vol.21「狩野派」について


「琳派」ついでに「狩野派(かのうは)」について調べてみたら、室町時代から歴史あるわ、流派やらあるわ、複雑な家系図まであるわで、こりゃとんでもないものを開いてしまった。。と戦慄し、誰にも気づかれぬよう「そっ閉じ」したくなること、この上無しなれど、江戸幕府の御用達集団とあらば、やはり避けては通れぬ道かと、泣く泣く読み進んでみることに。


さりとて、あまりに情報が多すぎるゆえ、目ぼしい所のコピペ程度に留まらざるを得んこと、いと止むなし。などとカッコ悪い戯言(ざれごと)をカッコつけて言ってみるなり。



● 狩野派(かのうは)とは何か?

狩野派と聞くと、まず金ピカ屏風や障壁画をイメージする人が多いのではないでしょうか。確かに彼らの主な仕事は、御殿や寺院の障壁画を描くことでした。しかしそれだけではなく、狩野派は室町時代から江戸時代末まで、延々と日本美術界に君臨してきました。権力者が代わっても長く御用絵師として続いたのは、彼らが血縁関係で結ばれた集団で、混乱期にも時代を読む優れたリーダーがいたからです。



● 狩野派のはじまりから確立まで

狩野派は、足利幕府の御用絵師に取り立てられた狩野正信(まさのぶ)に始まります。2代目の元信(もとのぶ)は、幅広い層のニーズにこたえるため、工房としての絵のスタイルを確立しました。真・行・草の3様式を定め、弟子たちに学ばせることで、絵を受注するシステムをつくりあげました。さらに中国の水墨画にならった「漢画」様式に、伝統的な日本の「やまと絵」の要素を取り入れていきます。漢画は筆の輪郭線を重視し、色は淡彩。やまと絵は細い輪郭線に、濃く絵の具を塗ります。この狩野派スタイルを徹底させるために用いられたのが手本となる粉本(ふんぽん)」です。



● 「粉本」が400年続く強い組織を完成させた

粉本とは、絵師が制作の参考にするための古画の模写や、写生帖の総称。従来は、このお手本写しのために「狩野派はつまらない」と言われてきましたが、運筆(うんぴつ:筆の使い方)に始まり、長く模写を課す狩野派の教育システムは、絵師の基礎訓練として重要な役割を果たしたのも事実です。絵師にとって、粉本を多く持つことは制作の源になりました。なぜなら、注文があると、粉本を参考にモチーフを組み合わせたり、抜き出したりして絵を完成させることができたからです。また、粉本があるからこそ、多くの弟子を教育することができました。そして、高まる需要にこたえて全国に絵を提供することができたのです。



なんだか徳川家の将軍システムの話を聞いているかのよう。しかし400年とは恐れ入る。現代なら、完全に独占禁止法違反な君臨っぷり。オリンピックと電通並みに癒着しておるな。まるで下請けを装った影の支配者のよう。実はヤツラが幕府を影で操るスパイ組織だった!的なオチがあったら面白いのだが。



狩野正信(かのうまさのぶ)

400年の歴史を歩んだ狩野派の祖である正信。狩野派は、正信が室町幕府第8代将軍である足利義政の御用絵師になったことにより始まりました。正信は中国からもたらされた水墨画を学び、将軍義政や禅寺の注文に応じて、お好みの画家のスタイルで絵を描きあげました

↑ さすが初代、なんでもこなす世渡り上手。

(代表作の『周茂叔愛蓮図』は縦長すぎて掲載に困るので切捨御免。)


● 狩野元信(かのうもとのぶ)『四季花鳥図屏風』重要文化財

正信を継いで、公家や有力な町衆など新しい顧客層を開拓した長男の元信。漢画様式に、やまと絵の手法を取り入れて、両者の融合を図りました。桃山障壁画における狩野派の画風と活躍の基礎を築いたといわれています。正信は、画業だけでなく弟子たちの教育にも力を入れ、後に400年続く巨大な流派の基礎をつくりあげました

↑ 2代目が手堅いと続くよね。



● 狩野永徳(かのうえいとく)『洛中洛外図屏風 上杉本』国宝

狩野派の御曹司として生まれた永徳。幼くして画才を認められ、英才教育を受けたエリート中のエリート絵師。23歳という若さで『洛中洛外図屏風 上杉本』を完成して、卓越した画力を発揮した永徳は、父・松栄(しょうえい)から頭領の座を譲られ、若くして4代目を継ぎました。永徳が名声を得たのは、本人に才能があったことが第一ですが、織田信長や、その後を継いだ豊臣秀吉に取り立てられたことを抜きにして語ることはできません。安土城や、大坂城、聚楽第などの巨大建築を一任され、多忙を極めました。しかし、その忙しさゆえ健康を害し、48歳という若さで急逝してしまったのです。

↑ クセ凄いやつら相手に頑張ったな永徳。(ちなみに『洛中洛外図屏風 上杉本』は、天正2(1574)年、織田信長が狩野永徳に描かせて上杉謙信に贈ったという伝承をもつもの。)



● 狩野山楽(かのうさんらく)『南蛮屏風』重要文化財

山楽は、狩野の血筋ではありません。武門に生まれ、若くして豊臣秀吉に画才を認められて、狩野永徳の門人となった絵師です。1590年、永徳が東福寺法堂(はっとう)天井画の制作途上に倒れると、あとを引き継ぎ、絵を完成させたのが山楽でした。自他ともに永徳の一番弟子と認められたのでしょう。晩年に二条城行幸御殿の障壁画にも携わりますが、中心となるところは「江戸狩野」に独占され、格下の部屋を受け持たされました。以降、山楽一門は京都で活躍し「京狩野」と呼ばれます

