vol.212「家康の妻と子供」について(前編)


そうだ、家康様もぼちぼち死んでしまわれる頃合いなので、亡くなる前に家康の妻と子供たちについて書いておこうかな。って、16人もいたのかー。多いとは聞いてたが16人全員の名前言える一般人、この世に何人いんのよ。それこそ16人くらいじゃねーの?とか思ったりするが、そんなことないんでしょうね。みなさん勉強家だなあ。



● 家康の正室・築山殿とは不仲であった


「築山殿」は、言わずと知れた徳川家康の正室であり、結婚前の呼び名は「瀬名姫」。家康と同じ天文11年(1542)生まれで、父は名門・今川家の重臣「関口親永」、母は「今川義元」の妹と言われている。つまり、築山殿は今川義元の姪であり、名門のお嬢様。

築山(現在の愛知県岡崎市)に居を構えたことから、築山殿と呼ばれるようになったそうな。


家康と築山殿は、結婚の2年後に嫡男「徳川信康」、さらに翌年には「亀姫」を授かった。期待の嫡男が誕生してハッピーかと思いきや、実は2人の仲は冷めたものだった。


それは、そもそも家康が今川家の人質であったこと、また築山殿が名門・今川家の娘だったことから、築山殿は日頃から夫の家康を見下し、それが態度に表れていたのである。築山殿にしてみれば、本家の娘が家臣と結婚したようなもので、納得がいかなかったのかもしれない。


家康も人質である立場から強く出ることはできず、築山殿の態度に我慢する日々を送っていた。夫婦仲はどんどん悪くなり、その反動か、家康はやがて多くの側室を抱えることになる。


それから「桶狭間の戦い」をはじめ、色んなことがありまして。もはや人質という立場ではなくなった家康は、築山殿に遠慮する必要もなくなり、別居状態が続いていた。さらに、築山殿の侍女「お万」が家康と関係を持ち、身籠ったことが発覚する。


これを聞いた築山殿は怒り心頭。プライドが傷付けられ、嫉妬に我を忘れた築山殿は、妊娠した侍女の身ぐるみを剥がし、庭先で鞭を据えながら追いかけ回したという、恐ろしい逸話が残っている。


ちなみに、戦国武将で好色家と言えば「豊臣秀吉」がいるが、秀吉が好んだのは上級武士や公家といった身分の高い家柄の娘。一方、徳川家康は市井の町娘や下級武士の娘といった身分の低い女性を好んだ。格式の高い今川家を出自とする築山殿との冷え切った関係が、身分の高い女性を遠ざけた理由かもしれない。




● 愛のない家庭はどんどん崩壊してゆく


築山殿が住む岡崎城には、家康の母と、徳川信康に嫁いだ織田信長の娘「徳姫」がいた。家康は、浜松城を手に入れてから岡崎城をほとんど空けており、築山殿の周囲は敵だらけだった。さらに追い討ちをかけるように、築山殿の両親が今川氏真の手により殺害されるが、肝心の家康はと言えば、浜松城で毎年のように側室との間に子どもを儲け、築山殿の立つ瀬はなかった。


帰る実家もなければ味方もいない。築山殿の立場が悪くなる中、それでもないがしろにされなかったのは、嫡男・信康の存在が大きかったと言える。築山殿にとって唯一の希望であった信康。しかし、その正室となった徳姫のことは気に入っていなかった。築山殿は、叔父・今川義元の命を奪った織田家の徳姫を目の敵にしており、自身がおかれた境遇と同じことを徳姫に仕返そうとする


信康と徳姫の間には、2人の女児のみで男子が誕生していないことを理由に徳姫に嫌味を言い、信康には側室を取ることを勧めた。このとき側室となったのが、織田家の仇敵であった武田家家臣「浅原昌時」の娘であった。やがて信康は側室を寵愛し、徳姫との夫婦仲に亀裂が生じてしまう。


