vol.123「これまでの五代友厚」について


五代友厚(ごだいともあつ)」は、幕末から明治維新にかけて活動した人物の中でも、重要な役割を果たした一人である。しかしながら、その功績に比して、長らく一般的な注目を集める存在ではなかったと言える。ところが近年、NHK連続テレビ小説『あさが来た』においてディーン・フジオカが五代を演じたことを契機に、その人物像は広く知られるようになった。さらに、大河ドラマ『青天を衝け』でも同じくディーン・フジオカが五代を演じたことで、再び話題を呼んだことは記憶に新しい。


では、五代友厚とは実際にどのような人物であったのだろうか。一般には、明治期における実業家としての活動が強調されることが多いが、幕末維新期における五代の働きも、実はきわめて重要であったと考えられている。倒幕から新国家形成へと向かう激動の時代において、彼は外交・経済の両面で独自の役割を果たしていたが、その存在は同時代の著名な政治家や軍人たちに比べると、歴史の表舞台に出ることは少なかった。


この背景には、明治政府成立後、五代が政治の中枢にとどまる道を選ばず、早い段階で実業界へと転身したことがあると見られる。もし彼が政界にとどまり、さらに長くその生涯を全うしていたならば、近代日本の政治指導者として、首相の座に就く可能性すらあったと評されることもある。五代友厚は、政治と経済の分岐点に立ちながら、日本の近代化を支えた人物の一人として、改めて評価されるべき存在なのである。


ってことで、五代友厚が主役の映画『天外者』を観て、手っ取り早く楽して学ぼうとしたのだが、全然参考にならず何が何だか結局よう分からんかった。ので、優秀なるWEB記事様の文章を抜粋しながら理解を深めさせていただくことにする。




⚫︎ 五代の長崎時代と薩英戦争


五代友厚の人生における大きな転機は、安政4年(1857)に訪れた。この年、五代は薩摩藩の郡方書役に任命されるが、それ以上に重要であったのは、幕府が設置した海軍士官養成機関・長崎海軍伝習所への遊学である。伝習所は幕臣に限らず諸藩の人材にも門戸を開いており、五代はここでオランダ語や海軍技術を学ぶとともに、西洋文明や国際情勢に対する幅広い視野を身につけていった


以後、五代は長崎に滞在する機会を多く持つようになり、その地で「勝海舟」「榎本武揚」「佐野常民」「高杉晋作」らと交流を重ね、人脈を形成していく。なかでも、英国人商人「トーマス・グラバー」との出会いは特筆すべきものであり、五代の後半生に大きな影響を及ぼすこととなるが、この点については後に改めて触れたい。


こうした経験を背景に、五代は藩内で次第に重用されるようになり、文久2年(1862)には舟奉行副役に就任した。同年、幕府艦・千歳丸に乗って上海へ渡航し、太平天国の乱のさなかにあった清国で、薩摩藩のために汽船や武器の購入にあたっている。この上海で、高杉晋作と直接出会ったことは、幕末史においてよく知られた逸話である。


さらに文久3年(1863)、生麦事件を契機として勃発した薩英戦争に際して、五代は情勢の緊迫化を察知し、急ぎ長崎から帰藩。天佑丸の船長として実戦に参加した。薩英戦争の過程で、五代は後に「薩摩スチューデント」として渡英することになる寺島宗則とともに、英国海軍の捕虜となる。この捕虜経験について、五代は自発的に捕虜となったとされ、その意図を攘夷一辺倒であった薩摩藩論を開国へと転換させるためであった、と解釈されることが多い。


しかし、五代が上海から帰国すると、直ちに「島津久光」の命を受け、長崎で上海貿易に従事していることを踏まえると、捕虜となる必要性は必ずしも明確ではない。五代自身はこの件について多くを語らなかったが、藩の貴重な艦船が拿捕された責任を引き受けるとともに、敵側の情報収集も兼ねて、あえて英国側に留まり捕虜となったと見るのが、より妥当な理解であろう


