ん〜、よく寝た。さてさて寝てる間に上杉謙信も武田信玄も死んでくれたかな〜、
ってあれ!? 小田原城むっちゃ大軍に包囲されとる! ななな、何があったん!?
● 「惣無事令(そうぶじれい)」の違反がありました
自分で自分に説明しよう。「惣無事令」とは、豊臣秀吉が大名間の私闘を禁じた法令とされるもの。私が寝ている間に、あれよあれよと豊臣秀吉が戦国バトルをほぼ制し、関白政権の樹立と同時に、戦国大名間の領土紛争の豊臣裁判権による平和的解決を掲げて、すべての戦国の戦争を私戦として禁止する政策を、九州をはじめ関東・東北から朝鮮にまで及ぼしたのである。つまり平たく言えば「ワシが裁判してやるからもう二度と勝手に戦すんでねえぞ! 」と言うことである。
ところが、その直後に北条氏が真田と小競り合っていた「名胡桃城」を奪取してしまい、いわば先の秀吉の裁定を軍事行動で覆してしまった。この事件は真田氏から徳川氏を通して秀吉に伝えられ、関係者の引き渡し・処罰を求められたが、北条方はこれを拒否。そもそもなかなか上洛して媚びへつらいに来ない北条氏に堪忍袋の尾が切れた秀吉は、手切れ書を北条氏や諸大名に配布。北条討伐を決意したのである。
● 20万越えの豊臣軍が攻めてきまする
対決の覚悟を決めた北条氏は、領国内の家臣・他国衆に対して小田原への参陣を命じて迎撃の態勢を整える。対する秀吉は、総勢21万もの軍を率いて小田原城に向け進撃を開始。進撃を阻む山中城には秀次・徳川勢を、韮山城には織田信雄勢を宛てて、それぞれ攻撃を開始した。
山中城は豊臣軍に備えて増改築されていたが、一大要塞である山中城を正しく完全守備するためには、4千人では全く人数が足りなかった。3月29日の朝8時半ごろに豊臣方の攻撃が始まると、出丸守備勢が銃撃などの猛烈な抵抗を行い、手勢を率いて突撃と退却を繰り返し奮戦する。が、2時間ほど抵抗するものの出丸は陥落し、続けて三の丸も陥落した。
西の丸が陥落した段階で本丸の「松田康長」は、「北条氏勝兄弟」や弟の「松田康郷」を逃した。松田康長は手勢200と共に本丸の建物に籠り最後の抵抗を行っていたが、「櫓を守っていた100人ほどの将兵が、怒涛の大軍に押し寄せられ敵味方一丸となって櫓ごと堀に転落」するような状況で、守備方は壊滅。午前中のうちに城は陥落した。
小田原の西の護りであり、鉄壁であるはずの山中城が、豊臣方の前に僅か数時間の戦闘で落城した。この事実は小田原北条氏陣営に深く重い衝撃となった。秀次の力攻めの方針により豊臣方にも結構な損害が出たが、それを上回るダメージを敵に与えたと言える。
その他、徳川勢別働隊は山中城落城の同日に「鷹ノ巣城」を落とした。徳川軍は鷹ノ巣城に入城し、短期間だが本拠とした。同じく箱根越えの要衝であった「足柄城」は、山中城の陥落を知ると守将は主な兵をまとめて城を退出し、小田原城守備軍に合流したため、翌日に徳川麾下の「井伊直政」隊が攻城を開始したが戦闘らしい戦闘はなく、4月1日に落城。
山中・足柄城を中心とした小城砦のネットワーク(箱根十城)も全て陥落ないしは放棄され、小田原城以西は豊臣方の勢力圏となった。経路上の要害が次々と陥落したため、豊臣方の先鋒部隊は早くも4月3日には小田原に到着した。
韮山城では攻撃側の10分の1の城兵が織田信雄勢を阻み、包囲持久戦となった。秀吉は完全に落城させることはしないまま、韮山城包囲のための最小限の兵力だけを残すよう命じ、織田信雄以下の主力は小田原方面に転進させた。籠城方は4ヶ月以上の間を凌いだが、北条領内の城が次々に落城している北条方の現状に降伏を決意。6月24日に家康の家臣が城を受け取った。
● 小田原城、君は完全に包囲されている
山中城と周辺の諸城を落とした秀吉本隊は、4月1日に箱根山に本陣を移した。 諸将は箱根を越えて小田原に進軍し、海からは伊豆を経由して九鬼嘉隆、加藤嘉明、脇坂安治らの水軍が迫った。4日、徳川家康や堀秀政らが小田原の包囲を開始した。5日、秀吉は箱根湯本の「早雲寺」を占拠し、当初この寺を本営とした。この寺は小田原北条氏の家祖とも言える「北条早雲」に由来する、北条氏の菩提寺であった。
