前回に引き続き、こちらも元記事様より引用しまくりでございやすが、個人的な勉強用メモなので、土下座ならいくらでもしますんで許してくださいまし。しっかし本当に興味深い記事ですこと。これはもっと世に知られて良いかと思いますんで、先にリンク貼っておきますね。
● 総額2兆円?「豊臣埋蔵金」は実在するのかhttps://toyokeizai.net/articles/-/223023?page=5
日本各地に伝わる埋蔵金伝説。総額が20兆円ともいわれる「徳川埋蔵金」の行方は以前から注目され、その隠し場所をめぐって、テレビ番組等で群馬県の赤城山麓や東京湾海底で捜索が続いている。
一方、黄金にまつわる数々のエピソードで知られる豊臣秀吉にも、同様の埋蔵金伝説があった。彼が息子の秀頼に遺した莫大な財産は、やがて大坂の陣でその全貌が明らかとなる。『いっきに学び直す日本史古代・中世・近世教養編』『いっきに学び直す日本史近代・現代実用編』の監修を担当し、東邦大学付属東邦中高等学校で長年教鞭をとってきた歴史家の山岸良二氏が、「豊臣埋蔵金」を解説する。
よっ! 山岸大先生! よろしくお願いします!
● 4億5000万両? 多田銀銅山に眠る秀吉の黄金
慶長3(1598)年6月、朝鮮半島では明国侵攻に向けた激しい戦いが繰り広げられるなか、重い病に倒れた豊臣秀吉は、自らの死期が近いことを悟る。
死期を悟った秀吉は、まだ幼い息子、秀頼のために、これまで全国の鉱山から集めた莫大な黄金「4億5000万両」を秘密裏に隠すよう、配下の「幡野三郎光照」という武将に命じた。光照は、大坂から北西25キロに位置する多田銀銅山を隠し場所に選ぶと、坑夫らに即「閉山」を命じる。そして、無数の坑道の奥に黄金を運ばせ、それを21カ所に分けて埋蔵した。
さて、時はくだり大坂冬の陣(1614)。光照は戦死を覚悟し、戦いを前に、黄金の隠し場所を詳しく記録した文書を子孫に残す。この伝説が書かれた巻物と絵図を、第二次世界大戦の終戦直後、ある人物が先祖伝来の家財を整理中に、奇跡的に戦災をまぬがれた荷物の中から見つけた。
このことが新聞で大々的に報道されると、「豊臣埋蔵金」の存在がいっきに全国に知れ渡り、多くのトレジャーハンターたちが一攫千金を夢見て、その謎に挑むことになった。しかし彼らの夢もむなしく、埋蔵金は今日に至るまで発見されていない。そもそも、わずか二代で滅亡した豊臣家に、そんな莫大な黄金が本当に実在したのだろうか。
今回は、謎の多い「豊臣埋蔵金」について解説する。(山岸大先生がね)
● 埋蔵金は本当に存在するのか
本当に多田銀銅山に黄金を隠したのか? そもそも、これらの内容が古くからの伝承ではなく、戦後に「降って湧いた話」である点で疑問が残る。しかも、多田銀銅山は江戸時代から昭和に至るまで採掘が続いていた。その間に、黄金が見つかったという話もない。文書を書き残したとされる幡野三郎光照の「実在も不確か」で、文書の「原本の所在もいまだ明らかでない」ことなどから、信憑性があるレベルとは言えない。
では、埋蔵金のエピソードはまったくのデタラメなのか? それが、そうとも言い切れないのである。豊臣家には莫大な黄金が「滅亡の瞬間」まで存在していたことは確かだ。家康がこの豊臣家の莫大な財力を少しでも散財させようとそそのかし、畿内24社寺の「修復」「改築」を勧めたことは有名で。そのうちのひとつが、京都東山方広寺大仏殿再建工事で、このときに秀頼が寄進した「鐘」に記名された「国家安康」「君臣豊楽」の鐘銘が、「大坂の陣」開戦の契機になったエピソードは周知のとおり。
さらに「大坂の陣」の記録からも、豊臣家に残されていた莫大な黄金をうかがい知ることができる。大坂冬の陣の開戦を前に、秀頼は大坂界隈から米を「爆買い」し、価格の高騰にも動じることなく、城内に20万石の兵糧を蓄えている。ちなみに、これは大坂城に集まった10万人の将兵がおよそ400日間、つまり1年以上も籠城することが可能となる量である。
さらに、牢人たちへの給与に、戦時の蓄えとして金蔵に保管されていた「千枚分銅金」を持ち出している。これは、1個で黄金1000枚分、重さ約165kgの巨大金塊で、これを急遽、大坂城本丸で板ガム大の「竹流金」という棒状の金貨へと大量改鋳して配ったという記録がある。
一説には、溶かされた分銅金の数は1000個にのぼるとされ、これが事実であれば、開戦時の大坂城にはおよそ100万枚相当、またはそれ以上の黄金が存在したと考えられるのである。
