箱館・五稜郭が陥落し、「榎本武揚」率いる旧幕府軍が降伏したことで、1年半に及んだ一連の戊辰戦争は、ここに終結。日本の長き武家政権も、その幕を閉じることに、あいなりました。
ってことで、江戸時代もとっくに終わってますし、ちゃんと旧幕府軍の最後も見届けましたから、そろそろまた家康のころへ立ち戻って、江戸時代2週目に入りたいと思っちょります。たぶん、まだまだ取りこぼしてることも多いでしょうしね。
とは言え、せっかくここまで時代の流れを追ってきたのに、明治維新の顛末を全部スルーするのもアレなので、多少はエピローグ的にサクッと触れておきましょか。ほんとサクッとね。つまんないから。
⚫︎ 中央集権への道 ― 版籍奉還と廃藩置県
明治2年(1869)5月、蝦夷地・箱館の五稜郭に拠った榎本武揚ら旧幕府勢力が新政府軍に降伏し、戊辰戦争はここに終結した。この結果、新政府は名実ともに全国の支配権を掌握することとなる。
戦後、新政府は統一国家の体制整備を急ぎ、同年、大名に対して領地と領民を朝廷へ返還させる「版籍奉還」を命じた。もっとも、これは当初こそ制度上の改革にとどまり、藩主はそのまま「知藩事」として引き続き藩政を担い、従来の政治構造は大きくは変化していなかった。
一方で、戊辰戦争において主に戦ったのは諸藩に属する藩士であり、彼らは戦後それぞれの国元へ帰還したため、中央政府はほとんど自前の軍事力を有していなかった。こうした事情から、各藩では「第二の戊辰戦争」を想定し、急速な軍制改革が展開される。とりわけ紀州藩は徴兵制度の導入を進め、プロイセン式訓練を施したおよそ2万名の近代的軍隊を編成するなど、独自の軍備拡張を図った。
そのため、長州出身の「木戸孝允」、薩摩出身の「大久保利通」ら指導層は、このままでは政府が分裂し、再び内乱が発生する危険があると深く懸念。こうした危機感の下、彼らはついに全国の藩そのものを廃止する大改革を決断する。薩摩・長州・土佐の三藩から約8千名に及ぶ軍勢──後に御親兵と呼ばれる精鋭部隊──を東京に集結させ、その軍事力を背景として、明治4年(1871)7月、政府は「藩を廃止し、県を置く」と宣言した。
これに伴い、藩主である知藩事は一斉に免職され、その後の地方統治は中央から派遣される県令(府については府知事)が担うこととなった。また、旧知藩事たちは東京に移住するよう命じられ、藩の政治的実体は完全に解体されていった。
この廃藩置県は、従来の封建秩序を一挙に覆す革命的政策であっただけに、木戸や大久保は強い反発を覚悟していた。しかし実際には目立った抵抗はほとんど起こらず、改革は驚くほど円滑に実施された。その大きな理由として、政府が藩士の家禄(給与)や各藩の巨額の負債を国家が引き受けると約束したことで、藩側の不満が緩和された点が挙げられる。
こうして、日本列島に長く存在した「藩」は姿を消し、明治政府は中央集権による国内統一をついに完成させた。以後、政府は列強による干渉や植民地化を防ぐため、短期間のうちに急速な社会改革と近代化政策──いわゆる富国強兵──を推し進めていくこととなる。
⚫︎ 身分の壁を越えて ― 四民平等と新しい社会
旧幕府体制の象徴であった身分制度も、改革の波に呑まれた。武士・農民・町人──。これまで生まれながらに決められていた身分は廃止され、すべての人々が「平民」として扱われるようになった。
明治4年、岩倉具視を団長とする使節団が欧米諸国を巡った。その目的は、不平等条約の改正と、西洋文明の視察。彼らは列強の工業力と社会制度を目の当たりにし、「日本もこのままでは列強に呑み込まれる」という危機感を新たにする。この体験が、その後の日本の政治・産業・教育改革をさらに加速させた。
