vol.175 「明治の浮世絵」について


乗りかかった舟、という言葉があるように、一度乗ってしまった舟は降りたくても妙に降りにくいもんで。いや降りたいならジャブンと飛び降りたらええやんって自分でも思うのだけれども、なんやかんやここまで乗ってきた手前、もうちょい知りたいこと調べてから降りようかなって心理が働くのですよ、なう。


でまあ、せっかくここまで来たんで、菱川師宣が生み出して、蔦屋重三郎が盛り上げた浮世絵ブームの終着点ってやつは、どんな景色なのか一応見ておこうかと。




⚫︎ 西南戦争を娯楽的に楽しむ江戸っ子たち


明治10年(1877年)。

鹿児島で西南戦争が勃発すると、東京では西郷に声援を送る人々が続出した。


「こんなばかくせえ世の中がいつまでもつづいてたまるもんけえ、どうせ徳川様が今にまたお帰りになるに決まってらァな」

「そうよ、そうよ」


江戸っ子たちは、そう熱く語り合っておったそうな。西郷びいきというよりは、反明治政府というスタンスだったのである。西郷は、いわば「敵の敵は味方」であり、彼らは西南戦争の結果に一喜一憂、戦争の情報が掲載された新聞を我先にと買い漁ったという。


この関心の高まりは、当時急速に普及しつつあった新聞メディアの需要拡大と密接に結びついていた。従来の瓦版に代わり、西洋紙を用いた新聞が大量に読まれるようになった背景には、西南戦争をめぐる過熱した報道があった。戦況記事は連日更新され、人々は競うように新聞を買い求めた。

同様の現象は、視覚文化や演劇の分野にも及ぶ。西南戦争を題材とした錦絵(多色刷木版画)は頻繁に制作・販売され、高い人気を博した。また、戦争を素材とする歌舞伎演目が全国各地で上演され、いずれも大きな興行的成功を収めている。こうした状況は、西南戦争が単なる政治・軍事事件にとどまらず、当時の大衆文化において「娯楽の題材」として消費されていたことを示している。


西郷隆盛が「実は生きている」「火星に姿が見える」といった生存説が流布したのも、このような過剰な関心と興奮の中から生まれた俗説であったと考えられる。


このように戦争を娯楽として享受する姿勢は、決して近代以前に特有のものではない。現代においても、無人機による攻撃映像が現実感を伴わないまま流通し、「まるでゲームのようだ」と評されることがある。被害者の血や死が可視化されないことで、戦争が抽象化され、消費可能な映像へと変質する点において、当時の錦絵や歌舞伎と本質的な違いは少ない。


西南戦争当時の都市民衆もまた、実際の戦場や犠牲から距離を保ちながら、華麗で誇張された表現を通じて戦争を受容していた。その意味で、西南戦争は近代日本における「戦争と大衆娯楽」の関係を考える上で、極めて示唆的な事例である。




⚫︎ 幕末から流行り始めた無惨絵

幕末期に向かう社会不安の高まりの中で、浮世絵界において注目すべき動きを見せたのが、「落合芳幾」と「月岡芳年」の共作による錦絵シリーズ『英名二十八衆句』である。本作は慶応2年から3年(1866〜1867)にかけて刊行され、幕末浮世絵を代表する「無惨絵」の系譜に連なる作品群として知られている。

同シリーズは、後世において「怖い浮世絵」「狂気の作品」といった評価で語られることが多い。しかし、その成立背景を考えると、単なる異常性や個人的嗜好の発露ではなく、当時の社会情勢と市場環境を反映した、きわめて戦略的な企画であったと理解することができる。


刊行時期は、大政奉還を目前に控えた日本社会が、極度の緊張状態にあった時代である。芳幾の生まれた頃から関東地方の治安は徐々に悪化し、ペリー来航以降、その変化は急激なものとなった。桜田門外の変で大老井伊直弼が暗殺されて以降、要人襲撃事件は頻発し、京都では尊王攘夷を掲げた暴力事件が相次いだ。横浜でも外国人居留地を舞台にした犯罪が発生し、生麦事件を契機として、「異国艦隊来襲」の流言が都市部に広まった。


