての戦いだ! 男も女もねぇ! わだすを戦に加えせぇ。会津はこの手で守る!」


一方、八重の父・権八率いる鉄砲隊が守っていた甲賀町口は敵の激しい攻撃を受けていた。家老の土佐は権八に容保を護衛させて閣門の中に入らせる。やがて、共に各門を破られた土佐と内蔵助は、腹を切る覚悟を決める。死ぬ前に、さまざまな思いがひしめくなか、内蔵助は最後は幕府のためでなく、会津のための戦をしたのだから、藩士としてこれほど名誉なことはないと術懐する。


それを受けた土佐は、内蔵助の息子・修理も、切腹したときはきっと同じ思いで本望だったのでは、と追慕の念を募らせる。そして若い藩士達に後事を託し、互いの腹に刀を突き立てるのだった。


時同じくして、悌次郎をはじめとした白虎隊の少年達は、飯盛山で城下が火に包まれているのを目の当たりにする。一矢むくいて討死にするか否かで議論になるが、城に戻るのはたやすい事でなく、敵に捕まるのは生き恥をさらすことになり 容保に面目が立たないと、自刃を決意、次々と命を絶つ白虎隊士であった。


その頃、京の養生所では、薩摩藩の獄舎で流行病にかかってしまった瀕死の覚馬が、大垣屋と時栄の手当てを受けていた。うわごとで会津の安否を気遣い八重の名を呼ぶ覚馬を横目に、時栄は、覚馬から託された『管見』を差し出す。覚馬が心血注いで書いたこの建白書が、上層部に無事渡ることを願う時栄に、大垣屋は命に代えても引き受けると誓う。


そして、夢うつつの中 覚馬が一縷の望みを託す八重はといえば、「ならぬことはならぬ」の言葉を胸に、城の土豪でスペンサー銃を撃っていた。

会津藩にはスペンサー銃は八重が所持する1挺しかなく、スペンサー銃専用の銃弾の備蓄はなかった。八重は自らが入城時に持ち込んだスペンサー銃専用の銃弾100発のみで戦った


怒涛の勢いで北出丸に押し寄せてくる敵の進軍を、正確な射撃で阻止し、老兵と少年兵を指揮しているのは八重だった。見事な指揮を執る八重の働きで、頼母が敵軍の間を縫って無事入城し、八重の弾は薩摩軍隊長「大山巌」の右脚をも貫く。


そして、四斤山砲(大砲)を引いてやってきた尚之助と合流、大砲を撃つための城壁に穴を開ける。まるで、鳥羽伏見の戦で覚馬が思いついた戦術そのままに、覚馬と三郎の念が、彼女の細い肩にかかったように・・・。


圧倒的な戦力を誇る新政府軍の攻撃に、会津軍は三日で敗れるとみられていたが、一人の女狙撃手がそれを阻んだのだ。


この夜、八重は、長い髪を切ろうと決意する。夜襲の兵に志願するためであった。「私は三郎だから、長い髪はもういらない」「髪は女の命・・・こんなに奇麗な髪なのに」親友の時尾は涙をこらえつつ、八重の髪に刀を当てる。

夜襲に備えて髪を切った八重のもとに、日新館炎上の報せを持って健次郎が駆けてきた。医師の春英は、敵に奪われないよう日新館を焼き払い、重傷者たちは自害したと無念の表情を見せる。八重はいたたまれなくなり、「敵を追っ払う!」と声を張り上げスペンサー銃を持ってゲリラ戦に向かう。


夜襲のさなか、ふと父に「銃を撃つことは人間の心臓を打ち抜ぐっつうことだ」と教えられたのを思い出し感傷に浸る八重に、敵兵が刀を振りかざす。すかさず黒河内師匠が槍で敵をなぎ倒し、事なきを得るが、師匠は八重を逃がし、代わりに犠牲となる。




⚫︎ 籠城 2日目


鶴ヶ城の一室では、頼母、梶原ら重臣に尚之助が加わり、軍議が開かれていた。尚之助はかねてより、城からわずか半里に位置する小田山を警戒していた。小田山には大事な火薬庫もあり、山から大砲を撃たれては防ぎようがないからだ。


