さて、話戻って時は「大阪冬の陣」が始まる前のこと。家康の江戸幕府という「徳川公儀」は、それまでの「豊臣公儀」を否定しない(できない)ままで共存する体制でスタートしたが、平城・嵯峨の二所朝廷しかり、南北朝しかり、そんな不自然な状態が長続きするはずが無いのである。トップがそれを受け入れてても、その部下たちが我慢できない。部下の部下たちが我慢できない。だって人間だもの。
てな訳で、早めに豊臣(秀頼)は潰さにゃならん。が、敵は秀吉の莫大な遺産を持った大金持ち。戦をしかけるには、こちらも負けないくらいの金がなくては動く兵も動かせん。さてさて、どうする家康?
● 巡ってきた朱印船貿易の機会
朱印船貿易は、徳川家康が新たに始めたものではなく、その原型はすでに豊臣秀吉の時代に存在していたとされる。ところが、秀吉は「あの」朝鮮出兵をやらかしてしまった際、ゴア(ポルトガルのインド総督府)や、マニラ(スペイン総督府)、台湾などに高圧的な態度で「恫喝外交」を展開してしまった。東南アジアまで悪評を振りまいてしまっては、朱印船貿易がうまくいくはずもない。
これが、家康にとってはもっけの幸いだった。関東に引っ越したおかげで朝鮮半島に渡ることもなかった家康は、外国からイメージが良い。関ヶ原後、彼はこれまた棚ボタ的に手に入れた「三浦按針」を活用しながら諸外国にせっせと働きかけて「親善外交」を推し進めた。
無論、朱印船貿易をふたたび活性化させて儲けたい豪商たちもこぞって家康を支持して、幕府の政治に協力していく。このような時代的気運や社会的潮流の存在があってこそ、徳川家康による天下統一は実現したものと考えられる。
こうして幕府はいよいよ富んでいったのだが、この頃の家康は、あまり金のめぐり合わせが良くなかった。慶長12年(1607)7月に彼の本拠である駿府城の本丸が完成したのも束の間、半年も経たない12月に火事を出して丸焼けとなってしまい、家臣の屋敷に仮住まいして年を越す羽目となっている。幕府の金山奉行・大久保長安が30万両(600億円)を寄附したという駿府城天守も煙と消えた。
家康の側室たちは気の毒なことに、火事で大判金300枚~500枚、お亀の方(徳川義直の母)らは1500枚を大混乱の中で略奪されてしまっている。6億円、10億円、30億円と、すさまじい額の黄金がかっぱらわれた訳だ。
ただ、家康は転んでもタダでは起きなかった。翌年に天守と御殿の再建が済むと、さっそく移り住んで西国大名たちからの「転居祝い」を受け付け始めたのだが、これが傑作だ。いちはやくお祝いを届けた大名衆は、銀100枚~200枚にそれなりの添え物を加えた程度だったものが、遅れた大名たちは銀300~500枚に高価な添え物を合わせて献上したのだ。
後発の大名が先行の大名に問い合わせた? いや、そんな情報を提供してそれを超える金額を献上されては先発の大名の立場は無い。これは、家康の側近衆が「故意に献上金の相場を後発大名に漏らした」と考えるべきだ。
「人は見栄と競争心理、保身のために他より金をかけようとするものだわ」
家康は集団心理を利用して、自分への献上金をつり上げたのだ。ちなみに銀100枚は2000万円、500枚で1億円と換算しておく。西国大名の総数を100とすれば100億円近くが再建費用の穴埋めに回されたものと思われる。
● それでも豊臣の資金力はレベチだった
家康が天下を取ってもなお大坂城の豊臣家は健在で、あいかわらず西国大名たちは豊臣家にも従ってその指図を仰ぐ例すらあった。その存在感の源泉は、まず何といっても秀吉が秀頼に遺した莫大な金銀である。
大坂城の無数の金蔵には、のち夏の陣で城が燃え落ちた後でさえ、現代の価値で数100~1000億円にものぼる金が残っていたという。しかも、これはあくまで秀頼が関ヶ原の戦い頃からはじめた各地の寺社修築(100件以上という)と、大坂冬・夏の陣でおびただしい金銀を消費した「後のもの」なのだから恐れ入る。
「こうなったら徹底的に大坂城への入金ルートを塞いでしまえ!」
家康は、慶長14年(1609)、諸国に「灰吹銀および筋金吹分の禁止」を触れ出した(『上杉編年文書』)。灰吹銀とは、鉱石の銀をいったん銅に溶け込ませたうえで銀を抽出する精錬方法で作られた銀のこと。そして筋金吹分とは、鉱石から金銀を抽出する精錬作業そのものを言う。つまり、銀の自由な精錬作業と、それによって作られた銀の所持・使用を禁じたという事になる。
幕府の直接支配下にないマイナーな銀山について精錬を禁止し、大名が大坂で米取り引きなどを銀決済できないようにしてしまえば、豊臣家に銀が流れ込むことも無いというわけだ。そのうえ、海外貿易の決済に使われる銀が精錬できなければ、銀山を持つ大名は貿易にも参加できない。一石二鳥の政策だった。
「これだけやれば、大坂城に入る新たな金銀は先細るはずだわっ。寺社仏閣の再建や修理で城内の金銀は出て行く一方だでなっ!」と、ほくそえむ家康。
● だが、そうはいかなかった。
大坂は、大坂湾によって瀬戸内海・熊野灘・伊勢湾と結ばれ、淀川によって京と結ばれ、四通八達した道路によって奈良や山陽など諸方に結ばれ、石山本願寺全盛の時代「日本一の境地」「日本の地は申すに及ばず、唐土・高麗・南蛮の舟海上に出入り、五畿七道集まりて売買利潤富貴の湊なり」(『信長公記』)と称えられた一大商業集積地である。
