以前、「 vol.7「結城秀康」なる謎の男について」と題して、家康の次男であり秀忠の兄、結城秀康さんのことは軽く触れました。が、読み返してみると何かトホホな感じ過ぎて気の毒なので、もう少しちゃんとまとめ直して差し上げましょうね。
● 次男・秀康の不運な人生
天正2年(1574)2月8日、徳川家康を父に、「お万の方」を母に、家康の次男として遠江浜松で生まれた。幼名「於義丸(おぎまる)」。母・お万の方は、家康の正室・築山殿の侍女で、謂わば「お手付き」で於義丸ができた訳で、その為にお万は築山殿を憚って、重臣の「本多作左衛門重次(鬼作左)」に匿われるようにして中村正吉の屋敷で誕生した。
家康はこのことを歓迎しなかった。その理由としては、築山殿の嫉妬を警戒したからとか、生まれた子が双子(当時、双子は歓迎されなかった)だったからなどということが挙げられる。実際、お万の方の懐妊がわかった時、築山殿は激怒し、お万の方を折檻したとも言われている。自分に仕えているはずの侍女が、自身の夫の子を妊娠したという状況は、簡単に許せるものではなかったのであろう。
そんな築山殿に配慮してか、於義丸という名前からして、「魚のギギに似ていて気味が悪い」という理由で付けられた、ひどいものだった。これがもし事実なら、母子ともにかなり冷遇されていたと考えられる。 悪いのは家康じゃんとも思うが、身分が低い者が割を食うのは世の常なのか。3歳になった折に、於義丸を不憫に思った兄・信康の計らいで、家康との対面が叶ったが、その後の待遇が良くなった訳でもない。
その2年後の天正7年(1579)年9月15日に、理解者であった兄・信康は家康から切腹を命ぜられた。これにより、順番から云えば、於義丸は後継者になるはずだった。
ところがどっこい、家康は信康切腹の5ヶ月前に生まれた「長松丸(秀忠)」の方を優遇し、於義丸は天正12年1584)の「小牧・長久手の戦い」における秀吉との和解条件として、養子に出される始末だった。勿論人質を兼ねていたのは言うまでもない。
しかし幸か不幸か、戦国屈指の子煩悩男にして、長く実子に恵まれなかった秀吉に於義丸は愛された。養子入り直後、元服に際し、養父・秀吉からは羽柴姓、「秀」の偏諱を、実父・家康からは「康」の偏諱を受けて、「羽柴秀康(はしばひでやす)」と名乗った。
天正15年(1587)秀康は、九州島津征伐において豊前岩石城攻め先鋒で初陣を飾った。直後に日向でも功績を挙げ、それを喜んだ秀吉から豊臣姓を許され、小田原征伐にも参加・活躍した。このまま順調に行けば秀吉の後継者になれるはずだった。
ところがどっこい(またもや)その渦中である天正17年(1589)、秀吉に実子「鶴松」が誕生。即行で鶴松は豊臣家の後継者となったため、秀康及び秀吉の養子達は疎外対象となってしまった。
同年、実父・家康が関八州へ国替えとなり、同時に秀吉から下野の名家・結城氏の当主・結城晴朝の養子となって、晴朝の姪・鶴子と婚姻して家督と11万1000石を継いだ。かくして「結城秀康」が誕生した訳である。
関東に移ったことと、秀吉の元での武功もあって、秀康は17歳にして実父・家康との距離が近くなった。養父・秀吉が慶長3年(1598)に没し、2年後の慶長5年(1600)に、関ヶ原の戦いが勃発すると、父の会津征伐に従軍し、石田三成が挙兵すると秀康は「上杉景勝牽制」という、地味ながらも重大な役割を与えられた。
周知の通り、関ヶ原の戦いは東軍の大勝利となり、秀康は家康から越前北庄67万石に加増移封された(加増石高は50万石を超え、参加諸将の中でも最大の加封と云えた)。慶長3年(1603)、家康が征夷大将軍に就任。翌年、秀康は松平姓を許され「松平秀康」となった。
ところがどっこい(やっぱり)徳川姓と将軍の地位は翌慶長10年に弟・秀忠に継承され、秀康は権中納言に昇任し、これが極冠となった。慶長12年(1607)、伏見城番を命じられたが、病に罹って越前へ帰国。2ヶ月後に息を引き取った。松平秀康享年34歳。
奇しくも越前に帰国した同日、弟・松平忠吉(家康四男)も病死しており、相次ぐ息子の若死には家康と秀忠を大いに嘆かせたと云われている。
たった一度のお手付きで秀康を生んだ母・お万の方は、側室とは名ばかりで、「家康の妻」と云うより、「秀康の母」としてのカラーが強く、秀康が息を引き取ると彼女は家康の許しも得ずに剃髪した。
