私「あれ? あれあれっ!? 江戸時代の頭に戻るはずだったのに、ここはどこ? え! 平安時代の中期? なんでこんな時代に??」
別人格「ふっふっふ。説明しよう。江戸時代とは、すなわち武家政権の最終形態。ならば、いかにして武家政権が成り立って来たのか、その流れを把握してこそ、真の学びと言うもの。2週目はそこから出直してもらうことにしたのだ」
「だっ誰だお前!」
「私の名は、豆田マジメ」
「、、、」
「、、、」
「あー、飽木田サボルの反対的な?」(vol.0参照)
「そう、このブログが続いてるのも俺のおかげよ」
「、、、」
「、、、」
「で、何を調べろと?」
「あ、平将門についてよろ」
● 仕方がないので「平将門」について調べてみると
てっきり源平合戦で有名な「平清盛」のオヤジかジーチャンあたりなのかと思っていたが、平将門と平清盛は同じ「平氏」の一族ではあるが、時代も系統もかなり異なるらしい。平将門は10世紀ごろ、つまり平安時代中期の人物で「桓武平氏」と呼ばれる系統に属している。一方、平清盛は平安時代末期、12世紀の人物で「伊勢平氏」という別系統の平氏だとか。つまり、同じ平氏でも時代も流れも違い、直接的な血縁関係はかなり遠いんだってチャッピーが言ってた。
そんな「平将門」は、武士ながらにして、桓武天皇の血筋を引く高貴な人物。935年(承平5年)から940年(天慶3年)にかけて起きた「平将門の乱」では、自らを「新皇(しんのう)」と称して天皇になることを宣言。これは、古代以来の支配体制を揺るがす、画期的な大事件で、貴族の時代を終わらせ、武士の時代を作ろうとしたんだとか。
つまり、朝廷に公然と立ち向かった初期の武士の代表格ってことになるのか。なるほど、だから豆田マジメが調べろって言うわけね。
● 平将門の略歴
平将門は、平安時代中期の903年(延喜3年)に生まれた武士で、桓武天皇の血を引く五世の子孫にあたる。桓武天皇の曾孫である「高望王」が臣籍降下して「平」姓を賜り、上総国の国司を務めたことから、将門の一族は後に「桓武平氏」と呼ばれるようになった。
高望王の子には良文・良正・良将・良兼・国香の五人がおり、このうち良将が将門の父である。良将は下総国佐倉(現在の千葉県北部)を拠点とする在地領主であったが、将門はその子として育った。
将門は15歳で上京し、藤原北家の有力貴族である「藤原忠平」に仕え、検非違使への任官を志した。しかし、当時の朝廷では官職の多くが藤原氏に独占されており、将門は志を果たせず、天皇護衛を務める滝口の武士にとどまった。
これは将門個人の能力不足によるものではなく、律令制が動揺し、中央では貴族社会が閉塞する一方、地方では国司の専横が横行するという時代背景によるものであった。官途を閉ざされた下級貴族や皇族の末流が、武士として地方に活路を求めざるを得ない状況が広がっていたのである。
こうした中で父・良将が早世し、将門は中央での出世の道を断たれ、志半ばにして関東へ帰郷することとなった。この挫折が、後に関東で独自の勢力を築き、朝廷に反旗を翻す将門の歩みの出発点となっていく。
将門が関東へ戻ると、父・良将の所領であった下総国佐倉は、叔父にあたる平良正(下野介)、平良兼(上総介)、平国香(陸奥大掾)によって事実上押さえられていたことが明らかとなった。
加えて、将門が婚姻を望んでいた「源衛(みなもとのまもる)」の三人の娘はいずれも叔父たちに嫁ぎ、さらに将門の妻に対して源衛の息子たちが横恋慕(既婚者や恋人のいる人に対して横合いから恋愛感情を持つこと)したとも伝えられる。こうした私的・政治的対立が重なり、将門の不満は急速に高まっていった。
やがて935年(承平5年)、将門は源衛の三人の息子と叔父・国香を殺害するに至る。この事件を契機に、源衛・良正・良兼らは将門討伐に動くが、いずれの軍勢も将門に敗北した。追い詰められた源衛は朝廷に訴え出て、将門は検非違使による取り調べを受け、一時拘束される。