明治政府は、欧米列強に肩を並べる「近代国家」の建設を急ぎ、明治5年には「学制」が制定され、全国に学校が設けられた。明治6年には「徴兵令」。武士だけでなく、国民すべてが兵役の義務を負う時代が始まる。
さらに「地租改正」により、土地の所有者が税を納める制度が生まれる。この改革は、国の財政を支える大きな柱となった。工部省を中心に、鉄道・造船・紡績などの近代産業も次々と整備され、日本は急速に“西洋化”の道を歩み始めることとなる。
しかし、その道は平坦ではなかった。武士たちは俸禄を失い、生活の基盤を奪われる。やがて各地で旧士族の不満が噴き出し、反乱が相次いだのだ。
⚫︎ そして、西南戦争 ― 武士の時代の終焉
明治10年。「征韓論」をめぐる意見の不一致から明治政府と袂を分ち、鹿児島へ帰郷していた「西郷隆盛」が挙兵。薩摩士族の不満を背景に、近代政府への最後の反乱「西南戦争」が勃発した。
薩摩軍が最初の標的として定めたのが、肥後 熊本城であった。「加藤清正」が築いたこの名城は、その堅牢さから「難攻不落」の城塞として広く知られ、近世城郭の到達点とも評されている。兵力でこそ劣勢にあった薩摩軍であるが、この城を攻略し拠点化することができれば、戦局を大きく有利に展開できるとの判断があった。
籠城する政府軍は約4,000、対する薩摩軍はおよそ14,000。2月22日、薩摩軍は満を持して総攻撃を開始。しかし、城を囲む高石垣 ― 通称「武者返し」 ― が攻城戦の前に立ちはだかる。清正独特の反りを持つ石垣は、攀じ登ることを極めて困難にし、薩摩軍は思わぬ苦戦を強いられた。
正面からの攻略が困難と判断した薩摩軍は、包囲による兵糧攻めへと作戦を転じる。ところが、ここでも熊本城の防禦構造が威力を発揮する。城内には120か所を超える井戸が掘られ、長期籠城に耐える豊富な水源が確保されていた。さらに、食糧確保のための銀杏の植樹、畳に保存食であるサトイモの茎を用いる工夫、壁材にカンピョウを混ぜ込むといった“清正流”の備えが随所に施されていたのである。熊本城は、まさに長期籠城を前提にした実戦的城郭であった。
この周到な備えによら、52日に及ぶ籠城戦でも薩摩軍はついに城内への侵入を一度も果たせず、政府軍は熊本城を守り抜いた。まさに、清正の築いた城が時代を超えて官軍を救った格好である。のちに西郷隆盛は「官軍に負けたのではない。清正公に負けたのだ」と語ったいう。
また、西南戦争において最も熾烈な戦闘が展開された地として知られるのが、肥後国北部に位置する 田原坂 である。この地は、政府軍にとって熊本城への補給路にあたり、両軍がその死守をめぐって正面から激突することとなった。
戦闘は3月4日から17日間にわたり断続的に続いた。悪天候が続く中、泥濘と化した坂道を舞台に、双方は出血戦とも呼ぶべき激しい戦闘を繰り広げる。政府軍は最新式の銃火器を装備し、火力の面で薩摩軍を大きく凌駕していたが、連日の降雨によって火薬が湿り、銃が十分に機能しなくなる隙をついて、薩摩軍は刀を抜いて肉薄戦に持ち込んだ。
しかし、政府軍もただ後退するばかりではなかった。戦況の逼迫を受け、旧会津藩士「佐川官兵衛」や元新撰組「斎藤一」らをはじめとする剣術に優れた部隊を投入し、薩摩軍の白兵突撃に対抗したのである。こうして田原坂は、銃撃と斬撃が交錯する混戦の場となり、多大な犠牲者を生んだ。
田原坂の激戦を経て、薩摩軍の後退は止まることなく続き、戦線はついに西郷隆盛の故郷・鹿児島へと戻る。政府軍は迅速に包囲網を形成し、やがて薩摩勢は城山周辺へと追い込まれ、城山の洞窟に立て籠もって最後の抵抗を試みた。その最中、西郷隆盛は政府軍の銃弾を受けて重傷を負い、ついに自刃を決意。介錯を務めたのは、かねてより側近として仕えてきた「別府晋介」であった。
