vol.202「慶長の禁教令」について


江戸時代になって、もはや徳川幕府に刃向かう者などいなくなった、かと思いきや、いたよ、いたよ、いずれ必ず刃向かってくるに違いない勢力が。なんせ、日本のルールが通用しないんだから、こいつらを放っておいたら将来えらいことになるに違いない。おしっ! 危険な芽は早いうちに摘んでおこっと。


と、こんなノリだったはずないが、この決断により多くのキリシタンたちが迫害され、命を落とすことになる。しかし、天下泰平のためにはやむおえぬ措置であったのも、また事実。いったい家康様はどんな心境で決断したのであろうか。


江戸城の建設と同じように、家康 → 秀忠 → 家光の三代に渡って成した事業は数多くある。そうした輝かしい事例の話を列挙してゆくのも良いが、現実は光あれば影ありで。今回はあえて徳川三代のダークサイドな話をば、先に済まさせていただこう。




● 勢力を増したキリシタンが事件を起こし始める


徳川家康は、キリスト教布教を全面的に認めていたわけではないが、当初は一定の範囲で黙認していた。ただしその背景には宗教的寛容というより、南蛮貿易を円滑に進めるという実利的な目的があったと考えられる。


実際、家康はフランシスコ会宣教師を江戸に招いたものの、スペイン船の関東入港の仲介が実現しなかったため、日本人への布教を禁じ、宣教師やキリシタンへの貸家も禁止した。


しかし、この間にもキリスト教の勢力は拡大し、1613年頃には蝦夷地にまで布教が及んだとされる。禁教令直前には、日本国内のキリシタンは約37万人に達していたと推計され、その急速な拡大が後の禁教政策につながったとみられている。


こうした状況の中で、慶長15年(1610)にいわゆる「デウス号事件」と呼ばれる出来事が発生する。


この事件は「有馬晴信」が、マカオで家臣が殺害されたことへの報復として、ポルトガル商船ノッサ・セニョーラ・デ・デウス号を長崎港で攻撃し、焼沈させたものである。この影響でポルトガル船は約2年間日本に来航せず、また通詞として幕府とポルトガル商人の仲介役を務めていた「ジョアン・ロドリゲス神父」も責任を問われ、マカオへ追放された。


ロドリゲスの追放はキリシタン教界にとって大きな打撃となった。一方で、この頃オランダ商船が来航し、宣教師を介さない貿易の可能性が幕府に認識されるようになり、後の対外政策にも影響を与えることとなった。


さらに慶長17年(1612)には、いわゆる「岡本大八事件」が発生する。


岡本大八」はキリシタンであり、幕臣である「本多正純」の家臣として仕えていた人物であった。大八は、主君を通じて幕府内に一定の影響力を持ち、キリシタン教界に対して便宜を図る役割を果たしていたとされる。


ところが、大八とキリシタン大名である有馬晴信との間で、所領問題をめぐる贈収賄事件が発覚する。大八は晴信に対して幕府への口利きを約束し、その見返りとして賄賂を受け取っていたが、実際にはその働きかけが行われていなかったことが明らかになったのである。


幕藩体制において所領問題は大名統治の根幹に関わる重大事であり、そこでこのような不正が行われていたことは幕府に大きな衝撃を与えた。しかも事件の当事者がいずれもキリシタンであったことから、徳川家康はキリスト教勢力への警戒を一層強め、禁教政策へと踏み出す契機になったと考えられている。


なお、この事件の結果、虚偽が発覚した岡本大八は火刑に処され、有馬晴信もまた謀反の嫌疑をかけられて改易され、最終的には自害を命じられた。




● ついに全国に対して禁教令が発令さるる


岡本大八事件を契機として禁教政策の実施を決意した徳川家康は、まず駿府の家臣団に対して調査を行い、キリシタンである者を摘発した。彼らは信仰の放棄を求められたが、これに従わなかった者は改易などの処分を受けることとなった。