しかし937年(承平7年)、朱雀天皇の元服に伴う恩赦によって将門は釈放された。なおも敵対を続けた良兼は再び挙兵するが、将門は旧主である藤原忠平に良兼・平貞盛の暴挙を訴え、朝廷は同年末に両名追捕の官符を発した。
その結果、良兼方の勢力は急速に衰え、939年(天慶2年)には良兼が病死する。一方、貞盛は行方をくらませたままであった。こうして将門は関東一帯で連戦連勝を重ね、その武名と存在感は急速に高まっていったのである。
● 平将門の乱
939年(天慶2年)11月、常陸国で起きた国司と在地勢力の対立が、平将門の行動を決定的に転換させることになる。税の不払いなどを理由に常陸国司と対立していた「藤原玄明」は、圧迫を逃れるため将門に救援を求めた。国司は玄明の引き渡しを要求したが、将門はこれを拒否し、ついに両者は武力衝突へと発展する。
将門は約千の兵で常陸国府軍三千を破り、国府を焼き払って国司の権威の象徴である「印綬」を奪取した。これは、朝廷の支配下にある一国を実力で奪ったことを意味し、将門が明確に朝敵となった瞬間であった。
朝廷は、これを聞いてビックリ仰天。それまで、将門がらみの戦いを「領地と女をめぐる親族間の揉め事」程度だと認識していたが、違うということにようやく気が付き、事態の深刻さを理解するに至る。
実は将門は、朝廷の要職は藤原氏が独占し、地方の政治は国司が横暴に振る舞ってやりたい放題、民衆は朝廷から派遣された国司からの重税や労役にとても苦しめられるという状況に、かなり憤慨していた。
将門が助けた藤原玄明は、強い意志を持って税金を払わず、朝廷が管理する蔵を襲って、米を民衆に分け与えていた人物。つまり、将門が刃を向けた相手は、単なる叔父ではなく、叔父の職務「国司」に対して、それ以上に「朝廷の支配構造そのもの」に対してだったのである。
勢いに乗った将門は、関東各地の国司を追放して印綬を奪い、上総・下総・安房・下野・武蔵・相模など関東一帯を制圧する。そして、重税と労役に苦しむ民衆の支持を背景に、自らを「新皇」と称した。
将門の挙兵は直ちに京へ伝えられ、朝廷は激しく動揺する。討伐に先立ち、呪詛による鎮圧も試みられたが効果はなく、ついに「将門を討ち取った者は身分を問わず貴族に取り立てる」との破格の恩賞を全国に布告した。
これに応じたのが、将門と因縁を持つ「平貞盛」と、立身出世を強く望んでいた「藤原秀郷」である。両者の連合軍との戦いで、将門は額に矢を受けて討死し、その野望は潰えた。
同じ頃、瀬戸内海では出世の道を閉ざされた「藤原純友」が海賊を率いて反乱を起こしていた。朝廷を震撼させたこの二つの反乱は、後にまとめて「承平・天慶の乱」と呼ばれ、律令国家体制の動揺と、地方武士の台頭を象徴する事件として位置づけられている。
● そして日本三大怨霊のひとりになる
討死という無念の最期を遂げた平将門は、後世において「崇徳天皇」「菅原道真」と並び、「日本三大怨霊」の一人に数えられるようになった。
将門の死後、その首は平安京の七条河原に運ばれ、さらし首とされたと伝えられる。ところが、この首は月日を経ても腐敗せず、目を見開いたまま、夜ごとに「胴体はどこにあるのか。首をつなぎ、再び戦おう」と叫び続けたという怪異譚が生まれた。
この異様な光景を目にした歌人「藤六左近」が和歌を詠むと、将門の首は高らかに笑い、関東の方角へ飛び去ったとされる。将門の首が京の都から飛んで来て、現在の首塚の場所に落ちた時、大地は鳴動し太陽は光を失い、人々は恐怖に畏れ慄いた。慌てて首塚を建てたのみならず、近くにあった神田明神にその霊を合わせ祀ったところようやく祟りは収まった、という。
なお、元々の神田明神は今の首塚の場所にあったようだ。それが徳川家康が江戸に入府し、江戸城を整備する時あまりに目の前にあったので、他へ移すことになった。まず慶長8(1603)年に神田台に。次いで元和2(1616)年には現在地に移された。
