ようやく、江戸時代のスタートラインまで漕ぎ着けたというのに、私の中の別人格に「関東移封ついでに徳川の家臣団についても教えてよ」と言われ、答えられずにいたら案の定ダメ出しを食らってしまった。
まあ確かに武将ファンからすれば「家臣団あっての家康だろ!」てなもんだろうし、彼らをよく知らずして江戸博士を語るわけにもいかない。ので、すん止めでじれったいが、ここはちゃんと調べておこう。突っ走らす立ち止まれる勇気。
● 「徳川十六神将」なるものがあるようで
徳川家康が三河国の1大名であった頃から忠義深く仕え、江戸幕府の開設に力を尽くした家臣達のことを言う。この16名は特に武勇で名を馳せ、黎明期の徳川家康を力強く支えた。江戸時代には家康と十六神将の姿を描いた図像が好まれ、日光東照宮に「狩野永納」筆と伝えられる『徳川二十将図』が宝物として保存されている。
しかし、これらはあくまで掛軸や図版化された江戸時代の流行り物であり、その人選は実際の功績をちゃんと反映したものとは言い難いそうな。「徳川四天王」の四人から鳥居元忠・大久保忠世あたりまでなら、納得できるものの、「槍の半蔵」の渡辺守綱、「鬼の半蔵」の服部半蔵は名前先行で、16人に選ばれるような実力がともなっていないように感じるし、米津藤蔵入道浄心は「徳川十六将」以外で見たことがないらしい。松平甚太郎康忠に至っては、実在しない(おそらく名前を誤った)人物であったりするとか。
おそらく仏教の『釈迦16善神』になぞらえて描かれたのだろう。だからまあ、つまりそうゆうことだ。細かいこと言うなっつーの、ってノリの作品っぽいので、野暮な詮索はせずに、とりま主要な方々だけ紹介していくことにしよう。
● 酒井 忠次(徳川四天王)知略に富む戦略家
家康より15歳年上。三河以来の家康の補佐役であり、若い家康が大名として成長する過程で、軍事・人事あらゆる面で必要な存在であった。特に、今川方の三河・吉田城の戦い、信玄との三方ヶ原合戦、勝頼との長篠(ながしの)・設楽ヶ原(したらがはら)合戦では、抜群の手柄を立てている。
元亀4年(1573)正月、武田家から「松枯れて 竹たぐひなき 明日かな(松平は枯れて武田は類ないようになる将来だ)」と詠んだ句が送られてきた。家康や徳川家臣団は激怒したが、忠次はその句の要所に濁点を入れ替えて「松枯れで 竹だくびなき 明日かな(松平は枯れず武田は首がない将来だ)」と読み返した。このことから、正月には門松の竹を斜めに切り落とすのが習慣になったという。(まじか!)
「海老すくい」という踊りが得意であり、重臣であるにもかかわらず諸将の前で踊りを見せ、大いに盛り上げたという。天正14年(1586)、家康が北条氏政と同盟を結ぶために伊豆三島に赴いた際の酒宴でも披露している。
『常山紀談』の記述によると、長篠の戦いにおける鳶ヶ巣山砦奇襲の作戦は、信長の本営の極楽寺山で行われた軍議で忠次が発案したものであったが、信長からは「そのような小細工は用いるにあらず」と頭ごなしに罵倒され、忠次の発案は問答無用で却下された。しかし、軍議が終わって諸将が退出した後、信長は忠次を密かに呼び出し、「先ほどは、作戦の情報が武田方に漏れる恐れがあったゆえ、わざとお前の発案を却下したが、お前の発案は理にかなった最善の作戦だ。作戦の指揮はお前に任せるから、直ちに作戦を実行せよ」と命じた。
武田氏滅亡後に家康は、井伊直政を取り立てるために大半の武田家臣を付そうとした。忠次は直政に甲州侍を付ければ、なおますます励むであろうと賛成した。しかし、榊原康政は激怒し、直政と刺し違えるとまで言い出した。これを聞いた忠次は「直政に甲州侍を付したのは主君である。軽率な行動をすれば、その方の一門を串刺しにする」と康政を叱りつけた。康政はこの言葉に服したという。
● 本多忠勝(徳川四天王)武田も織田も豊臣も褒めた武人
本多忠勝は、天文17年(1548)に三河・洞村で生まれた。父 通称・平八郎(へいはちろう)の名前で知られ、桶狭間戦に13歳で初陣。名鑓・蜻蛉切(とんぼぎり)を振るって数多くの合戦で先陣を切って武功を上げた。後に武田方との戦いでは「家康に過ぎたるものが2つあり、唐の頭に本多平八」と囃(はや)された。信長からは「果華兼備の勇士」と讃えられ、秀吉からは「東国無双の武将」と褒められている。
小牧・長久手の戦いでは、300の寡兵で数万の大軍を迎え撃ち、敵将・秀吉の舌を巻かせた。生涯において参加した合戦は大小合わせて57回に及んだが、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったと伝えられている。