関東平野のほとんどの各城は、それぞれ主力や当主自身が小田原城に籠城しており、留守を預かる程度の兵や城代家臣、近隣領民などしか籠城していなかったため、戦意が高かったとは言い難かった上、圧倒的な軍事力の差を前にしては降伏開城もしくは敗北する外の選択肢が無かった。
予想以上の進軍速度のせいでもあったであろうが、小田原に駆けつけた北条氏側の兵の中には、攻城側の包囲が完成してしまった後に到着してしまった者もいた。だが秀吉は当人の希望通り籠城できるよう包囲を通してやった、との話が伝わる。
この包囲が成されていく間、城方からは抵抗らしい抵抗は無かった。北条方の作戦は、容易に落ちはせぬ小田原城内に籠城してさえいれば、逆に豊臣方の兵糧が尽きてゆくであろうという作戦であった。実際、かつてそのように上杉謙信の攻撃を退けた成功体験が北条にはある。
ところが、小田原包囲戦が始まると秀吉は、小田原城を見通せる石垣山に「石垣山城」を築き始めた。これがいわゆる「石垣山一夜城」である。およそ80日で完成させられたとは思えない程本格的な城で、完成後それまで城を隠していた樹木を伐採し、突然城が現れたような効果をもたらした。
この石垣山城に本陣を移した秀吉は、茶人の「千利休」を主催とし、大茶会などを連日開いた。茶々などの妻女や御伽衆も呼び寄せ、箱根で温泉旅行などの娯楽に興じている姿を籠城側に見せつけて北条軍の士気を徐々に下げさせてゆく。
これは現地民の協力あっての遊びぶりだろう。山中城がたった数時間で陥落したことで、寺社・商人・百姓のいくらかは北条方の命令に従わず、それどころか豊臣軍に営業をかけて「ぜひうちに立ち寄ってください」と客寄せならぬ兵寄せを開始したのだ。おかげで兵糧に困ることもない。
「籠城してこちらの兵を飢えさせようとする小賢しい作戦も、ほれこのとおり。影も形もなく破綻させてやったぞ。北条氏政よ、とくと降参するがよい」というメッセージでもあった。
『小田原評定』という言葉がある。本来の意味は、北条氏が月2回おこなっていた重臣会議のことで、五代100年にわたり、家臣・国人の裏切りが皆無に近い北条氏のすぐれた統治システムとして評価されてるが、現在は「だらだらと一向に結論が出ない会議」という意味で使われることが多い。これは小田原合戦において、重臣同士の意見がわかれ、結論が出ることなく滅亡にいたったことによる。
かくして、北条氏政は打開策を打ち出せぬまま、ついには抵抗を断念し、降伏して切腹に至る。小田原城も明け渡され、後北条氏による関東支配は終わった。この「北条征伐」の目処がつくと、秀吉は「関東のことは家康にまかせる」として大坂へ引き上げ、小田原城は徳川家康に接収された。
● ちなみに吉良氏という一族がおりまして
吉良氏は足利将軍家の分家であり「御所(足利)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」 と言われるほど高い家格を持ち、世田谷城に拠ったが、軍事的には強大化せず戦国時代には後北条氏の勢力下に入っていた。「北条氏綱」の娘と結婚し、武蔵国の蒔田城をも領して「蒔田殿」と呼ばれ、判物などの文書を独自に発給していることから、後北条氏配下にあっても特異な位置にあったと見られている。
この時の当主の「吉良氏朝」は小田原に籠城したため、戦後は所領を没収され、世田谷城(現・豪徳寺)や蒔田城、奥沢城(現・九品仏浄真寺)などの支城も廃城となった。氏朝は菩提寺に住んだが、のち関東入府した徳川家の家臣となる。徳川家康に従うようになると家格の高さを認められ、高家として取り立てられた。そして幕末期では朝廷に早期帰順したため本領安堵され、幕臣から朝臣に転じるとともに中大夫席を与えられる。明治維新後は士族となった。
よし。やっと家康様の時代が近づいて来た。江戸時代の2周目を始めるつもりが、平将門の頃まで飛ばされてしまい、ここまで来るのに2ヶ月ほど要してしまった。でもきっと次回は家康様の江戸進出の話ができ、、
豆「世田谷城とか奥沢城とか気になるよね〜」
私「いーや気にならんっ!!」
参考
https://ja.wikipedia.org/wiki/北条氏政
https://ja.wikipedia.org/wiki/小田原征伐
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