気づけばもう年の瀬。いやはや、月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人ですなあ〜。。とか知ったかぶってみましたが、正直そんな意味分かってません。「この世はみんな旅人みたいなもんだよね〜」ってことでしょうか。なんとなく分かるようで、安易に理解した気になっちゃダメなやつですよね、これたぶん。かの有名な、松尾芭蕉先生が言ってるんだから、その真髄までも悟らなきゃ恥かく系のトラップなんでしょ? そうやすやすと引っかかりませんぞ!
ってことで、知ったかぶる前に調べます。漫画で。
え? マンガかよって? 何ですか、日本の漫画文化にケンカ売ってんすか。漫画ほど分かりやすいもん無いんだから、漫画があるなら、漫画で学んで何が悪いんすか。いきなり原文で挫折させるのと、漫画で興味持たせるのと、どっちが裾野広げてんだって話っすよ。じきに浮世絵文化と同じように、日本の漫画文化は「手塚派」とか「藤子派」みたく歴史に残るんすからねっ。そうゆー偏見の目で見るの、やめてもらえますっ!?
、、、いきなりヒステリー起こしてしまいました。
けど松尾芭蕉って、有名すぎてリサーチしにくいんですよね。すぐ、一句一句にフォーカスし始めちゃって。句の解説はいいからさ、全貌を教えてくれよ全貌を、と思っても「あ〜、ウチそうゆうのやってないんで〜」と、必ず名句とパック売り状態。だからと言って「トンデモ忍者説」に食い付いてお茶濁すのも、今さらダサいしなぁ。。
はい、面倒臭いので、いきなりもうこのコマを採用します。
そーゆー主旨で旅に出たのね松尾芭蕉、ということで行きましょう。なんか、そうっぽいし。あながち間違ってもいないでしょう。要するに、俳諧の道を追究するべく旅をしたと。かつての俳聖たちが訪れ、見た景色を自分もこの目で見てみたいと。
ほらね。だいたいそんな主旨でしょう? 大きく間違ってなかったのは良かったのだけど、となると、ここでひとつ一句詠みたくなるわけで。
旅がてら 句詠み名残す セレブかな
(現代語訳:「お金もないのに、行ってみたかった名所観光するワガママ熟年旅行ついでに、行く先々でかるく一句詠んでみては「おお〜」ってもてはやされちゃう大先生ならではの、頼めば宿もタダで借りれちゃう、旅行資金もこぞって援助してもらえちゃう、そんな生活、そんな終活できる余裕が、まさにヘンリー王子ばりのセレブリティであるよなぁ」)
なんとも大層なご身分なこって。やってることが自由人すぎませんかね? 基本的に、自分の夢を叶えること第一ですやん。優雅な自分探しOLと大差ないわけで。その「ついで日記」みたいなもんじゃないすか『奥の細道』。こんなん、今流行りの俳諧の大先生だったからこそ、できる特権の旅ですやん。商人世界で生きとる我らからすると、何かムカつくんですけど!?
行きたい所行って。そこで一句詠んで。行く先々で人の恩にあやかり、金もないのに優遇されたあげく「弟子にしてください!」と、もてはやされて。。。ふざけんなっつーの! そんなに旅が好きなら、殺すか殺されるかの戦国時代にタイムトリップさせたろかいっ。「つわものどもが〜!(こっち攻めて来る〜!)」てな感じで句なんか詠んでる場合ちゃいまっせ。
はっ、またヒステリーが! 。、、失礼しました。
やはり漫画から入ったからでしょうか、なんだかリスペクトを欠いた感想になってしまいました。。松尾芭蕉の句、自体は好きですよ。「五月雨を 集めて早し 最上川」とか「夏草や 兵どもが 夢の跡」「閑さや 岩に染み入る 蝉の声」とか、情緒を感じますものね。ただ、、ただそれが「名所観光ツアーの一環」で詠まれた句だと思うと、、なんかねえ。
それはさて置き、腐っ(され)ても松尾芭蕉。やはり偉人は偉人。いま一瞬「なんかねえ」でこの記事終わりにしかけましたが、さすがにそな簡単に片付けるわけにも参りますまい。とりあえず江戸での足跡だけ辿っときましょうかね。
● 江戸に来たのは1675頃。最初に住んだ場所には諸説あり、後に終生の援助者となった魚問屋・杉山杉風の日本橋小田原町宅に入ったとか。