● 三男・秀忠の真面目なる人生
天正7年(1579)、徳川家康を父に、側室「お愛の方」を母に、遠江浜松にて誕生。幼名「長松丸(ちょうまつまる)」。
母の於愛の方(西郷局)は、家康の側室の中でも寵愛が深かった方で、長松丸を生んだ翌年にも男児(松平忠吉)を生んだ(家康の数多い側室の中でも二人以上子を産んだ者は三人だけである)。が、一方でこの年、長兄・信康が切腹を命ぜられて果てる、という悲劇も起きていた。
本来なら次兄・秀康が後継者となるのが順序だったが、幼少時の秀康は家康に愛されず、天正12年(1584)に、小牧・長久手の戦いにおける和睦の証として、豊臣秀吉に養子(兼人質)として出されたため、この時点で長松丸は、実質的な世子となった。
天正18年(1590)、小田原征伐に際して上洛。秀吉の妹で、家康の継室となっていた朝日姫に可愛がられていた縁からか、秀吉にも可愛がられ、元服に際しては秀吉から偏諱を受けて「徳川秀忠」となった。
文禄4年(1595)、秀吉の養女・江と結婚。江は浅井三姉妹の末妹で、長姉・淀殿は秀吉の側室だったので、秀忠は秀吉と義理の親子にして、義兄弟となった。
やがて豊臣秀吉が没し、慶長5年(1600)に関ヶ原の戦いが勃発。父・家康が豊臣恩顧の大名を率いて東海道を進んだのに対して秀忠は、徳川家の主力3万8000を率いて中山道を進んだが、その途中、信濃上田城にて真田昌幸・幸村父子の妨害に遭って日数を浪費し、関ヶ原の戦いに遅参する、という大失態を演じてしまう。
終戦の5日後である9月20日に大津に到着。早速、秀忠は戦勝祝いと遅参謝罪を行わんとしたが、怒り心頭の家康はに面会を許さず、榊原康政の嘆願でようやく面会が叶ったのは更に3日後のことだった。
慶長8年(1603)、父・家康が征夷大将軍に就任。不安がる豊臣家を安心させるように、翌年には秀吉との生前の約束を守って、豊臣秀頼と千姫を婚姻させた(同年、待望の嫡男・竹千代(家光)誕生)。
だが、徳川氏の将軍職世襲を世に示すため、慶長10年(1605)徳川秀忠は27歳にて家康から将軍職を譲られ、第2代征夷大将軍となった。同年2月、秀忠は関東・東北・甲信などの東国の諸大名16万を率いて上洛の途に付き、3月に伏見城へ入城。第2代将軍に任じられたのは4月16日のことだった。
将軍となった秀忠は江戸城に居住。家康は将軍を引退した大御所となって駿府城に移ったが、実権は家康が握っていた。結局、将軍になって9年が経過した慶長19年(1614)の大坂冬の陣にても、翌慶長20年(1615)の大坂夏の陣にても、総大将は家康が務めた。
だが、この戦国最後の戦で豊臣氏が滅びると、秀忠は守成の才を発揮し出し、家康とともに「武家諸法度・禁中並公家諸法度」などの制定に務めた。
元和2年(1616)、家康が薨去すると、名実ともに将軍親政を開始。家康生前時には真面目な律儀者だったのが、辣腕家に変身し、大名統制を強化して福島正則など多くの豊臣恩顧の外様大名を改易。
3人の弟(義直・頼宣・頼房)、2人の子供(家光・忠長)を要衝の地に配置して周囲を固める一方で、松平忠輝・松平忠直・本多正純を改易・配流にするなど、容赦が無く、末娘・和子を後水尾天皇に入内させるなど、積極的に動いた。
元和9年(1623)、将軍職を嫡男・家光に委譲するが、もちろん実権は秀忠が握っていた。
寛永3年(1626)、娘婿でもあった後水尾天皇が二条城への行幸。それに合わせて秀忠は、家光・忠長を伴って上洛、拝謁した。上洛中、ただ一人の妻・お江が逝去。忠長一人を先に江戸に帰らせたが、死に目には会えなかった。
寛永8年(1631)、次男・忠長の不行状を叱り、蟄居を命じたが、ここまでの慌ただしい動きが心身に応えたのか、不摂生をする生活でもなかったにもかかわらずこの辺りから体調を崩し、翌年に薨去した。享年54歳。奇しくも姉さん女房だったお江と同い年での死だった。
● 兄弟の日々
結城秀康も、徳川秀忠も、母親は側室で、生まれた時には家康の正室・築山殿の腹から生まれた正真正銘の嫡男・信康という長兄がいた。ただ、信康自身、三河岡崎にいて、遠江に居住した秀康・秀忠とは距離が有り、顔を合わすことは殆どなかった(秀忠に至っては一度も合わせていない可能性が高い)。