榊原康政とは同年齢ということもあり、仲が良く親友同士だった。天正元年(1573)の長篠城攻めでは康政と武功を競い合っている。一方、「本多正信」のことを快く思わず「佐渡守(正信)の腰抜け」「同じ本多一族でもあやつとは全く無関係である」とまで言い捨てている。
家康の関東入府後、上総・大多喜(おおたき)城10万石の城主となる。関ヶ原合戦の後には家康から諸将を統括し、天下の政治を論議することを命じられた。忠勝が死ぬ数日前、小刀で自分の持ち物に名前を彫っていた時、手元が狂って左手にかすり傷を負ってしまった。忠勝は「本多忠勝も傷を負ったら終わりだな。」と呟き、その言葉通りになったという。
● 榊原康政(徳川四天王)秀吉を罵倒して大出世
13歳より家康の近習として仕えた。はじめは家老の小姓だったが、家康に認められて直臣となり、17歳にして吉田城攻めで先鋒を承り、「三備」改革で20歳にして旗本一手役之衆に抜擢される。『武備神木抄』では、「康政は武勇では本多忠勝に劣るが、部隊の指揮官としての能力は忠勝に勝り、井伊直政に匹敵する」とされている。
三河一向一揆の初陣から、三河・遠江の平定戦より小牧・長久手戦に至るまで、軍団指揮の武将として大いに活躍した。小牧戦の初め、秀吉軍の戦意をくじくため、「秀吉は信長から受けた君恩を忘れて、信長の子・信雄と兵を構えるなど、その悪逆非道さは甚だしい。秀吉に従う者は、みな義を知らない者だ」と檄文を触れ回した。秀吉はこれを聞いて激怒したが、その後、康政の忠節をほめたたえたという。
三河大樹寺で学んだ能筆家としても知られ、行政能力に長けており、家康の書状もよく代筆したとされる。小牧・長久手の戦いの際に前年に信長の三男・織田信孝を殺害したという秀吉非難の文言も、達筆な文字であちこちに記された。
また、知恵者ぶりも伝わっている。慶長4年(1599)年1月、伏見に在京する家康を石田三成らが襲撃するという噂が立った。康政はこれを聞いて急ぎ上洛すると、近江勢田で関所を設けて通行人を止め、三日後に解放した。すると、京都方面に一気に人だかりが出来、徳川家が大軍を率いて上京したとの誤報が飛び交った。かくして、反家康勢力は自重し、家康襲撃は未然に防がれたという。
● 井伊直政(徳川四天王)創られた名将
忠次・忠勝・康政はいずれも三河譜代であるが、井伊直政は遠江出身である。直政は他の3人より遙かに若いが、家康からは最も信頼された家臣であったという。初陣は武田勝頼との遠江芝原合戦。直政15歳。以後、忠勝・康政の旗本先手役と並んで徳川軍の先鋒を務めた。
勝頼滅亡後、家康は多くの武田旧臣を召し抱えたが、その中で最強とされた「山県昌景(やまがたまさかげ)」の赤備え部隊を任された。これによって「井伊の赤備(あかぞなえ)」が誕生し、直政は「井伊の赤鬼」とアダ名されるほどの猛将となる。
しかし実際のところ、直政はさほど大戦で兵を率いた経験がない。どちらかと言うと文官として徴用されていたタイプである。つまり直政は名将ではなかったが、「井伊の赤備」が恐ろしく強かったから、そのトップに据えられた直政が猛将だと認識されたのだろう。
井伊の赤備えは、関ヶ原、大坂の陣まで、これ以後の徳川軍団の中核部隊として活躍する。家康の関東転封後、直政は上野・箕輪12万石というトップの所領を得る。家康の時代より後になって4人が「四天王」という特別な呼称で讃えられるようになったのである。
● 大久保忠世 勇猛果敢な蟹江七本槍のひとり
大久保氏は徳川家康の祖父・松平清康の代から松平家に仕え、戦で数々の手柄を立ててきた一族。大久保忠世も、徳川家康の父・松平広忠が蟹江城を攻略した際に、勇猛に闘った7人の家臣「蟹江七本槍」のひとりに数えられている。
そのあとも大久保忠世は戦で活躍し、一向宗寺院が起こした「三河一向一揆」、徳川家康と武田信玄が激突した「三方ヶ原の戦い」で武功を挙げ、敵将・武田信玄は、奇襲してきた大久保忠世を「勝ちてもおそろしき敵かな」と賞賛したと伝わっている。
また「長篠の戦い」で、徳川家康と織田信長の連合軍が武田勝頼を征した際には、徳川家康から軍功の褒美として、ほら貝を与えられ、二俣城の城主に命じられている。そして、豊臣秀吉が関東最大の強敵だった北条氏を「小田原の役」で攻め滅ぼすと、秀吉は家康に対して、大久保忠世を北条氏の城だった小田原城の新たな城主にするよう命じた。