五代と寺島はその後、横浜で解放されたものの、容易に捕虜となった経緯から、薩摩藩内ではイギリスとの内通を疑われ、さらに幕吏からも追及を受ける立場となった。このため、五代は江戸や武州熊谷などでの亡命同然の生活を余儀なくされる。やがて寺島と別れ、単身で長崎に潜入した五代は、ここで再びグラバーと接触することになる。両者はすでに肝胆相照らす関係を築いていたと見られ、この交流を背景に、後にパリ万国博覧会にもつながるロンドン密航留学計画、いわゆる「薩摩スチューデント」構想が練られていくのである。




⚫︎ 五代友厚の最先端な上申書


長崎に潜入した五代友厚は、かつて交流を深めたトーマス・グラバーと再会し、長年胸中に温めてきた構想を語り始めた。それは、薩摩藩、ひいては日本の富国強兵を実現するための海外貿易の推進と、計画的な留学生派遣であった。五代はこの構想を単なる理想論にとどめることなく、グラバーと協力して具体的な計画としてまとめ上げる。その成果が、後に『五代才助上申書』(『薩藩海軍史』所収)として知られる文書である。なお、以後「薩摩スチューデント」に関する実務的な手配の多くは、グラバーが担うこととなった。


この上申書の大きな特徴は、詳細な収支計画が付されている点にある。幕末期としてはきわめて先進的な内容であり、そこにはグラバーの助言が反映されていたと考えられるが、それ以上に、五代自身が重ねてきた周到な調査や、卓越した商才が色濃く表れている点は見逃せない。実際、のちに薩摩藩が推し進めた富国強兵・殖産興業政策の多くが、この上申書の構想に沿って実行されたことを考えると、五代が藩の近代化を主導する立場へと踏み出す起点が、すでにこの段階で築かれていたことがわかる。


五代は、構想を三段階に分けて提示している。


第一段階では、佐賀などから余剰米を大量に買い付け、上海において販売することで莫大な利益を得ることを提案した。さらに、茶・生糸・椎茸・昆布・干鮑といった産物を海外市場に投入すれば、その利潤は計り知れないとも述べている。


第二段階では、こうして得た利益をもとに製糖機械を輸入し、加えて外国人技術者を雇用することで砂糖の大量精製を実現し、それを輸出産業として育成する構想を示した。


第三段階では、これらの事業によって生み出される巨額の収益を用い、蒸気軍艦や大砲・銃といった軍需品に加え、貨幣製造機、農業機械、紡績機械などの導入を進めるべきであると上申している。経済力の強化と軍備の近代化を一体のものとして捉える、極めて合理的な発想であった。


そして五代は、これら三段階の計画を実行するための前提条件として、留学生の派遣を強く主張した。海外での買い付けや技術導入は、単なる商人任せではなく、留学生に同行する視察員が自らの目で確認し、判断すべきであると考えたのである。


留学生派遣計画について、五代はまず第一段階として、通訳1名を含む17名を、約150日間イギリス・フランスに派遣する案を示した。この段階は長期留学というよりも、視察団に近い性格のものであった。家老職などの上級家臣9名には軍事・地理・風俗の視察を担わせ、残る者には農耕機械、砲台築城、大砲・小銃製造、病院・学校の制度などを分担して調査させることが提案されている。さらに注目すべき点として、攘夷思想を持つ壮士の中から3名をあえて選抜し、西洋の現状を直接見せることで、開国派へと意識転換を促そうとした点が挙げられる。これは、五代らしい現実主義に基づく人材育成策であった。


続く第二段階では、藩校・造士館から才能ある若年層50〜60名と、やや年長の者20名ほどを選抜し、西洋諸国に派遣する構想が示された。彼らには陸海軍事技術に加え、砲術、天文、地理、製薬など幅広い分野を学ばせるとされており、留学期間も数年単位を想定していたと考えられる。帰国後には、修得した知識と技術を活かし、熟練者を教師として藩内各地に学校を設立することが提言されている。


実際に実現した「薩摩スチューデント」は、この構想を基礎としつつ、財政事情などから規模を縮小した折衷案であったが、その基本理念と骨格は、五代の上申書に忠実なものであったと言えよう。