頼母は尚之助に同意し、守りを固めることに賛成だが、いかんせん兵が足りず、丁寧寺周辺を守って敵をしのぐしかないと返す梶原と対立。そこに帰ってきた官兵衛と秋月に、家老の土佐と内蔵助が戦死したからには、会津を率いるのは自分達だと梶原は語気を荒げる。


「頼母さまは負けることばかり言い立てておられる! 冬まで持ちこたえれば会津に有利となり、和議に持ち込む道も見えてくる!」


「火薬も小田山も奪われては戦う術がない。この戦には出口がない。今の段階で開城しなければ、会津は根絶やしになる」


「頼母さまは腰ぬけとなった!敵に膝を屈する位なら、城を枕に討死にするべき!」


・・・そして容保の鶴の一声。


「ことここに至っては、開城恭順の道などない。城内一丸となって戦い、城と命運をともにするのみ!」


白河の戦の敗走以来、頼母は信頼を失い孤立を深め、そのうえ開城恭順ばかり願い出るため仲間からは「腰抜け」と疎まれ、ついには容保からも暗に城を去るよう命じられるのだった。


しかしほどなく小田山は敵軍に侵入され、火薬庫も奪われてしまい、頼母の説いた通り、今開城しなければ会津が根絶やしにされるのは目に見えていた。




⚫︎ 包囲網を突破せよ


仲間が次々と戦死していくなか、八重の耳に懐かしい彼岸獅子の音色が聞こえてくる。それは、かつて八重と「山川大蔵」が彼岸獅子の祭のもみ合いの中、助け出した子を先頭に、敵の目を欺いて入城してくる大蔵隊の彼岸獅子舞の行進であった。大蔵が魅せた懐かしい彼岸獅子の姿は、過酷な戦に耐える人々の心に希望の灯をともす。


鶴ヶ城が新政府軍によって、あえなく包囲されてしまった8月23日。籠城していた松平容保公は、城中、寡兵たるを案じて、南の日光口の守備に当たっていた、若干24歳の若き家老「山川大蔵」に使者を出した。命じて曰く。


「城中兵少なく、守備薄弱なり、速やかに帰城すべし、但可成途中(ただしなるべくとちゅう)の戦闘を避くべし」


大蔵はただちに帰城の途につき、そうして、小松集落に差し掛かった。心は急くが、御城は新政府軍によって、ぐるりを固く取り囲まれている。これを突破せずには、入城は難い。


そこで、大蔵は「可なり我に一策あり」として、大胆な奇策に打って出た。それは「彼岸獅子」と共に、堂々、行進しようというもの。大蔵は、まず、小松村の大竹小太郎に、勇気ある独身の男を招集させた。


平均年齢は、16歳にも満たない。そんな若き村人たちが、新政府軍が包囲している死地に赴いて、しかも、楽を奏で踊りながら行進するというのだ。失敗は、即ち、死を意味する。


彼らは、親族と水杯(みずさかずき)を交わし、悲壮な覚悟をもって、粛然と「彼岸獅子」の装束、道具類の準備をする。その覚悟のほどの、見事さよ。


新政府軍を前にして、「小松彼岸獅子」の一団は、涼やかなまでに凛然と、楽手を先頭に、お囃子を“とひよれよれ(笛の調子の擬音)”と吹き鳴らし、川原橋を占領していた長州藩と大垣藩の南側を、堂々、行進していった。


新政府軍は、この突如として現れた奇怪な一団を、ただただ、呆然、見送るのみ。先頭が城に入って、はじめて会津藩兵であったと知り、「ああ、してやられた」と、地団駄を踏んだのだった。


鶴ヶ城に籠城中の山本八重も、きっと、同い年の若き家老と、馴染みの「彼岸獅子」がやり遂げた、痛快な行進の一部始終を、眺めていたに違いない。

いいぞ! 負けるな八重!

勝ってくれ会津!(それは無理か)


参考
https://miunoheya.fc2.net/blog-entry-1044.html?sp


一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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