そして秀康が11歳、秀忠が6歳の時に、秀康は羽柴秀吉の養子となって家を出て、それが遠因となって秀康は生涯「徳川」の姓を名乗ることはなかった。そんな羽柴と徳川に別れた兄弟を親密ならしめたのは皮肉にも、父・家康最大のライバルだった秀吉であった。
豊臣秀吉という男は長年実子に恵まれなかった反動か、子煩悩で、概ね養子でも溺愛した人物であった。養子になった秀康もそうだったが、実妹にして家康の継室となった朝日姫に可愛がられた秀忠もまた秀吉に可愛がられ、二重三重の姻戚関係が結ばれた。
特に秀康は、武将としてかなり剛の者に育ち、その膂力は秀吉の養子達の中では随一と云って良く、軽量短躯で膂力に恵まれなかった秀吉に愛された。同時にその器量が実父・家康をも見直させることとなった。
ただ、若干粗暴に育ったことが後々ニ人の父から距離を置かれることになった(有名なエピソードとして、伏見の馬場で自分に並走した秀吉の寵臣を無礼打ちにしたり、碓氷峠の関所にて鉄砲所持で江戸に向かおうとした自分を止めようとした関守に成敗をちらつかせたりした、というものがある)。
一方の秀忠は、関ヶ原の戦いにおける遅参を初め、武将としてはお世辞にも剛毅な面を見せたとは言い難かった。だが戦国武将としてはかなり温厚で、政治それも守成面に優れ、恐妻家にして愛妻家というのが一般的なイメージである。
能力面でも、辿った境遇面でも余りにも対照的な二人だったが、それでも兄弟仲は良かった。その要因は多分に両者が自分を良く知り、苦手分野に出しゃばらず、律儀さを重んじる性格が共通していたことにある。
この考察の為には、家康の後継者決定を巡る背景を知る必要がある。家康は、後継者問題では相当頭を痛めた様で、関ヶ原の戦い直後にも重臣達に誰を後継者とするかを諮ったが、重臣達の意見も別れた。
本多一族(忠勝・正信・正純)は秀康を推し、榊原康政・大久保忠隣は秀忠を推し、井伊直政は四男・松平忠吉を推した。(さすがに四男・忠吉の分は悪く、井伊直政が推したのも忠吉の岳父だったからで、忠吉自身、同母兄秀忠を出し抜こうとは思わなかった)
秀康か? 秀忠か? という家康の苦悩は、秀康が二度も養子に行ったことや、泰平の世には武勇より守成が重んじられることから第2代将軍は徳川秀忠に決定した。
かくなる経緯があったゆえに、秀康は主君となった弟を憚り、秀忠は臣下でも年長の兄を憚った。
徳川家では将軍秀忠と、御三家となった義直(九男)・頼宣(十男)・頼房(十一男)の家系だけが徳川姓を許されたが、秀康は徳川姓でないにもかかわらず、「制外の家」として、御三家に劣らぬ別格の存在とされた(秀康一代限りの話ではあったが)。
秀忠は三女・勝姫を、秀康の嫡男・松平忠直に娶せ、前述の碓氷峠関所の一件では、訴えて来た関守に「(兄上に)殺されなかっただけ幸いであった」と言い放つほどだった。
一方の秀康も「律儀さ」というか「筋を通すこと」に掛けては弟に劣らなかった。
慶長10年(1605)の徳川秀忠将軍就任祝いの席にて、上杉景勝が秀康に上座を譲ろうとすると、秀康は「(官位が)同じ権中納言といえども、景勝殿の方がより早くその官位を受けている」として、先官の景勝に上座を譲ろうとした為、互いに譲り合いになったのを、秀忠の裁定で秀康が上座になったことがあった。これを見ていた人々は秀康の礼節・謙譲に感心したという。
またあるとき、江戸城に出仕した秀康を秀忠が迎え、城門をくぐる際に、兄は主君である弟に先にくぐることを勧め、弟は家臣でも兄が先にくぐるべきであると進め、結局は両者並んで門をくぐったこともあった。
かくも正反対のカラーを持った兄弟が、「律儀」の一点で似過ぎていたことが実に興味深い兄弟愛を織り成したと言えよう。
以上、この素晴らしく解りやすい文章は、ほぼ以下のWEB記事様からの引用である。あまりに秀逸すぎて誤字の修正と、接続詞・句読点の追加くらいしか改変する余地が無かった。めちゃくちゃ勉強になるので今後もたっぷり活用させていただきます!(^人^)
いや〜世の中すごい博識な方がいっぱいいますね。
参考
saikondojo.g2.xrea.com/kennkeikenntei11.html
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