● 1677年、水戸藩邸の防火用水に神田川を分水する工事に携わった事が知られる。労働や技術者などではなく、人足の帳簿づけのような仕事だった。これは、点取俳諧に手を出さないため、経済的に貧窮していたことや、当局から無職だと眼をつけられる事を嫌ったものと考えられる。この期間、芭蕉は現在の文京区に住み、そこは関口芭蕉庵として芭蕉堂や、瓢箪池が整備されている。
● 1680年、芭蕉は深川に居を移し、のちにその深川の居の名を「芭蕉庵」へ変えた。しかし1682年12月28日、天和の大火(いわゆる八百屋お七の火事)で庵を焼失。翌年5月には、江戸に戻り、冬には芭蕉庵は再建されたが、この出来事は芭蕉に、隠棲しながら棲家を持つ事の儚さを知らしめた。
↑ おおっ!? 人気者の八百屋お七がまた登場! 松尾芭蕉にも影響与えてたとは、やるなお七 ww( ※「お七火事」が、天和の大火なのか、その後のボヤなのか、よく分からん)
● 1694年5月、芭蕉は寿貞尼の息子である次郎兵衛を連れて江戸を発ち、 9月に奈良、そして生駒暗峠を経て、大坂へ赴いた。大坂行きの目的は、門人の之道と、珍碩の二人が不仲となり、その間を取り持つためだった。当初は、若い珍碩の家に留まり諭したが、彼は受け入れず失踪してしまった。この心労が健康に障ったとも言われ、体調を崩した芭蕉は、之道の家に移ったものの10日夜に発熱と頭痛を訴えた。20日には回復して俳席にも現れたが、29日夜に下痢が酷くなって伏し、容態は悪化の一途を辿った。10月5日に南御堂の門前、南久太郎町6丁目の花屋仁左衛門の貸座敷に移り、門人たちの看病を受けた。8日「病中吟」と称して
旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る
を詠んだ。この句が事実上、最後の俳諧となる。10日には遺書を書いた。そして12日申の刻(午後4時頃)、芭蕉は息を引き取った。享年50。14日の葬儀には、焼香に駆けつけた門人は80名、300余名が会葬に来たという。
趣味に生きれてホント楽しそうな人生で何より。あーあ、なんか調べたせいで見る目変わっちゃったなー。好き勝手やったカルト教祖の爺様にしか見えなくなっちゃっいました。この感覚は私だけなのでしょうかね? そのへんの人つかまえて聞いてみたい。
「松尾芭蕉て知ってますか?」
「知ってますよ(バカにしとんのか)」
「何した人か知ってますか?」
「旅して俳句つくった人でしょ」
「なんでそうしたか知ってますか?」
「そりゃ、俳句つくりたかったから、、?」
「他に何した人か知ってますか?」
「他に? いえ、、特に」
「そう! 特に他はなんもしてないんですよ」
「え? 、、そうなんですか?」
「はい、仕事もぜんぜんしてません」
「そしたら、どうやって食べてくんですか?」
「弟子とかに衣食住ぜんぶ世話してもらってです」
「、、ニートですね〜」
「旅の資金も、ぜんぶ人から施されてます」
「、、優雅な話ですね〜」
「弟子らには、旅は危ないからやめろと止められました」
「なのに、なんで行ったんですか?」
「行きたかったからです」
「、、わがままですね〜」
「だって! 行きたかったんだから仕方なくない!? 死ぬ前にピラミッドだって、マチュピチュだって、モンサンミッシェルだって、この目で見ておきたいじゃん!? サポートしてくれる人がいるなら頼ったっていーじゃん! 過酷な旅は誰だって嫌じゃん! 行って句を詠むのが目的なんだし、苦労は少なければ少ないほーがいーし! つかアンタ、さっきから煩くないっ??」
「オメーが質問して来たんだろっ!」
まあ、アーティストってこんな生き物なのでしょう。。おそらく自分も俳諧を嗜み、芭蕉先生の一句のすごさに痺れることが出来て初めて、ようやくその偉大さが理解できるのかもしれませんが、私はまだまだ修行が足らぬようで。。少年老やすく学なり難いっす。私もせめて10年後くらいには「行きかふ年もまた旅人なり」の真髄が理解できることを願いつつ。
ではでは、よいお年を〜。
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