もっとも、この時代の日本人に海外渡航は正式には認められておらず、留学は密航という形を取らざるを得なかった。もし発覚すれば、死罪に処される可能性すらある、きわめて危険な行為である。五代の構想は、その先見性のみならず、命がけの覚悟を伴う挑戦でもあったのである。


、、と。WEB記事様の受け売りですが、割愛するとこがないからすごい。この時点でもう龍馬に勝ってる。特にこの上申書の内容が具体的ですごい。なんて有能な奴なんだ。もしも、この頭脳が幕府側にあったら歴史は変わっていたに違いない。




⚫︎ 薩摩スチューデント

実際に選ばれた薩摩スチューデントは、薩英戦争によって海軍力の圧倒的な差を痛感したことを契機に、元治元年6月に欧米列強に対抗できる軍事技術・諸科学および英蘭学の教育機関として設置された開成所から多数選出された。留学生は、特定の家柄や年齢からではなく幅広く選抜されており、思想的には敢えて攘夷思想が強い上級家臣を含んだ。


留学生15名の中には、駐英公使・初代文部大臣となる「森有礼」、駐仏公使・外務大輔となる「鮫島尚信」、駐米公使・農商務大輔となる「吉田清成」、駐蘭公使・元老院議官となる「中村博愛」、開拓権少書記官となり現在のサッポロビールの前身・開拓使札幌麦酒醸造所を設置した「村橋久成」などが含まれる。変わり種としては、最年少の13歳で薩摩スチューデントに加わり、アメリカに永住してワイン王となった「長澤鼎」がいる。個性豊かな薩摩スチューデントは、近代日本の建設に必要不可欠な人材となったのだ。


薩摩スチューデントの使節には、4つの使命が島津久光から課せられた。その4つとは、


① 薩摩藩をはじめとする大名領にある港を外国に開き、そこで自由に交易できるようにイギリス政府に協力を求めること


② 富国策を実現するために外国市場を調査し、薩摩藩として必要な製造用機械などを購入すること


③ 強兵策を実現するために、必要な軍艦・武器などを調査・購入すること


④ 将来に向けて、必要な西洋知識を受容するために留学生を同行させ、現地で諸々の手配をして監督することであった。


五代友厚は、②③にあたる製造用機械・軍需品の買い付けや商社設立などに奔走した。




⚫︎ 五代友厚とモンブラン


五代友厚は渡欧中、ロンドンのみに留まらず、全権の新納久脩、通訳の堀孝之とともにヨーロッパ各国を回り、精力的に視察を行いながら、紡績機械や武器の買い付けをするなどして、使命を果たしていた。中でも、五代のヨーロッパでの最大の功績は、やはり薩摩藩とベルギーとの間で結ばれた仮の通商条約に匹敵する、ベルギー商社の設立であろう。


もちろん五代であっても、さすがに自身の才覚だけでは、そううまくは運ばなかったであろうが、そこに登場するのが「シャルル・ド・モンブラン伯爵」である。彼は事実上の二重国籍を持ち、フランス伯爵であると同時に、ベルギー男爵でもあった。


元治元年(1864)、モンブランは横浜鎖港談判のために渡欧した外国奉行「池田長発」に対し、積極的にアプローチして使節団の便宜を図り、フランス政府要人との会談を斡旋した。この時、モンブランは池田に対し、幕府に対抗する諸侯を征伐できるように、軍事的にフランスが援助することを仲介したいと申し入れた。池田は乗り気になり、帰国したら幕閣の同意を得ると約束したものの、幕府はそれを斥け、フランス公使ロッシュを通じてフランスと直接交渉を始めてしまった。


その事情を知らないモンブランは、慶応元年(1865)に横浜製鉄所の建設準備および軍制調査のために派遣された外国奉行「柴田剛中」に対し、ベルギーとの通商条約を結ぶ仲介をする提案を行ったものの、柴田は我関せずの態度を示して全く埒があかなかった。モンブランは激怒して、これ以降、反幕府的な真逆な態度を示すことになる


こうしたモンブランの反幕的志向は、ロンドンに居る薩摩藩使節・五代に接触を図るため、使者を派遣することにつながった。五代らはモンブランの招待を大歓迎し、大陸視察時にベルギーで会うことを約束した。