続いて家康は、幕府の直轄地である京都・江戸・駿府においてキリスト教を禁ずる布告を出し、キリシタンの教会や施設の破壊を命じるとともに、布教活動を全面的に禁止した。この禁教令により、江戸や京都に存在していた教会は破壊され、武士階層だけでなく一般庶民に対してもキリスト教信仰が禁じられることとなった。


さらに、改易されたキリシタン武士を諸大名が召し抱えることを禁ずる通達が、全国の大名をはじめ、畿内の社寺、京都および長崎のキリシタン教界に対して発せられた。これらの措置は、慶長17年(1612)4月から5月にかけて順次実施されたものである。


同年9月には、関東の幕領に対して「禁令五箇条」が発布され、その中にはキリスト教禁止の規定も盛り込まれていた。こうして禁教政策は次第に強化されていく。


その結果、翌慶長18年(1613)には、江戸・鳥越においてキリシタンの処刑が行われた。浅草にあった小屋に集められていた22人の信者が殉教したのである


この頃、徳川幕府による幕藩体制の整備は最終段階に差しかかっていた。その過程において、家康にとって最大の懸念となっていたのが、なお大坂城に勢力を保つ豊臣氏の存在であった。幕府体制を確立するためには、潜在的な反幕勢力となり得る豊臣氏を打倒する必要があると考えられていたのである。


関ヶ原の戦いの後、改易などによって主家を失った多くのキリシタン武士が、キリスト教に比較的寛容であった大坂方へと仕官していたことも、幕府にとって警戒すべき動きであった。また、キリシタン大名として名高い「高山右近」が、加賀の前田家のもとで重職に就き影響力を保っていたことも、家康の関心を引くところであった。


こうした状況の中で、家康はキリシタン勢力が豊臣氏や大坂方と結びつき、政治的・軍事的な反幕勢力へと発展する可能性を強く警戒していた。キリスト教に対する統制が強化されていく背景には、宗教問題だけでなく、豊臣勢力との関係を含む政治的な思惑も存在していたのである。


ここに、臨済宗の僧「金地院崇伝(こんちいんすうでん)」起草による『伴天連追放文』が日本国中の人間が知るべき掟として公布された。いわゆる慶長の禁教令である。


「日本は神国であり、吉利支丹の教えは正宗なる神仏を惑わす邪宗である。吉利支丹国の者は日本に商船を来航させ、財貨をもたらすためだけでなく、邪法を広めて正宗を混乱させ、日本の政治を改変しようとしている、これは大きな禍の兆しである」といった内容である。


2月には京都から宣教師が去り、長崎へと護送されていった。4月京都に残り棄教を拒んだキリシタン達71名が奥州は津軽へ流罪となった。九州へ宣教師追放と教会破却のため伏見城番山口直友が派遣され、各地で宣教師や日本人信徒を摘発し、11月6日には高山右近の一族と共にマカオとマニラに追放し、長崎の11の教会を焼却した。その後有馬地方にも赴き、キリシタンの摘発と棄教を迫り、従わぬ者は処刑した。慶長禁教令による迫害はこれが最初である。


多くの宣教師達が国外追放されたが、どの修道会も日本キリシタンを見捨てたわけではなかった。日本に居残り潜伏してキリシタン教界を維持しようとする者、追放されたが再度日本に潜入して布教しようとする者もまた多かったのである。彼らもまた、迫害の嵐にさらされ、次々と殉教していった。




● どんどん殺されてゆくキリシタンたち


元和2年(1616)、徳川家康が死去すると、政治の実権は将軍・徳川秀忠へと集中することとなった。秀忠は、家康が築いた幕藩体制をさらに強固なものとするため、諸政策の整備を進める。その一環として、キリスト教に対する統制も一層強化された。


秀忠は『伴天連宗門御制禁奉書』を発し、日本国内のすべての民に対してキリスト教信仰を厳しく禁じた。また対外政策として、外国商船の入港を平戸と長崎の二港に限定した。(元和禁教令)


しかしその後、九州の大村領において、本来追放されたはずの宣教師が潜伏しているとの情報が幕府にもたらされた。これを受けて秀忠は、領主である大村純頼を厳しく叱責する。純頼自身はかつてキリシタンであったが、この時には棄教し、幕府の命を受けて宣教師の捜索に乗り出した。