江戸においても、直参旗本の「青木弥太郎」と、吉原出身の愛妾「雲霧阿辰」による攘夷名目の強盗殺人事件が起こるなど、決して平穏とは言い難い状況であった。こうした空気の中で、従来の美人画や名所絵だけでは民衆の関心を引きつけきれず、より刺激的で暴力性を帯びた題材への需要が高まっていたのである。


国芳門下であり、武者絵を得意とした芳幾と芳年は、この需要を的確に捉えた。師「歌川国芳」譲りの力強い描写力に、世相を反映したグロテスクな要素を融合させ、さらに人気絵師同士を競作させるという構図は、江戸の出版市場において極めて効果的であった。『英名二十八衆句』には両者が同一題材を描いた図も含まれ、国芳一門随一の実力者と、新進気鋭の若手という対照的な立場が、鑑賞者の関心を一層煽ったのである。


しかし、この兄弟弟子は、幕府の崩壊と明治維新への向き合い方において、次第に異なる道を歩むことになる。慶応4年から明治元年(1868)、芳年は上野戦争を目撃し、江戸防衛のために戦死した彰義隊士たちを写生した。その体験を経て制作された『魁題百撰相』は、単なる戦争絵ではなく、死者を弔う性格を帯びた作品であり、芳年はその後しばらく制作活動から距離を置くこととなる。



⚫︎ 新しいメディア「新聞」を飾る錦絵


一方、芳幾は明治5年(1872)、近代メディアの創成期においていち早く新聞事業に関与し、『東京日日新聞』の発起人に名を連ねた。同紙は条野伝平、西田伝助とともに創刊された日本初期の近代新聞であり、錦絵的表現を活かした挿絵を特徴とした。


新聞こそは明治の新たなるメディア。読者が飛びつきそうなおもしろゴシップネタに、毒々しい錦絵を入れる―そんなスタイルが持ち味で、超絶技巧なのに描かれている内容は実にしょうもない。例えば、、


『仰天! じいさんとばあさんが老い楽の恋でなんと駆け落ち?!』

『自業自得! 鬼コスプレで犯罪をするも、毒饅頭を食べて中毒死!』

『絶対に泣ける……幽霊になっても我が子をあやす母』


などなど、こんなどうということもないB級ニュースを取り上げて、それを錦絵にするのであるが、どうしたって国芳譲りの腕前が残っているので、ネタは遊郭での大騒ぎやら不良同士の喧嘩やらなのに、イカしたポーズが格好いい。毒々しいメディアは人気が出るものなのでしょう。追随媒体も出てきて、錦絵新聞は一大メディアとなったとか。

こうして「錦絵新聞」は一時代を画す存在となったが、印刷工程の制約から速報性に劣り、次第に活字中心の新聞に主導権を譲ることになる。芳幾が挿絵を担当したのは明治7年(1874)までであり、このメディア形態は比較的短命に終わった。しかし、その表現は19世紀イギリスの風刺雑誌『パンチ』にも通じるもので、日本の近代ジャーナリズム形成過程を考える上で重要な位置を占めている。


日本の幕末から明治にかけての浮世絵にも、こうした風刺ジャーナリズム要素が加わっていった。しかもド派手なフルカラー。民衆の心理も反映しているのか。今見ても生々しく、味があり、当時の空気が伝わってくる。


そんな錦絵新聞立ち上げに関わった落合芳幾は、明治のインフルエンサーと言える。芳幾には、時代を読む器用さがあったのだ。




⚫︎ 画鬼(がき)と呼ばれた奇才「河鍋暁斎」


幕末から明治にかけて活躍した「河鍋暁斎 (かわなべきょうさい)」は、浮世絵師であると同時に、日本画の正統を体得した画家でもあった。幼少期から並外れた画才を示し、わずか7歳にして 歌川国芳 に入門、浮世絵の基礎を学ぶ。その後は日本絵画史上最大の画派である 狩野派 に学び、厳格な筆法や水墨表現を体系的に修得した。