それを全部、牢人たちに支払ってしまったのか? と言うと、そうではない。なぜなら、それくらいで使いきれる量ではないからだ。真田幸村(信繁)とその手勢300人に対して、黄金200枚が支給されたという記録を元に単純計算すると、豊臣勢10万人に対する当面の人件費は、合計で黄金6万~7万枚程度。資金的余裕はまだまだ十分といったところだ。
● 大坂の陣の奮闘は「おカネがあったから」
「これだけの資金があっても豊臣方は勝てなかった」とも言えるが、逆に「これだけの資金があったからこそ負けなかった」という見方もできる。当時、豊臣家は摂津(大阪府・兵庫県の一部)とその周辺地域を合わせた65万石の一大名にすぎず、秀頼に呼応する大名もいなかった。対する家康は、幕府の権威で全国の諸大名を動員できたわけだから、本来なら勝負の行方は一目瞭然である。
ところが、大坂城では真田幸村(信繁)のような「実力ある」牢人が大勢雇われ、城自体の堅固な防御も相まって奮闘する。結局、家康は30万の兵を擁しながら大坂城を攻略できず、戦いは一時講和(引き分け)となった。秀頼が屈服しない背景には「おカネ」も大いに関係していたのだろう。次いで家康は、秀頼に大和(奈良県)への国替え、もしくは城に残る牢人たちの解雇を命じるが、秀頼はどちらにも応じることなく、戦いは夏の陣へと移ってゆく。
この秀頼の強気な姿勢こそ、裏を返せば大坂城には、まだ大量の牢人を雇える体力、つまり「金」があった証拠とも言える。でも結局は、秀頼は負けてしまう。さすがにおカネの力をもってしても「限界」はあったようだ。講和では家康の巧妙な策略にはまり、大坂城は主要な堀を埋められてその機能を失った。こうなっては、もう勝ち目はない。そして迎えた「大坂夏の陣」、幸村らの善戦むなしく豊臣家は滅んだ。
● 大坂落城時、黄金はどうなった?
元和元(1615)年5月8日に秀頼が自刃し、城は灰燼に帰したため、その行方は一時的に不明となった。家康は翌9日から腹心の部下に城を封鎖させ、焼け跡から黄金を探すよう命じた。約半月にわたる探索の結果、黄金2万8060枚、銀2万4000枚が発見され、すべて家康の元に送られている。
しかし、開戦当初の豊臣方に、黄金100万枚相当が実際にあったとするならば、この残金はあまりに少なすぎる。黄金の大部分はどこに消えたのか? 実はそれを「示唆」する、ある奇怪な出来事が、大坂落城から3カ月後に起こったという。
その出来事とは、同年7月末、秀吉をまつる京都東山の豊国神社に、「匿名」で多額の金が「寄付」されているという噂がにわかに広がり、家康が調査を命じたところ、それが「事実」だったことが判明し、驚いた家康は、豊国神社から財を没収したというもの。
もしこの話が真実ならば、黄金は密かに難を逃れた可能性がある。家康からの国替え勧告に断固応じず、城を無防備にされながらも最後まで大坂を離れようとしなかった秀頼。ひょっとすると、豊臣埋蔵金の隠し場所は、案外その「大坂城の真下、地下深く」だったりしたのかも? その答えを知る者はいない。
歴史には、まだ史実として認められていない不確かな伝承や事柄が数多く存在する。歴史を学ぶことは、「教養」を高めると同時に、それ自体が「知的な楽しみ」でもある。
徳川埋蔵金てのは聞いたことがあたけど、豊臣版もあたんですね。確かに秀吉はキンキラキンなイメージあるし、政権も短かったし、埋蔵金の可能性は大いにあり得そう。
そして、山岸大先生のありがたき解説のとおり、秀頼が大勢の牢人を従えられたのも、やはり金があってこそ。打倒徳川の大義だけでは実際そんな命張れませんわな。
あ、ちなみに「牢人」と「浪人」どう違うのかってーと、
現代では「浪人」が一般的だが、これは郷土を離れて、諸国を流浪する浮浪人のことを指した。 一方「牢人」は、主家を去り封禄を失った人のこと、つまり、雇い主が戦に負けて、勤め先がなくなった「非正規身分」となった武士のことである(あるいは自ら去った)。 こうした牢人が、戦国時代には大量に出た。
だそうで。真田幸村がその筆頭ですね。埋蔵金もさることながら、彼らがもらった「竹流金」はその後どこさ行っちまったんだべさ? 今コロッと1枚でも見つかれば、かなりの価値になりそうだけど。
参考
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/32344?page=4&layout=b
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