モンブランは五代らを大歓迎し、イングルムンステルにある自分の城に泊めて歓待した。その後、パリでも交流を重ね、関係が親密化した結果、モンブランの取り計らいでベルギー皇太子ドックーデーブラパン(ブラバン公)や外務大臣に面会が叶い、一国の公式使節に準ずる待遇を受けた。五代の成功は、モンブランに依るところがいかに大きいかがうかがえよう。


モンブラン主導の下、モンブランを介してベルギーと交渉を重ねた結果、慶応元年8月26日に至り、ベルギー政府の証人2名の前で、新納久脩と五代友厚は『ベルギー商社約定書』に調印した。




⚫︎ 遣欧使節「柴田剛中」の密航留学生への対応


慶応元年(1865)閏5月、幕府は横浜製鉄所の建設準備および軍制調査のため、外国奉行「柴田剛中(以下シバター)を正使とする総勢10名の使節団をフランス・イギリスに派遣した。


シバターらは、イングランド銀行を視察した時、長州ファイブと薩摩スチューデントの新納久脩・五代友厚・堀孝之の記帳を発見して驚愕した。「田辺太一」ら随行員は、幕府の許可なく渡欧した密航留学生を召喚し、事情を質した上で取り締まることをシバターに要請し「さもないと幕府は日本政府として西欧から認められなくなる!」と迫った。


しかし、シバターは藪蛇になるとして、その提案を拒否したため、幕府要路と密航留学生の歴史的なロンドンでの接触の機会はなくなった。田辺は、こうした事なかれ主義を訝しみ、大いに不満を感じていた。なお、こうしたシバターの消極的で曖昧な態度は、パリ万博問題でも引き継がれる


一方で、シバターはイギリス外相に幕府の許可なく渡航した留学生を、海軍学校に入学させないように要請するなど、密航留学生たちの修学の妨害を実行した。これは、帰国後にまったく手を打たなかったことが問題視されることを恐れたためであったが、ロンドンでの密航留学生との接触を極端に嫌い、随行員にも接触を避けるよう徹底した指示を出した。


こうした行為に対し五代は、シバターの態度を俗物と切り捨て、シバターは帰国後、薩摩スチューデントへの対応について、どう申し開きすべきかのみに苦心惨憺であると嘲笑った。五代は、この程度の人物しか派遣できない幕府の実態を痛烈に批判しており、幕府を完全に見捨てた態度をとったのだ


シバターだっさ。




⚫︎ 五代友厚の憂慮とその結果


一方で、五代友厚は密航留学が幕府使節団・シバターに探知された事実を深刻に憂慮していた。シバターが帰国後に、幕府から薩摩藩に対して尋問があるのではないかと警戒し、五代はあらかじめ想定問答集を作成し、慶応元年11月8日に鹿児島に居る家老桂久武に送付している。五代らしい、用意周到さである。


五代のきめ細やかな配慮の背景には、フランスの実業家モンブランとの間で、薩摩藩とベルギーの貿易商社設立の契約を推し進めるにあたり、何らかの妨害が幕府から入るのではないかといった、悪影響への不安があった。このベルギー商社の設立は、産業貿易担当として渡欧した五代にとって、最大の使命であり業績であるため、それを実現することに五代は注力したのだ。


五代の問答集の中で、薩摩スチューデントの派遣目的は、「夷情探索」「海軍技術の導入」「機械・物産の購入」の3点であることを強調し、海外渡航は国禁にもかかわらず、国家興廃に関わる時節なので、止むを得なかったと釈明することを求めている。


幕府の尋問に対して、薩摩藩が留学生派遣を否定すれば、その情報が直ちに横浜から欧米諸国に伝わり、新聞に掲載されることは間違いなく、そうなれば、それ以降は薩摩藩は西欧では相手にされなくなるとの世相を伝え、藩政府の善処を要望した。


また、五代は、薩摩スチューデントは既にヨーロッパ各地の新聞紙上で取り上げられるほど有名であることを伝える。そして、特にフランスでは島津久光がナポレオンと比較され、日本をリードするのは久光しかいないと表現されており、名誉なことこの上ないと説明している。