↑ 分裂し始めたようだ。



● 狩野探幽(かのうたんゆう)上『松鷹図(二条城二の丸御殿)』下『雪中梅竹遊禽図襖(名古屋城)』

探幽は永徳の孫。幼いころから抜群の才を見せ、13歳で将軍徳川秀忠に拝謁(はいえつ)、その眼前で絵を描き、永徳の再来と賞賛されました。そして京都から江戸に召され、幕府の御用絵師となったのが16歳のとき。相当な早熟ぶりです。長男である探幽が分家となり、父孝信(たかのぶ)のあとは弟尚信(なおのぶ)が、狩野宗家は歳の離れた末弟安信(やすのぶ)が継承、つまり三兄弟すべて御用絵師となって「江戸狩野」250年の礎を築きあげます。探幽は江戸城二条城名古屋城御所などの江戸幕府の大事業に狩野派一門の総師として参加。また大徳寺、妙心寺などの京都の大寺院の障壁画も担当しました。

↑ 名前がカッコイイな探幽って。

狩野派が手がけた京都・二条城「二の丸御殿」

二条城は、徳川家康によって江戸時代に造営されたお城ですが、その二の丸御殿の内部にある1016面もの障壁画を手がけた絵師集団こそ、狩野派一門です。広大な二の丸御殿の部屋に、それぞれの役割に合った障壁画をプロデュースしました。最初の御殿「遠侍(とおざむらい)」から2番目の「式台(しきだい)」公式の対面所である「大広間」までは、金屏風に虎や松が猛々しく表現されています。これは、御殿の主である将軍の権威を、視覚的に示しているのです。幕府に近しい大名との対面に使われていた「黒書院(くろしょいん)」に進むと、そこにはやまと絵の伝統を感じさせる季節の情景が描かれています。松にも優美さが加わり鑑賞的な空間に。四季を描き分け、訪問者をもてなしていたのです。

↑ 確かに大事なお仕事だすわな。



● 久隅守景(くすみもりかげ)『納涼図屏風』国宝

探幽の姪を妻にし、探幽門下四天王の筆頭といわれるほどの実力者でありながら破門されたといわれるのが、久隅守景。それは息子が罪を犯して佐渡へ流され、娘は探幽門下の男と駆け落ち、という身内の不祥事のためとも伝えられます。このように、江戸時代から伝説になるほど反骨のイメージで人気がありましたが、生没年も不詳の謎の絵師です

↑ 破門された奴もおるのか。



● 英一蝶(はなぶさいっちょう)

英一蝶もまた、狩野派から破門されたと伝えられる異端の画家です。なにしろ探幽の弟安信に師事し、まっとうに絵を学んだにもかかわらず、選んだ題材はさまざまな階層の人が生き生きと暮らす江戸の風俗だったのです。

↑ 狩野派と浮世絵文化は水と油か。



● 紆余曲折しながらも江戸絵画史に君臨した狩野一門

江戸時代の狩野派は、狩野家の宗家を中心とした血族集団と、全国にいる多数の門人からなる巨大な画家集団であり、ピラミッド型の組織を形成していた。「奥絵師」と呼ばれる、もっとも格式の高い4家を筆頭に、それに次いで格式の高い「表絵師」が約15家あり、その下には公儀や寺社の画事ではなく、一般町人の需要に応える「町狩野」が位置するというように、明確に格付けがされ、その影響力は日本全国に及んでいた。

この時代の権力者は、封建社会の安定継続を望み、江戸城のような公の場に描かれる絵画は、新奇なものより伝統的な粉本に則って描かれたものが良しとされた。また、大量の障壁画制作をこなすには、弟子一門を率いて集団で制作する必要があり、集団制作を容易にするためにも、絵師個人の個性よりも粉本(絵手本)を学習することが重視された。こうした点から、狩野派の絵画は、個性や新味に乏しいものになっていったことは否めない。

奥絵師は旗本と同格で、将軍への御目見と帯刀が許されたというから、その格式の高さがうかがえる。



ふむふむ。そうした巨大権力とマンネリ慣習があったからこそ、流星の如く現れた尾形光琳の型破りで独特なセンスが際立ったわけであるな。光琳め、つくづく運の強い奴じゃ。菱川師宣もまた然りで、狩野派で基礎を学ぶものの、新しいモチーフを取り入れ、町人相手という新市場開拓とは、ズルいぞ師宣。


そうした意味で、狩野派は偉いと思う。粉本絶対主義であることは、創造性を養うことと相反するが、逆に画才に恵まれない人材でも、等しく運筆の基礎が学習できるわけで。町絵師に集まる商家の使用人でも、絵が上手になる可能性が与えられたのだから、ある意味「寺子屋」の「絵画教育バージョン塾」である。


確かにそれでは新しい風は巻き起こせないが、新図の工夫などを弟子に禁ずることなく任せ、江戸後期には個性派の弟子を輩出しているわけだし、基礎だけ学んで自己流でフリーなビジネス始めたい奴は好きにさせてるし、すごい太っ腹な「名門・絵描き養成所」といったところ。YAMAHA音楽教室みたいなもん?、、違うかw (おしまい)

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

こちらは一般社団法人「江戸町人文化芸術研究所」の公式WEBサイト「エドラボ」です。江戸時代に花開いた町人文化と芸術について学び、研究し、保存と承継をミッションに活動しています。