vol.20「尾形光琳」について


はいはいこの絵ね。尾形光琳の『何とか梅図』でしょ。知ってますよそんくらい。琳派とか言う画家の方ですよね。まーでも逆に言うと、そんくらいしか知りませんですな。だってそんくらいしか習ってないし、暗記ものだったし。そんくらいの教え方しかしないんだから、そんくらい以上知る必要も特にないんでしょ、ってなもんですが、江戸文化博士を目指すことにしちゃったので、一応詳しく調べてみっかしゃーねえ。どーせ、たいした話も無いんだろーけど。


と思ったら、いきなり面白かった。


呉服屋のボンボンとして生まれ、遺産がっぽり相続して、40歳くらいまでまともに働きもせす、莫大な財産も湯水のように使い果たし、首が回らなくなったから絵を描いて稼ぐことにしたら、天才だった、って。画家ってストイックな苦節人生送ってるイメージあるせいか、想定外のふざけた人生で思わず笑えた。しかも、それで大成功して後世でもテストに名前出されるくらいの功績残しちゃうとか、なんつー勝ち組。全然苦労してないじゃんww



尾形光琳は1658年(万治元年)京都有数の呉服商「雁金屋(かりがねや)」の次男として誕生。雁金屋は慶長年間には、高台院、淀殿徳川家康徳川秀忠、および同夫人のなど、当代一流の人物を顧客としていたが、光琳のじいちゃんの代には東福門院(徳川秀忠の娘で、後水尾天皇の妻)の用を務めるようになった。

って、むっちゃ一番店やん。ボンボンレベル高すぎw



当時のファッションの先端だった呉服商に生まれた光琳は、当然のようにそこからデザインの影響を大きく受けており、少年時代から能楽、茶道、書道、日中の古典文学などに親しんだこともよく知られている。

親ガチャ大当たりで最高の環境w



雁金屋の経営は、年間5000両以上も発注し最大の得意先だった東福門院の崩御を期に、傾きつつあった。また、米を担保に大名に金子を融資する「大名貸し」を行って、その多くが貸し倒れになったことも雁金屋の経営悪化に拍車をかけた。この頃、生来遊び人であった光琳は遊興三昧の日々を送って、相続した莫大な財産を湯水のように使い果たし、家族から借金するようなありさまであった。

絵に描いたようなダメ次男w 朝ドラかw



そして40歳を目前に、画家として生計を立てていこうと決意。家業の影響で、幼い頃から衣装文様の装飾美に触れてきた尾形光琳は、優れた構図感覚や色彩感覚を発揮。公家の名門「二条綱平(にじょうつなひら)」という強力な後援者も得て、目覚ましい活躍を見せます。特に富裕層に好まれる、装飾的な作品を得意としました。

決意は遅いのに成功は早いw



1704年(宝永元年)47歳になった尾形光琳は、新たな仕事を求めて江戸へ拠点を移しました。尾形光琳の作品を認め、豊かな財力で後援者となった京都銀座トップ中村内蔵助(なかむらくらのすけ)」が、江戸で銀座年寄(ぎんざとしより:銀貨の鋳造機関の役人)に就任したため。中村内蔵助の口利きにより、尾形光琳は大名・豪商に向けた屏風絵などを制作。

コネも強いw



しかし尾形光琳には、大名に支えられる窮屈な江戸の生活は、なじまなかったようで、およそ5年間の滞在を経て京都へ戻り、作品制作を行うための屋敷を新築。ここでの晩年期が、尾形光琳にとって最も充実した時期だったと言われています。この地で歴史に残る傑作を次々と生み出したのち、1716年(正徳6年)に59歳で亡くなりました。

ちょー勝手気ままw しかも勝ち逃げw



なんかもう笑えません? こんな苦労してない偉人、他にいます? ある意味、これはテスト範囲にしたら悪影響あるから学生に教えなくて正解。真面目に努力する気うせるもの。いや〜面白い知識だったけど、知りたくなかった〜。知らない方が純粋に絵を楽しめたのに、知ってしまうと何かムカついて素直に素晴らしいと思えなくなる〜w