その結果、領内で宣教師4名と彼らをかくまっていたキリシタン2名が捕らえられ、斬首刑に処された。この事件は、その後各地で相次ぐキリシタン弾圧や殉教事件の先駆けとなった出来事として位置づけられている。


一体、どのくらいのキリシタンが殺されたのだろう。秀忠時代の主な殉教事件だけでも、1619年「京都大殉教」52人火あぶり、1622年「長崎大殉教」55人火あぶり、1623年「江戸大殉教」50人火あぶり、1624年「東北大殉教」109人殉教、1624年「平戸大殉教」38人殉教と、キリがない。

日本におけるキリシタン殉教者数については史料に基づく研究が行われている。姉崎正治は殉教者を3792人と算出し、その後 ヨハネス・ラウレス は4045人に達すると推計した。これらは確認できる史料に基づく数であり、未発見・散逸した記録を考慮すれば、実際の殉教者数はさらに多かった可能性が高いとされる。


徳川幕府は当初、キリシタンを処刑することで弾圧を進めた。しかし殉教者が信仰の象徴として崇拝されるようになると、むしろ信仰を強める結果を生むことを懸念するようになる。そのため幕府は次第に方針を転換し、処刑よりも拷問によって棄教を迫る政策を取るようになった。


この政策は、キリスト教徒にさらなる苦難をもたらすこととなった。その一例を『沈黙』で有名なフェレイラ神父の棄教で紹介しよう。




● フェレイラ神父の棄教


1609年、日本に到着したフェレイラは、他の宣教師と同じように熱心に布教活動を行った。1614年の宣教師追放の折には、日本に残り宣教活動を継続する事になった。その後フェレイラは日本準管区長として、潜伏司祭達の柱として活躍する。


そんな彼も1633年ついに捕らえられることとなった。彼は、元天正遣欧使節の中浦ジュリアンと共に穴吊りの刑に処される。穴吊りは、この時代最も過酷な拷問と言われた。その内容は、1メートルほどの穴の中に逆さに吊す、というものであったが、そのやり方は残酷極まりない。吊す際、体をぐるぐる巻きにして内蔵が下がらないようにする、頭に血が集まるので、こめかみに小さな穴を開け血を抜く、などそう簡単に死なないようにし、穴の中に汚物を入れ、地上で騒がしい音を立て、精神を苛んだ。


5時間に及ぶ拷問の末、フェレイラは転んだ。その棄教の時、吐いた言葉は「南無阿弥陀仏」であったという話がある。幕府は家康の祖法を守るため、仏教中心の思想統制を行っていた。キリスト教否定のために仏教を用いるのが幕府のやり方であった。穴吊りで意識が朦朧とした者に刑吏が「念仏を唱えよ」と迫るのである。これが棄教した転びキリシタンに、どれほどの精神的苦痛を与えたかは計り知れない。


転んだフェレイラを待っていたのは、さらなる生き地獄であった。江戸の小日向にある宗門改方・井上筑後守政重の下屋敷(通称切支丹屋敷)で通詞として余生を送ることとなった。沢野忠庵という日本名をつけられ、日本人の妻を強制的に与えられた。そして屋敷に送られてくる捕らえられたキリシタンに棄教をすすめ、宣教師との通訳を務めた。彼は1650年長崎で死亡、戒名をつけられ仏教徒として葬られた。


棄教を迫るための拷問は、どれも凄惨を極めるものであった。火あぶり、雲仙地獄責め、竹鋸引きなど、残酷な方法が採られた。「火あぶり」は、柱にくくりつけ、周囲に薪を置いて火をつける。苦しみを長引かせ、信仰を捨てさせるため、薪は柱から離してとろ火で焼いた。背教したければ逃げ出せるよう、くくる縄は弱く縛ってあったという。他にも両手両足を引っ張って、回転させながらあぶることもあった。その際、口から煙が出たという