この二つの系譜を併せ持つ点こそが、暁斎の最大の特徴である。狩野派の伝統的な水墨技法や構成力を基盤としながら、それを浮世絵という大衆的表現の中に大胆に取り込むことで、従来にない独自の画風を生み出した。正統派の水墨画、写実性の高い動物画、艶やかな美人画、さらには妖怪や戯画といった異ジャンルを自在に往還する作風は、同時代の絵師の中でも際立っている。

その奔放かつ圧倒的な画力から、暁斎は「画鬼(がき)」と称された。たとえば、大きな化け猫の出現に驚く二人の男を描いた『惺々狂斎画帖』に見られるように、彼の作品には恐怖と滑稽さが同居している。現代の鑑賞者にとってもユーモラスで、思わず笑ってしまうような表現が多く、「なぜこの場面を描いたのか」と想像を巡らせる楽しさを与えてくれる。


さらに暁斎の名を国際的に広める契機となったのが、明治期のお雇い外国人であるイギリス人建築家 ジョサイア・コンドル の存在である。コンドルは暁斎に師事し、その人柄や画業を記した書籍を著した。この著作が海外で広く読まれたことで、暁斎は日本国内にとどまらず、世界的にも知られる絵師として評価されるようになった。


河鍋暁斎は、幕末から明治という激動の時代において、伝統と革新、正統と戯画を架橋した稀有な存在であり、日本美術史の中でも特異な位置を占める画家である。




⚫︎ ザ・ラスト・オブ・浮世絵師「小林清親」


明治時代に入ると、江戸期に隆盛を極めた浮世絵文化は急速に衰退していった。そのような時代状況の中で、「最後の浮世絵師」と称される存在が「小林清親(きよちか)」である。

清親の最大の特徴は、光と影を主題とした独自の表現技法──いわゆる「光線画」を確立した点にある。夜景や月明かり、行灯や街灯といった人工の光を巧みに取り入れ、明暗のコントラストによって情景を浮かび上がらせる作風は、それまでの浮世絵にはほとんど見られなかった新しさを備えていた。


彼の作品には、夜空や月、灯りに照らされた街並みなどを描いた風景画が多く、光と影が織りなす繊細な階調表現が高く評価された。そこには、西洋画、とりわけ水彩画に通じる透明感や叙情性が感じられる。清親は、西洋美術の表現手法を積極的に研究し、それを版画という日本固有のジャンルに取り込むことで、新たな近代風景版画の地平を切り開いたのである。

明治9年(1876)から14年(1881)にかけて制作された連作『東京名所図』は、清親の代表作として知られる。東京の風景を全93景にわたって描いたこのシリーズは、文明開化期の東京が見せる四季折々の姿を今に伝える貴重な視覚資料であり、近代日本の都市景観を記録した作品群としても重要な意味を持つ。


こうした業績から、清親はしばしば「明治の広重」と呼ばれる。彼の描く風景には、劇的な誇張や派手さはないが、光と影の微妙な揺らぎを丁寧にすくい取る静かな眼差しが貫かれている。そのため、鑑賞者は作品を前にすると、不思議と心が落ち着き、当時の東京の空気にそっと身を委ねる感覚を味わうことができる。


小林清親は、浮世絵という伝統的表現の終焉期に立ちながら、それを単なる過去の遺産として終わらせることなく、近代へと橋渡しした画家であったと言えるだろう。




以上、なるほどなるほど。絵的にだいぶ進化したせいか、確かにここから先はもう「浮世絵」とは呼べない世界に突入した感がありますな。別に進化することは悪くないんですが、やっぱ浮世絵はかつてのベタッとした平面的な世界観が独特の良さであり、味だったわけで。そうゆう意味では、浮世絵も江戸時代と共に終焉を迎えたみたいですね。


誰か現代にもう一度、浮世絵ってジャンルを蘇らせてくんないかな。

今の日本だって十分生き苦しい「浮世」だと思いますがねえ。。



参考
https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2025/12/14/202612
https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2024/09/24/118411#東京の江戸っ子たちには娯楽だった

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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