● 絵を描いたのは借金返済のため

父の死後、遊び過ぎてお金に困った尾形光琳は、相続した屋敷も手放し、5歳下の弟「尾形乾山(おがたけんざん)」からも借金をしていました。のちに陶芸家として活躍する尾形乾山は、兄とは正反対の勤勉で物静かな性格で、尾形光琳に絵を描くよう助言します。そこで、団扇(うちわ)に絵を描いて売り始めたところ、大人気に。その評判が公家・大商人に届いたことで、尾形光琳の名が一躍知られるようになったのです。

スパッと成功すんなやw



● 中村内蔵助という最強パトロン

中村内蔵助の中村家は、京都銀座(銀貨の鋳造所)の重職を務める名門で、特に綱吉&柳沢吉保&萩原重秀の先見の明トリオによる「金銀改鋳」の恩恵で、破格の富を築いたと言われています。そのお金の消費処に困っていたのか、彼は、文化人箔付け行為として、絵の購入には大変乗り気。そんな折りに、斬新絵師を紹介されれば 「渡りに船」 です。尾形光琳は単なる絵師ではなく、十分遊び経験のある絵師でしたので当然二人は、その方面でも馬が合ったと想像できますが・・・。

豪遊友達かよw ふざけとるのーw



● ちょいと脱線しますが、↓ この記事によると

「元禄の改鋳は、結果的には経済の混乱も発生せず、幕府の収入も増えました。そのうえ、庶民の所得を実質的に上昇させたため、優れたリフレ効果(緩やかなインフレ)を発揮したと考えられています」

って、経済混乱させてないじゃん先見の明トリオ。(2回目以降は混乱したみたいだけど)これは勉強になった!

https://contest.japias.jp/tqj20/200334R/menu2-japan-kaichu.html



● 優れたファッションアドバイザー

あるとき、中村内蔵助の妻が茶会にお呼ばれされ、中村内蔵助は尾形光琳に妻がどのような衣装を着ていくべきか相談します。当時、富豪の妻達が多数参加する茶会は、衣装の豪華さを競う場でもあったのです。そこで尾形光琳は、白と黒だけのシンプルな色使いを提案。このアドバイスに従って出掛けた中村内蔵助の妻は、きらびやかな装いの他の妻達をしのいで絶賛されました。尾形光琳の鋭いセンスと、常識にとらわれない美意識を物語る逸話です。

持ち前センスずりぃw



● 光琳模様と呼ばれる着物が大流行り

光琳風の模様は、上方の裕福な女性を中心に人気を博しました。当時出版された小説・浮世草紙『世間娘容気』にも、美女のおしゃれな様子の描写として「光琳模様に手を籠め」と書かれています。光林模様の流行は遠く離れた江戸にまで及び、光琳の死後も20年ほど続きました。代表的なモチーフだった梅・波・松・菊・千鳥などはそれぞれ「光琳梅」「光琳波」と光琳の名を冠した更に洗練された意匠となりました。これらの模様は、現代でもテキスタイルデザインや和菓子に用いられています。

https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/20/1.html



、、なんかもう色々ズルすぎて、何を聞いても「あっそ良かったね」て感じなので、後は光琳の作品をテキトーに貼っ付けて終わりまーす。はいはい、天才天才。



風神雷神図屏風

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/538828



● おまけマメ知識メモ

1714年、新井白石により銀座役人の処罰が決行され、中村内蔵助は分限を顧みない奢侈のために、屋敷・家財没収のうえ京都追放にされましたとさ

ちょっとスッとしたwww

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

こちらは一般社団法人「江戸町人文化芸術研究所」の公式WEBサイト「エドラボ」です。江戸時代に花開いた町人文化と芸術について学び、研究し、保存と承継をミッションに活動しています。