また「簑踊り」という火刑は、手足を縛り簑を着せ、火をつける、と言うものであった。苦しみもだえる様が踊っているように見えることから、この名が付いたのである。


「雲仙地獄責め」というのは、雲仙の硫黄沸き立つ熱湯を、柄杓に入れて少しずつかける、という熱湯責めであり、気絶したり死にそうになったら手当てして同じ拷問を繰り返したという。


「竹鋸引き」というのは、路傍の柱にキリシタンを括りつけ、首に刀傷を付けておく。そばに竹鋸を置いておき、通行人にそれを引かせた。竹鋸のため切れが悪く、苦しみが長引いた。ホントに人間のやることか、とか思ってしまう。


他にも、木馬責め、切・支・丹の焼印押し、硫黄と灰を鼻に押しあて口を閉じさせる、前回書いた穴吊り、など苦しみが長くなかなか死なないような拷問が数多く採用された。


これらの拷問を考え出したのは、島原領主「松倉重政」、唐津領主「寺沢広高」、長崎奉行「竹中重義」らであった。彼らの非人道的な拷問はキリシタンに、過酷な重税による圧政は農民達に、それぞれ反感を買わせ、それが島原の乱へと繋がっていくのであった。


殺すだけなら斬首で十分、見せしめのためなら磔で十分である。このような残酷な拷問が行われたのは、キリシタン達の心を砕き殉教の栄光を味わわせない事、凄惨な拷問を見せ他のキリシタンを棄教させることがねらいであった。またキリシタン宗は邪教であるから、どんな残酷な処刑も当然、というキリシタン邪教観を民衆に植え付けようとしたのである。


そして幕藩体制固めのための神仏中心の思想統制と、鎖国の口実作りに、キリシタン禁制は大いに役立ってくれたのである。そのためキリシタンの処刑は残酷なだけではなく、神州が穢れる、と言う理由から、キリシタンの遺体は焼かれ、その灰は長崎の伊王島の沖まで持っていって捨てたという。




● そして鎖国へ


徳川幕府は、キリスト教に対する弾圧を強化する一方で、対外政策においても統制を強め、次第にいわゆる鎖国体制の構築を進めていった。


その過程では、日本人の海外渡航および帰国の禁止、外国船の入港制限、外国人の国内移動の規制、さらには外国人との間に生まれた混血児の追放など、さまざまな措置が段階的に実施された。これらの政策は、海外勢力の影響を抑え、国内秩序を維持することを目的としたものであった。


そして寛永16年(1639)、ポルトガル船の来航を全面的に禁止する措置が取られ、幕府の対外統制は大きな節目を迎える。一般に、この時点で鎖国体制がほぼ完成したとされる。


その後、この状況を打開しようとしてポルトガルから派遣された使節船が来航したが、幕府はこれを厳しく処断し、乗組員を処刑したうえで船を焼却した。さらに日本近海では監視船が巡回し、外国船の来航を厳重に警戒していた。もし不審な船が発見された場合には、武力による排除も辞さない体制が敷かれていたのである。


こうして幕府は、国内統治と対外関係の両面から統制を強め、江戸時代の対外政策の基盤を形成していった。




なんとも痛ましく恐ろしい話であるが、宣教師らは、キリスト教を広めて国を侵略しようという魂胆なんだって分かってしまったからには、止めないわけにはいきませんわな。つくづく三浦按針グッジョブですわ。


しかしそれにしても、ポルトガルやスペインから来た神父らはともかく、日本人は棄教さえすれば許されるってのに、頑なに信仰を捨てないからホント宗教ってやつは洗脳力が強くてタチが悪い。おかげで拷問の発明が捗っちゃったじゃないのさ。


ちなみに、このキリシタン迫害の話、まだ続きがありまして。それはまた時が来たら再開しますが、それまでは大変お気の毒ではありますが、しばらくの間、迫害と拷問の年月を、どうかお体ご自愛されつつ、お過ごしくださいませ、としか言いようがあらません。アーメ、、、南無。。


一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

こちらは一般社団法人「江戸町人文化芸術研究所」の公式WEBサイト「エドラボ」です。江戸時代に花開いた町人文化と芸術について学び、研究し、保存と承継をミッションに活動しています。