徳姫は、織田信長と側室「生駒(いこま)」との間に生まれた長女で、織田信長に可愛がられて育ったお嬢様である。築山殿と同様にプライドが高く、我慢ができる性分ではなかった。築山殿の嫌がらせを受けて腹が立った徳姫は、信康と築山殿への不満を誇張も交えて父である織田信長に訴える。


このとき、徳姫は夫・信康の悪行や、築山殿の行動を、感情に委ねるまま書き連ねた。挙句の果てには、2人が織田信長を裏切って武田家と密通しているとの訴状を送ったのである。徳姫のお付きの侍女が「武田勝頼」から築山殿宛の密書を盗み見たと話したことから、徳姫は事実も確認せず築山殿が武田勝頼と内通していると主張した




● 信長から切腹命令が下される


徳姫からの訴状に目を通した織田信長は、徳川家康に徳川信康の切腹と、築山殿の誅殺(ちゅうさつ:罪を咎めて殺すこと)を命じる。家康としては、嫡男・信康の命を早々と奪えるものではない。しかし、武田軍と対峙していた三河国において、織田信長まで敵に回してしまうことは避けたいところ。家康は苦渋の末、信康と築山殿に手を下す決断をする


信康が切腹を命じられたことを聞き付けた築山殿は、家康に息子の命を助けて貰おうと、浜松城へと出向いた。しかし、浜松城までお供をする家臣は、すでに家康の命を帯びた者達。築山殿は、そもそも自分が徳姫に嫌がらせをした末のできごとであることや、自分自身に命の危険が迫っているとは思ってもいなかった。


浜松城まであと1里(4km)ほど、佐鳴湖(さなるこ)のほとりにきたところで、築山殿は家臣によって殺害されてしまう。一方、家康から切腹を命じられた信康は、父の命令に従い21歳の若さで自刃した。


以上が「徳川信康事件」の経緯である。しかし、これは今川家を敵視した徳川家によって、恣意的に作られた可能性が高いと指摘されている。切腹するように命令を下した織田信長にしても、徳川信康への不満をぶちまけた徳姫の訴状を、そのまま鵜吞みにしたとは考えにくい部分があるからだ。




● 家康が2人を始末したのではないか


一説によると、信康は人間性に大きな問題を抱えており、そうしたことも原因のひとつとなって、家康が信康に自害を命じたという。近年の研究では、家康が信康と対立することで、家中が割れることを危惧したために、自らの判断で信康に自害を求めたとされる。とはいえ、父が我が子に自害を求めたのでは具合が悪かったので、あえて信長の命に従ったとしたのだろう。言うならば、信長に責任を押し付けたのである


信康には多くの悪評が伝わっている。『当代記』や『石川正西聞見集』によると、信康は日頃から態度が悪く、粗暴な振る舞いが多かったので、家臣はその対応で苦労したという。そのうえ、家康の命を聞かなくなったのだから、家臣は大いに困ったであろう。


それだけではない。信康は狩りに出掛ける途中で、一人の僧侶に出会った。僧侶は信康に「今日は獲物が獲れないだろう」と予言し、その言葉通りその日の狩りは収穫がなかった。立腹した信康はその僧侶を捕らえると、木に括り付けたといわれている


また、領内で盆踊りが催された際、信康は面白半分に領民を弓矢で射殺した。理由は踊りが下手だとか、服装が貧相だという他愛ないものだった。これでは、殺された領民は、たまったものではない。


やがて、妻の徳姫は夫の信康との関係が冷え切ったこともあり、信康の不行状を12ヵ条にまとめ、父の信長に送った。その結果、先述のとおり、信長は家康に信康の処分を命じたということになろう。


親が子を殺すことは褒められたことではない。そこで、信康は行状に問題があったので、殺されても仕方がないというストーリーに、家康側が仕立て上げた可能性もある。なにせ織田信長も信康も、もう死んでいるのだ。生き残った者が好きに話を作り上げるのは容易いことだ