小田原城主となった大久保忠世は、氾濫を繰り返して「暴れ川」と呼ばれていた酒匂川(さかわがわ:静岡県と神奈川県)の治水に取り組み、洪水の多かった流域を豊かな田園地帯に開発。現在の足柄平野は大久保親子によって造られたと言っても過言ではない。
しかし、大久保忠世と息子忠隣が築いた酒匂川の堤防は、残念ながら宝永4年(1707)に起こった富士山噴火により、降り積もった火山灰で川底が高くなり洪水が頻発。岩流瀬土手と大口土手が流されてしまう。そして皮肉にも、大久保の子孫が足柄地方の復興を妨げたという嫌な話は、過去記事vol.24参照。
● 鳥居元忠 親友だから死地に送られる
13歳のときに、今川氏の人質となっている徳川家康の近侍として仕え始め、「姉川の戦い」や「三方ヶ原の戦い」等、多くの合戦に参戦。「本能寺の変」ののち、信濃国と甲斐国の覇権を得るために北条氏と争った「黒駒の戦い」では、北条軍10,000の兵を、2,000の兵を率いて撃退。圧倒的な兵力差がありながらも大勝し、敵方の首を300も500も挙げたと伝えられ、その勇名を轟かせた。
三方ヶ原の戦いで片足を悪くしていたものの、豊臣政権下でも数々の武功を立てた鳥居元忠に、豊臣秀吉から官位推挙の話が出たが、これを「2君に仕える才はなく、豊臣秀吉公に出仕する器量もない」として断っている。
「関ヶ原の戦い」では、真っ先に血祭りにあげられることが予見されていた「伏見城」に1,800人の兵で籠城し、玉砕覚悟で石田三成が派遣した使者を斬殺して遺体を送り返したのち、13日間の攻防の末に自刃。徳川家康は、この鳥居元忠の忠義を称賛し、その忠節は「三河武士の鑑」とも言われた。
最期の地になった伏見城に残された血染め畳は、元忠の忠義を賞賛した家康が江戸城の伏見櫓の階上におき、登城した大名たちの頭上に掲げられた。床板は「血天井」として京都市の養源院をはじめ宝泉院、正伝寺、源光庵、瑞雲院、宇治市の興聖寺に今も伝えられている。
● 服部正成(半蔵)本人は忍者ではない
服部正成は、一般的には伊賀忍者の棟梁「服部半蔵」として広く知られている人物。服部半蔵という名前は、徳川家に代々仕えた服部半蔵家の当主が襲名した名前で、服部正成は2代目に当たる。伊賀衆と甲賀衆の忍者組織を家康より預けられるが、正成自身は忍者ではなく、伊賀忍者であったのは、初代服部半蔵のみ。
以降、歴代当主は忍者になることはなく、服部正成は家康の足軽大将として、槍や体術を駆使して戦い、多大な功績を挙げた武将だった。三河武士らしく忠義に厚い人物で、「三河一向一揆」の際は、自身や親族が一向宗であったものの、家康側として戦い、家康の長男「徳川信康」切腹の際には、正成が介錯を命じられたものの「3代相恩の主に刃は向けられぬ」と言い、涙を流したと言う。
また、服部正成は徳川家康最大の危機のひとつとされる「神君伊賀越え」にて、伊賀・甲賀の地侍らと交渉し、一行を安全に通過させるよう手を尽くし活躍。そののち徳川方となった伊賀衆・甲賀衆は、正成の部下となり、以降江戸幕府に仕えた。関ヶ原の戦い前に病没し、家康が天下人となるのを見届けることはなかったが、若い家康を支え、江戸幕府の開設に力を尽くしたひとりだと言える。
おし、こんくらいまでで良いでしょう。
他のメンツは本の中でも大した扱いではなかったし。読んで損したわ。
とは言え、家康は家臣等をとても大事に思っていたようで。豊臣秀吉が関白だったころ、秀吉は諸大名を集めて自分の持つ宝物を自慢し、家康にどんな宝物を持っているのかと尋ねた。それに対して家康はこう答えた。
「私は田舎の生まれですので、これといった秘蔵の品はありません。しかし、私のために命を賭けてくれる武士が500騎ほど配下におります。この侍たちを何にもかえがたい宝と思って、いつも秘蔵しています。」
この答えにさすがの秀吉公も二の句がつげなかったという。
参考
https://www.rekishijin.com/24813https://ja.wikipedia.org/wiki/徳川十六神将https://www.touken-world.jp/tips/53758/
https://okazaki-kanko.jp/okazaki-park/feature/history/tokugawa16syo
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