vol.13「遊女文化」について


「家康」が江戸幕府を開いた1603年から「4代目家綱」が死ぬ1680年まで、約80年経過し、このあたりから町人文化がいろいろ発展してゆくわけだが、もう既にこの時点で発展しまくり済みの文化がある。それが「遊女文化」である。


江戸初期は、治水工事だったり、埋め立て工事だったり、城とか屋敷とか建てたり、ともかく「天下普請」なるガテン系仕事に武士や職人が駆り出されてるわけで。もうね男だらけ。右も左も工事現場だらけで、むさくるしいのよ。職人らもみんな単身赴任でストレス溜まるってるし、癒しが欲しいわけよ。特に娯楽もないしさ。ってことで遊女。間違いない(確信)ってなる。


男人口の増加と共に、遊女ニーズ爆上がりの江戸。これビッグビジネスチャーンスね!と、遊女斡旋業者が、江戸に乗り込む乗り込む。で1617年には早々に幕府公認の遊廓を、吉原(人形町)に作らせてもらっちゃう。仕事が早い。


● なぜ遊廓は廓(くるわ)と言うのか?

遊女町の周りにお歯黒ドブという堀を巡らし、町の隔離と遊女逃亡防止とした。その形が城を囲んだ囲いに似てるので「遊廓」と呼ばれるように。それからいつしか「廓」と言えば「遊廓」のことに定着したとか。ちなみに「お歯黒ドブ」とは、お歯黒に使用した薬液を捨てたために水が黒く濁り、その名がついたとされるんと。


んで大盛況の吉原遊廓。でも、初期は昼だけ営業。なぜなら客は主に武家だから。夜は門限あるのよ。あと夜は暗いから基本寝るだけの文化だった(灯の油高い)し。そもそも遊廓ってのは、べらぼうに高くつく遊びなわけで、庶民は通えないわけ。半纏着てる人(職人)はお断りルールとかあって。ブルジョワ専用だから。


なので、庶民用の安い遊女屋が次に台頭してくる。質は落ちるが。とりあえずピンからキリまで出揃う。さすが一大産業。衣食住の文化より全然早く大発展を遂げちゃう。間違いない(何が)


ちなみに、キリの方で大ヒットしたのが、銭湯でサービスを行う「湯女(ゆな)風呂」で、風呂場で背中を流してくれた後、二階別室で行為に及ぶシステム。これが大人気となり吉原を凌ぐ盛況ぶりで、逆に暇な吉原遊女らが「バイト湯女」しに来る有様。これはさすがに幕府のお咎めを食らい、ボコスコに取り潰される。


ならば。と言うわけじゃないけど、宿場町でも「飯盛り女」と呼ばれる遊女が登場。もちろん、ただ飯を盛るだけではなく、そうゆうこと付きのサービスであり、江戸を行き来する際に通る、品川・新宿・千住・板橋あたりの宿では、店の表に「宿泊代」「食事代」に続いて「飯盛り代」が書かれていたとか。こちらも大盛況すぎて幕府に怒られ、遊女の人数を制限されるハメに。


けれど、それだけ遊女がたくさんいたってことは、イコール貧乏で可哀想な少女がたくさん売られてきたってことである。そんな背景で遊女になってる女子らに対しての偏見は無く、任期を終えて自由になった元遊女でも、普通に結婚できたらしい(でも大抵が任期中に死んじゃうらしいが)。むしろ、蔑まされたのは元締である楼主の方で、楼主はいくら裕福になろうとも、決して公正なる市民とは認めらなかったと言う。


● 楼主は「忘八(ぼうはち)」と呼ばれ軽蔑されていた。

忘八とは《仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌 の八つの徳目のすべてを失った者の意から》郭 (くるわ) 通いをすること。また、その者。転じて、遊女屋。また、その主人


● 逃亡を図ると厳しい折檻が。。

駆け落ちや逃亡を図った遊女は、見せしめの意味も含めて裸にして、猿轡をして、両手両足を縛って天井から吊るし、竹棒で殴りつけた。


● 死んだ遊女は投げ込み寺にポイ。

遊女は病気になっても暗い部屋に隔離されるだけ。死んだら夜中に墓地の穴に投げ込まれる。三ノ輪の浄閑寺とか、浅草の西方寺とかがそれ。折檻の末に息絶えてしまった他殺死体もあったとか。さすが忘八。サイコパスでなければ務まらない。


そんな調子だから、吉原は遊女による恨みの放火が起きまくりで、全焼沙汰も頻繁。こんな所燃えてしまえー!てね。けど全焼したらしたで、仮営業所で営業するから無問題だったらしい。なんなら仮営業所だといつもより値下がりするから、武士以外の町人がここぞとばかりに遊びに来ちゃって、人気の高級遊女はそれがすんげー嫌だったとか。


やがて1700年代に入ると、町人が金を持つようになり、メイン客が武士から町人に変わってゆく。商売で富を得た新興商人らが、毎晩金をばら撒いては、最高ランクの「大夫(たゆう)」とか「格子」ではなく「散茶」と呼ばれる中堅ランクをたくさんはべらし、ドンチャン騒ぎするのを好んだ。おかげで「大夫」と「格子」は1764年あたりで絶滅。「散茶」が格上げされて「花魁」の称号を奪ってしまう。


高級遊女「大夫」は、芸も教養も身につけていた。だし読み書きできるし『源氏物語』や『伊勢物語』とかも読む。琴も三味線もできた。けど絶滅してしまったが故に、後にそうした芸は遊女ではなく「女芸者」のものとなる。近代に入って遊女が絶滅した後も、芸者だけが残り「吉原芸者」とか「赤坂芸者」とか言うのは、その名残り。


日本で売春禁止法が成立したのは、1956年(昭和31年)のこと。元吉原から実に、340年も経てのことだった。それまでの間、特に江戸時代の町人文化最盛期のころの遊女は、単に性的サービス業のみならず、ファッションリーダーだったり、常に最新の流行を発信する文化の担い手でもあったわけで。元禄文化で花開いた浮世草子や浮世絵では、そうした庶民らの憧れだった遊女達をタレント的に扱い、取り上げたことで、華やかな町人文化を語る上では欠かせない存在になっていたのである。



、、、何だか、やたら遊郭に詳しい人みたくなってしまったが、すべて ↓ こちらの本の受け売りでありんす。興味のある分野は、なぜかスルスル頭に入っていくものでごさりんすねぇ。


一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

こちらは一般社団法人「江戸町人文化芸術研究所」の公式WEBサイト「エドラボ」です。江戸時代に花開いた町人文化と芸術について学び、研究し、保存と承継をミッションに活動しています。