実は今の神田明神の位置、江戸城から見ると鬼門の方向に当たる、という。鬼門とは「艮=丑寅」、北東を指し我が国では古来「鬼の去来する方角」とされ忌避される。そこに将門を祀る神社を置いた。つまりやって来る鬼=災いに対し将門に江戸を守ってもらおう、という意志が見える。祟り神を守り神へ、という逆転の発想である。
ただし、首塚だけは移せなかった。そこまでやってしまうと祟りが怖いからだ。
また、「成田山新勝寺」が建てられた理由は、平将門の乱鎮圧のためと言われる。東国の混乱を恐れた朱雀天皇が、真言宗の開祖「弘法大師・空海」に願い、空海自らが彫刻して魂を入れた「不動明王像」をご本尊として開山した。このため、将門の子孫・家来・ファンは決して、成田山にはお参りに行かないんだとか。
こうした伝承は、将門の反乱が朝廷に与えた衝撃の大きさと、人々がその怨念を畏怖したことを象徴しており、将門は歴史上の反逆者であると同時に、鎮魂と信仰の対象としても記憶され続けてきたのである。
で、実際に、行ってきました将門首塚へ。
この首塚「下手に触ると祟られる」で有名でして。たとえば、関東大震災後の復興期や戦後の再開発期に、首塚周辺で工事を行おうとしたところ、ブルドーザーごとひっくり返って運転手が亡くなった、なんて不慮の事故や、工事関係者の急死が相次いだという話があるとか。
特に有名なのは、昭和初期に大蔵省(現在の財務省)が首塚の土地に庁舎を建てようとした際、関係者の中に不幸が相次いだため、工事を中止して首塚を元通りにした、というエピソード。この出来事はメディアでも取り上げられ、将門の霊を畏れる気持ちが広く知られるようになったそうな。
その後も、将門の首塚は周辺の開発が進む中で、できるだけ触れずにそのまま残され、今でも東京都心のこの一角に静かに祀られているってわけ。晒し首自体が当時は前代未聞の刑罰だった上、千年以上も首と胴が離れっぱなしなのだから、そりゃ祟りたくもなるだろう。
● MASAKADO・ザ・ファーストアベンジャー
なお、平将門を討ち取った人物は、叔父・国香の子である「平貞盛」であった。その貞盛の系譜は代々武士として存続し、将門の乱から約170年余を経た平安時代末期、その子孫から「平清盛」が登場する。
清盛は、1159年(平治元年)に起きた「平治の乱」で源氏を破り、武士の棟梁としての地位を確立した。さらに、武士として初めて朝廷の最高官職である太政大臣に就任し、それまで政権中枢を独占してきた藤原氏を凌駕して、政治の実権を掌握するに至る。
このように、将門を「朝敵」として討伐した側の血統から生まれた清盛が、結果として武士による中央政権を実現した点は、歴史の大きな皮肉と言える。
平清盛の政権は、平将門が志向した「武士が政治の担い手となる社会」を、形を変えて現実のものとした最初の事例であり、以後の鎌倉幕府成立へと連なる武家政権の先駆けとして位置づけられている。
ふんふん、なかなか面白かった。
平将門から始まり、平清盛、源頼朝、北条家、足利家、そして豊臣秀吉からの徳川家康、ってバトンで武家政権が確立されて来たわけか。その意味で平将門は、まさに武家政権のオリジン。すべては彼から始まった、的な奴ですな。
私「ま、こんなとこすかね」
豆「ぜんぜん浅い! 50点!」
私「えー!? ちゃんと調べましたやん」
豆「、、、あの部分、わざと飛ばしたやろ」
私「、、、あの部分は、ややこしいから、、」
豆「ダメー! はい次回はその部分でよろ」
私「ダリー! 豆田マジメきびしー!泣」
参考
https://www.touken-world.jp/tips/8073/
https://ja.wikipedia.org/wiki/平将門
https://bushoojapan.com/jphistory/kodai/2025/02/13/108611
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