傭兵として海外へ渡ったサムライ達は、その後どうなったのか。
こんな話まったく習ってないぞ。詳しそうな先生、教えてたもれ。
● 歴史学者の「岩生成一」氏は
戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、10万人以上の日本人が貿易商、奴隷、傭兵として海外に送られ、そのうち10%が残ったと計算している。スペインがマニラで日本人を雇ったり、オランダが平戸で日本人を戦争のために雇ったりしたという報告がたくさんある。日本に平和が訪れたので、多くの武士も海外へ職を探しに行った。特に、幕府によって宗教が禁止されたキリスト教徒など、反徳川派の武士たちが海外に渡っていた。
オランダ東インド会社の総督「ヤン・ピーテルスゾーン・クーン」は、彼らは勇敢で、ヨーロッパ人と同等の兵士(しかもずっと安い)だと考え、彼らを使って東インドを支配しようとしていた。当時、幕府は平戸藩が食料、武器、人々(傭兵と奴隷の両方)を国外に売ることを許可(または見て見ぬふり)しており、オランダ東インド会社が平戸から食料、人々、武器を入手した記録が残っている。
この頃、世界のパワーバランスは大きく変わろうとしていた。それまでスペイン・ポルトガルという共通の敵を持つオランダとイギリスは、互いに力を合わせて奴等に対抗する友好国同士だったが、地球の裏側では植民地を奪い合うライバルと化していた。
イギリス人はオランダ人がナツメグやクローブの収穫をするところ、どこにでも現れて邪魔をする。オランダ人たちはイギリス人たちを馬の体内に寄生することで知られる「馬バエ」と呼んで嫌悪した。所詮イギリスとオランダは「偽りの友人」でしかなかったのだ。
そんな緊迫した空気の中、様々な悲劇が各地で巻き起こってゆく。
● バンダ島の虐殺
オランダ東インド会社は、その本拠をバタヴィア(現在のジャカルタ)に置いていた。1620年に行われた、バタヴィアにおける人口調査では873人の住民が記録されているが、そのうち71人が日本人であった。12人に1人というかなりの割合になるが、その殆どが傭兵であったらしい。
この時期、ナツメグは特に貴重なスパイスであったが、それはインドネシアのバンダ島でしか育たなかった。オランダの役人たちは、島を占領し、ナツメグ生産の独占的な支配を確保しようとしたが、多くのバンダ島の村人は独占契約を守らず、秘かにジャワ、ブトン、マカッサル、マレー、それにイギリス人らに売った。
やがてオランダと村人との緊張はピークに達し、1620年、村人たちがオランダの提督と40人の兵士を襲撃して殺害する事件が起こる。
翌1621年、バタヴィア総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンが自ら兵を率い、現地住民の大虐殺を行う。島民の90%以上、約1万2000人を殺害、もしくはバタヴィアに連行し奴隷にして売り払ったと言われている。
この悪逆非道の行為によって、クーンには「バンダの虐殺者」という異名がつくのだが、これに参加した2000の兵のうち、87人がクーン直轄の日本人傭兵であったそうだ。彼らは刃物の扱いに長けていたので、特に斬首刑の執行役として重宝されていたようだ。
バンダネイラ博物館蔵『バンダにおける、伝統的指導者たち44人の虐殺』
1621年5月8日に行われた、処刑シーンを描いた近代絵画。処刑を担当している日本人傭兵が、まわしをつけた力士にしか見えないのが、異様にホラーな雰囲気を醸し出している。
● アンボイナ事件
オランダ東インド会社は、アンボイナ島のアンボンに堅牢な要塞を築いていた。イギリス東インド会社は、ここではその要塞の中の一角に商館を置くことを許可され、細々と業務を営んでいた。
オランダ東インド会社はアンボンで30名ほどの日本人浪人を傭兵として雇っていた。
そのアンボンで事件は起こる。
1623年2月10日、夜半。オランダ側に雇われた傭兵の中に「七蔵」という平戸出身の若者がおり、しきりに要塞の防御力や配置人員のことなどをオランダ兵に尋ねてきた。七蔵は職務に忠実な男で、自らが警護する要塞が何時間、攻撃に耐えられるのかを知っておきたかっただけだと言われる。しかし、その真面目さが裏目に出た。