その後の展開では、五代の心配にもかかわらず、幕府からの尋問はまったくなかった。日本人の海外渡航を認める機運が、既にこの段階では幕閣内に醸成されていたことも大きな要因であったことは間違いない。しかし、それ以上に政治的な要因が存在していたのだ。


シバターの帰国は、慶応2年(1866)1月であり『小松・木戸覚書』(いわゆる薩長同盟)が結ばれた僅か5日後であった。第二次長州征伐をめぐって政局が混乱しており、幕府は薩摩藩を味方に引き入れようとしていたが不首尾に終わり、薩摩藩の抗幕姿勢には敏感にならざるを得なかった。この状況下で、薩摩藩を刺激するような言動は厳に慎むべきであったのだ。


このように、この時期に江戸・京都・ロンドンで繰り広げられていた政治的動向、つまり『小松・木戸覚書』の成立や、幕府と薩摩藩の対立など、実は点として存在していたのではなく、それぞれに影響を及ぼし、連動していたのだ。まさにグローバルな世界の中で、幕末政治史は展開していたことになる。




⚫︎ 近代日本人・五代友厚の誕生


五代は、留学生以上に西洋に衝撃を受け、政治的思考をめぐらした。彼は生来の開明派ではあったが、ロンドン到着と同時に、今後の日本について大きな憂いを感じていた。


五代は、日本人を傲慢で地球が広いことを知らず、国内の動揺によって、むなしく年月を費やしている井の中の蛙であると手厳しく突き放す。そして、今は北にロシア、西にイギリス・フランス、東にアメリカが存在し、最後にはその沓(くつ)を取ることになると警鐘を鳴らしたが、これは欧米による植民地化を強く憂いたことに他ならない。


また、五代は「その時になって憤慨し、倒れるまで戦って敗れてしまっては、まったく無益なことであり、速やかに、これまで綿々と続いてきた国家の欠陥を明らかにし、無知蒙昧さを自覚し、通商を行って富国強兵を図ることに尽力しなければならない」と訴えた。


その前提となる具体的な方策として、公家・大名をはじめ、諸藩の家老クラスから選抜し、そこに過激攘夷派の巨魁も加えた視察団を西欧に派遣。そして、彼らの十分な観察を踏まえた上で、国策を論じて決定し、挙国一致で実現することを五代は提言している。


こうして富国強兵を実現し、国勢が奮い立てば、10数年後にはアジアで覇権を握れるとまで断言する。五代はこうした思索から、留学生の派遣は時期尚早であったと反省の弁を述べ、薩摩藩要路の西欧視察が先決であったことを繰り返し嘆き、その早期実現を希望した。


五代は、想像以上に進歩した西欧文明に接し、日本の抜き差しならぬ後進性に、めまいすら覚えたのであろう。しかし、その絶望感に拘泥することなく、日本の指導者、この段階では支配者層の、啓蒙啓発を実地で行い、富国強兵のための国策を立案して、挙国一致で邁進することに活路を見出そうとしていた。


五代は日本出発の前に、幕府から外交権を朝廷に移行し、一諸侯となった徳川家も含め、朝廷の下での国家体制の実現を目論んでいた。そして、藩は自由貿易を独自に行える権限を持つ、地方分権制を念頭に置いていた。


しかし、五代は「それでは欧米に対抗できる国家を形成できない」と判断し、藩を超えた国家レベルで西欧諸国に対峙することを念頭に置いている。つまり「天皇を戴く中央政権の下に挙国一致体制を構築し、藩権限は抑えるべきではないか」という考えに至ったのだ。


このような五代の志向性は、版籍奉還、その先の廃藩置県を漠然としながらも見据えており、明治国家を先取りしたものであった。確かに、王政復古を志向していた志士は少なからず存在したが、みな藩の否定には至っていない。五代は、近世日本社会を脱した、近代日本人としての国家観と言えるレベルに、すでに達していたのだ。




はい、今回はここまで。いや〜五代友厚すごいね。ほんと坂本龍馬なんて五代パイセンの足元にも及ばないモブキャラだってことが、よーく理解できましたわ。


それ以上にシバターの小物感がすごかったですがw



参考
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66374https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66375https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66386

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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