総大将の死を受け、薩摩軍の主だった指揮官たちも次々と倒れた。中でも、西郷と行動を共にしてきた「桐野利秋」は最後まで奮戦しながら戦死し、ここに7か月にわたる西南戦争は終焉を迎えた。戦死者数は、薩摩軍約6,800名、政府軍約6,400名にのぼる。兵力と装備の差は歴然としていたにもかかわらず、両軍の損害が拮抗していたことは、戦闘の激しさと薩摩軍の粘り強さを物語っている。
これにより、武士階級は完全に消滅。以後、武力による政府の打倒は不可能となった。
⚫︎ 天皇主権の大日本帝国憲法を制定
代わって盛り上がったのが自由民権運動だった。土佐出身の「板垣退助」らが政府の薩長藩閥独占体制を非難し、選挙で選ぶ民撰議院(衆議院)を開設して民間人を政治に参加させよと主張したのが始まりだ。運動の担い手は不平士族から豪農、さらに国民一般へと広まっていった。
西南戦争の終結を経て、明治政府は国家体制の再編へと大きく舵を切り始める。その中心となったのが、近代国家に不可欠とされる「憲法」の制定であった。欧米諸国から国際的に承認され、不平等条約の改正を実現するためにも、立憲国家化は逼迫した課題であった。しかし、政府をより強く動かした要因は、国内で高まる自由民権運動の勢いである。
民権家たちは、政府に対し立憲政体の確立や国会の早期開設、さらに憲法の制定を強く要求。彼らは独自に「私擬憲法」と呼ばれる草案を作成し、その多くは国民の権利保障を重視した民主的内容を備えていた。中には、フランス流の急進的な自由主義思想を反映したものまで登場し、政府にとっては看過できない政治的圧力となってゆく。
政府は憲法制定の研究を本格化させ、「伊藤博文」を欧州に派遣。伊藤は、各国の憲法を比較しながら日本に適した体制を検討した結果、君主権の強いドイツ(プロイセン)憲法を最も参考にすべきだと判断する。帰国後、伊藤は日本の国情に合わせて修正を施した草案を作成。そして1889年(明治22)2月11日、憲法は「欽定」―すなわち天皇の制定という形式で公布され、大日本帝国憲法が誕生した。
同憲法の最大の特徴は、天皇を神聖不可侵の存在とし、統治権の総攬者として「天皇大権」を付与した点にある。天皇は軍隊の統帥権、外交権、内閣の任免権など、近代国家としても極めて強大な権限を握っていた。一方で、信教・言論・職業の自由など、近代的な国民の権利も一定範囲で保障された。これら自由権の導入は、伊藤博文の強い意向によるものであったと伝えられる。
藩閥政府の中心的人物でありながら、伊藤は後に立憲政友会(政党)を立ち上げて政党内閣を作ろうとしており、比較的リベラルな思想の持ち主だった。しかも伊藤は憲法の解釈にも幅を持たせたので、最大限に民主的な解釈をとれば、「美濃部達吉」のような天皇機関説(天皇は国家の最高機関とする説)に到達するし、言葉どおりに解釈すれば天皇至上主義に行きつく。そして実際、前者が大正デモクラシー時代を築き上げ、後者が軍国主義という暗い時代を生み落としたのである。
いずれにせよ、憲法の制定によって日本はアジアの中でいち早く近代国家の体裁を整えることができたのである。
ってさ。
最後の最後で、まさか西郷隆盛と加藤清正の時空を超えたバトルがあるとは知りませんでして、サクッとのつもりが、だいぶ長くなっちゃいました。
まあ、でもこれで終わりましたね。
よく頑張った私、えらい!
参考
https://www.nippon.com/ja/views/b06902/
https://www.touken-world.jp/tips/7792/#:~:text=「西南戦争」(せいなん,とも言われています%E3%80%82
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