オランダ人は、「偽りの友人」たちがいつか反乱を起こすのではないかと警戒していた。天井のシミがいつしか人の顔に見え始め、それがやがて怪物の形相となっていくように、次第に恐怖がオランダ人を支配し始めていた。そんな矢先の七蔵であった。
先のオランダ兵が上司に、要塞内にスパイがいるかもしれないと報告し、上司はたちまち反応した。
「その男を今すぐここへ連れて来い!」
オランダ側の尋問に、正直に答えた七蔵であったが、警戒を強めるオランダ人は納得しなかった。
七蔵は拷問にかけられた。「イギリス人と協力して要塞を奪取するつもりなのだろう!」オランダ人たちは、七蔵の口から吐かれるべき証言を予め用意していた。今は傭兵に身をやつしている七蔵だが、元は立派なサムライである。壮絶な火責め、水責めの拷問にも耐えた。しかしある時、朦朧とする意識の中で、遂にオランダ人たちの恐怖心が作り上げた存在しない計画の存在を認めてしまった。これが「自供」とされた。
オランダ人たちは自らが描いたシナリオに「やはり…!」と震え上がった。そして翌日からイギリス人12名に対する言語に絶する陰惨な拷問が始まった。イギリス人も耐えに耐えた。しかし、その忍耐力はオランダ人の「馬バエ」に対する憎悪を増幅させる以外の働きをしなかった。
彼らはロープで吊り上げられ、全身をゆっくりと焼かれた。また、帆布を首から上に巻かれ、上から水を鼻が隠れるあたりまでたっぷりと注がれた。窒息したくなければ水を飲み続けなければならない。やがて水も咽を通らなくなり窒息、失神した。再び起こされてはまた水を飲まされ、という拷問が繰り返された。飲み込んだ水によって人の身体は3倍くらいに膨れ上がったという。
また、手足の切断も行われた。やがて彼らは苦しみの中で、オランダ側が予め用意していたシナリオ通りの証言に導かれていく。例え証言の先に待つものが死だと分かっていても、目の前の苦しみから逃れられるのが何よりの幸せであった。
一方、別室では七蔵以外に8名の日本人に対し、同様の拷問が繰り広げられていた。戦国時代を生き抜いてきたタフなサムライたちもよく耐えた。しかし拷問は凄惨を極めた。1人、2人と陥ちていき、やがて全員陥落。
この時、イギリス商館の中に保管されていた武器とは、刀が3本にマスケット銃(火縄銃)2挺。浪人たちの助太刀があったとしても、200人の屈強なオランダ人と現地人による守備兵と、オランダ人の支配下にある400人程の現地人住民相手に反乱を起こすには、あまりにも現実離れした戦力であった。だが現実が何であれ、現にイギリス人12名と日本人傭兵9名は反乱計画の存在を認めた。
イギリス人12名、日本人9名、そして資料がないため理由は分からないがポルトガル人1名が有罪とされ、死刑が求刑された。
しかし、イギリス人全員を処刑してしまっては、残されたイギリス商館の始末をする者がいなくなることに気づき、急遽2名がその役をあてがわれ、命拾いすることになった。この2人が命からがらパタヴィア(現在のジャカルタ)にまで逃げ伸びたことで、アンボン島で起きた事件の詳細がイギリス本国にも伝えられた。
この事件のあらましが伝えられると、たちまちイギリス国民の間にオランダ憎しの感情が高まっていき、英蘭の間で密かに進められていた2つの東インド会社の合併話も頓挫した。そしてこの事件が、のちに勃発する3度にわたる英蘭戦争の遠因となり、オランダを没落へと導いていくことになるのであった。
ひゃ〜、悲惨〜。虐殺したり、拷問されたり、良いことなさすぎ〜。
原住民だって甚だ迷惑だし、つくづく大航海時代ってロクなもんでねえ。しかも香辛料をめぐって殺し合ってたってのがまた何とも。。
これまで日本では戦にも大義が必要な感じでやってきただけに、スパイスの取り合いで命掛けて戦ったり、しかも殺されたりって。サムライってそんなことのために戦うものでしたっけ?
さすがヨーロッパはノリが違うなあ。。
参考
https://negorosenki.hatenablog.com/entry/2022/09/26/084800
https://edutainment-ted.jp/オランダ東インド会社の残虐な遺産:バンダ島の/
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