結局のところ、徳川信康が自刃した本当の理由は分かっていない。家康が築山殿の死について悲しんだかどうかも不明である。




● 築山殿の気性を継いだ長女・亀姫


亀姫は、永禄3年(1560)駿府で生まれる。元亀4年(1573)頃に家康が奥三河における武田氏の勢力を牽制するため、奥平氏の帰順(反逆心を改めて服従すること)を試みた際、織田信長の提案で、亀姫と新城城主「奥平信昌」の婚約が提示条件の一つとなり、長篠の戦いをめぐる戦功への褒美として嫁がされた。


奥平家の徳川方の寝返りに激怒した「武田勝頼」は、実際に、奥平家からの人質(新妻や弟)を処刑している。奥平家当主として、このような決断を下した奥平信昌は非情にも思えるが、亀姫を正室として迎えることで奥平家にもたらされる将来の希望は、大切な家族の命を失ってもそれを相殺するに値するほど重い価値があったと判断したのであろう。


それからというもの、奥平信昌は家康の家臣としてみるみる出世し、子宝にも恵まれた。慶長19年(1614)に奥平信昌が亡くなると、長男「奥平忠昌」が、わずか7歳で父の跡を継いで「宇都宮藩10万石の藩主となり、亀姫は奥平忠昌の後見役となった。


その後、奥平忠昌は元和5年(1619)下総国古河藩に転封となる。これに亀姫が不満を募らせていたなか、元和8年(1622)に宇都宮城において、その城主となっていた「本多正純」が、2代将軍・徳川秀忠の暗殺計画を企てたとする事件が起こる


徳川秀忠はこのとき、家康の7回忌のため日光東照宮で参拝。その帰路に宇都宮城で宿泊する予定になっていた。しかし、本多正純が同城の湯殿に「釣天井」を仕掛け、暗殺しようとしていたことを知り、宇都宮城には寄らずに江戸城へと戻った。


この事件によって本多正純は、配流の刑(はいるのけい:追放刑)に処され、本多家も改易となってしまった。そのおかげで奥平忠昌は、再び宇都宮藩へと戻ることができたのだが、実際には湯殿に仕掛けなどなく暗殺計画もなかったと伝えられている


ではなぜ、このような事件が起こってしまったのか。その黒幕こそが、亀姫であったのではないかと噂された。亀姫はかねてより、本多正純に対して並々ならぬ怨念を持っていた。


背景にあったのは、亀姫の娘「千姫」にまつわるできごと。千姫の夫の父であり、小田原藩の初代藩主であった「大久保忠隣」が、この本多正純に失脚させられていたのである。


さらに亀姫は、奥平忠昌が宇都宮藩主だったときの知行が10万石であったのに対し、本多正純の知行が15万5,000石となっており、大幅に差を付けられたことについても不満に思っていた。


このような状況から、この事件の展開が亀姫の願った通りとなったこともあり、亀姫が仕組んだとする陰謀説が囁かれるようになる。


徳川家康の娘であり、徳川秀忠の異母姉でもあった亀姫であれば、秀忠に告げ口をすることは可能であったろう。事件の真相は明らかにはなっていないが、とにかく亀姫は、孫の奥平忠昌とその領地を守ることができたのである。


亀姫の母親・築山殿も、かなり気の強い性格の女性だった。亀姫の気性の激しさは、おそらく母親譲りだろう。それを伝えているのが、亀姫の夫・奥平信昌の転封先「加納城」の近くに残る「十二相神」の墓。そこには嫉妬深い亀姫の勘気に触れて、手討ちにされた12名の侍女が祀られている。


奥平家の発展のために夫に尽くしながらも、家を支えるためにどこか恐ろしい一面があった亀姫の気質が分かる逸話だと言える。




なんじゃこれは。どうする家康とは全然違うじゃないか。てかドラマの方が勝手に美化したのか。確かに美化でもしないと家康も築山殿も、どっちもどっち感あって、両方とも嫌いになってしまいそうだ。


そもそも史実も演出だらけのようで。

何が本当なんだか分かりませんね。



参考
https://www.touken-world.jp/tips/46522/
https://www.touken-world.jp/tips/47837/

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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