秀吉はそこへさらに資本を投下し、堺商人や平野商人らを移住させ、一段と巨大な経済都市へと発展させた。大坂の町を見た外国人は「当地は日本国中最も立派なる所にして、人口は二十万あり数万余戸を下らず」とその規模と繁栄ぶりに驚嘆している。
そしてオランダ人・フェルフーフェンは「日本の最も美にして大なる商業市」と呼び、それが生み出す巨大な富によって「秀頼は大なる歳入を有している」と紹介したように、大坂は豊臣家の財政を潤し続けていたのである。
家康もそれを計算したのだろう、朱印船貿易に加えて糸割符仲間の制度を開始し、幕府による完全な管理貿易を実現させた。日本一の商業都市・大坂による豊臣家への富の流入を抑制しようという試みだ。
だが、それでも大坂の経済力は揺るがなかった。
家康による天下普請で進められている江戸城と駿府城の修築工事に従事していた毛利家は、慶長11年(1606)に大坂で普請用の材木を購入している。大坂は材木の一大集積地でもあり、「徳川型公儀」の拠点整備の資材も資金も、頼りは大坂という状況であった。このとき毛利輝元は「みな片桐且元に材木の件を相談している」と、且元に材木の手配などの協力を仰ぐ状況を書状に記した。
まぁ、大坂は材木の一大供給地である紀州(現在の和歌山県)に近く、各地の河口から大坂へ運ばれる海上の搬送システムもできあがっているので、必然的にそうなってしまうわけだが、だが、これは家康にとって相当まずい。木材は当時の建材の中心、というより唯一の存在で、これが無ければ城郭の建設も都市開発もお手上げになってしまうからだ。
現実としても豊臣家は幕府の象徴たる江戸城の天下普請に奉行を派遣している。西国大名が中心となった天下普請では豊臣家の求心力がまだまだ必要だったこと、そして大坂の商業を支配し、流通を牛耳る豊臣家の協力なくしては資材を調達することはできない事実を目の前に突き付けられた家康は、さぞ複雑な心境だったろう。
● 赤っ恥をかいた家康は、、
そんな中、慶長16年(1611)3月に家康は京・二条城で秀頼と対面する。8年ぶりに秀頼を見た家康は、彼が長身の堂々とした体躯に成長しており「賢明で人の下知(命令)を受けるようには見えない」とショックを受けた。
彼にとってさらにショックなことには、秀頼が家康周辺に持参した土産。なんと金子960枚、銀子500枚他という、現代の価値に換算して20億円にものぼろうかという巨額の現金だった。
これに対して、家康側が秀頼側に与えたのは、銀子1700枚他に過ぎない。1億6000万円程度では、いくらケチで通った家康といえどもあまりにも差がありすぎて周囲も恥ずかしく、目をあげられない思いがしたことだろう。まさに面目まるつぶれである。
「秀頼の財力は底なしかっ!
やはり、豊臣家をこのまま放置しておいては幕府の安定は望めぬわ、、」
慶長19年(1614)、方広寺鐘銘事件が発生して幕府と豊臣家の関係が一気に緊張すると、家康は慌てて申し開きに来た片桐且元にプレッシャーを加え、「秀頼が江戸に住むか、淀殿が江戸に住むか、そうでなければ豊臣家が大坂から他の土地に移るかを選べ」と迫った。
主役の秀頼母子いずれかを江戸で監視して大坂城を抑え込むか、もっとストレートに金の成る木である大坂と要塞としての大坂城そのものを豊臣家から取りあげて無力化するか、である。家康にはもうひとつ「大坂の町そのものを潰す」という選択肢もあったはずなのだが、それをすると豊臣家だけでなく日本の経済そのものが崩壊して、幕府は袋だたきになって滅亡となる。江戸時代になっても「天下の台所」、日本経済の中心であり続けた大坂の町の価値はそれほど高いものであり、それこそが秀吉が秀頼に遺した一番大きい財産だったのだ。
太平洋戦争勃発を呼んだ「ハル・ノート」はアメリカのハル国務長官が中国からの撤兵などを日本に突き付けた最後通牒だが、「家康ノート」はそれより遙かにエグい条件闘争。これを受けた秀頼は戦いを選んだ。いや、戦わざるを得なかった。前代の公儀・豊臣家としてのプライドもあり、何よりも大坂城の家臣たちが黙っていない。
そして慶長19年(1614年)11月19日から、大坂冬の陣の緒戦、木津川口の戦いが始まった。
はい。またひとつ勉強になりました。てゆーか、もうね、参考にした元記事様の文章が分かりやすく完璧すぎてほぼコピペなんですが、自分用だし非商用なので、目をつぶってくださいまし。これを読んでる私以外の人がもしいたら元記事こちら ↓ なので、そっち読んだ方が良いですよ。
いや〜世の中には、ためになる記事がたくさんあるなあ。
ネット時代の勉強は楽でいいやね。
参考
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/33863?page=3&layout=https://wedge.ismedia.jp/articles/-/34447?layout=b
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