vol.39『平賀源内』を読んで


平賀源内と言えば、なんとなく「エレキテル」と「土用の丑の日」だけは、うろ覚えながら記憶にある。でも、それしか知らない。ので、読んでみた。ひとまずこの本の冒頭の文章を一部抜粋しますと ↓


「非常の人」源内を表すにこれほどふさわしい呼び名はない。博物学者であり、鉱山技師であり、電気学者、化学者、起業家、イベントプランナー、技術コンサルタントであり、日本最初の西洋画家であり、ベストセラー小説『風流志道軒伝』や、人気戯作『神霊矢口渡』の作家であり「本日丑の日」で知られる日本最初のコピーライターであり、CMソングの作曲家でもあった。いずれの分野でも先駆的な業績を残し、最後は殺人者として獄中死する。凡人には目がくらむような、華々しく、常ならざる人生である。


とあり、この人は何者なのか余計に分からなくなる。結局どの肩書きの人なの?と。どれもが正解であり、どれもが不正解みたいな。んで、最後は殺人者って肩書きで終わるあたりも、オチが斜め上すぎて観客も苦笑いしかできん。何なんだコイツ。興味が湧いたので、ちょっとその人生を追ってみよう。




● 天狗小僧と呼ばれた少年時代

幼い頃から利発だった源内は、様々なカラクリを工夫して家人や村人らを驚かせた。中でも11歳の時に作った「御神酒天神(おみきてんじん)」なる掛け軸の話が有名。天神の姿が描かれた掛け軸の前に御神酒を供えると、それを見て源内少年が仕掛けの糸を引っ張る。すると、裏側の赤い紙が薄い紙に描かれた天神の顔の部分に来て、その顔がみるみる赤く染まってゆくというものである。で、付いたアダ名が天狗小僧。


● 本草学に傾倒し植物博士キャラに

本草学とは、薬になる植物や鉱物を研究する学問。本草学が発展するきっかけは、8th吉宗による蘭学の一部解禁のおかげである。珍しい事物に触れる機会の多い本草学は、好奇心旺盛な源内にはうってつけだった。22歳になった源内は、高松藩の薬草園を管理する御薬坊主の下役として登用された。


● 念願の長崎遊学へGOする

蘭学解禁により長崎は、町中に異文化交流による熱気があふれていた。源内はそこで本草学、オランダ語、医学、油絵、自然哲学など、西洋の最新知識を乾いた砂のように吸収。それから日本の学問や産業のあり方を深く考えるようになったことは、その後の言動からも証明される。


● 夢のために家督を放棄する漢気

培った知識を活かして江戸で活躍したい。できれば士官して出世も遂げたい。そんな野心を胸に、源内は病身を理由に高松藩に辞職願いを出した。また、妹に婿養子を迎えさせ、平賀家を継がせた。己の志のため俸禄と家督のふたつを捨てたのである。源内27歳のことだった。


● 夢がモリモリの江戸進出

江戸へ来た源内は、吉宗から朝鮮人参の国産化を任されていた「田村元雄」に弟子入り。また、幕府の学問所である「林家」にも入門。入門に伴い、5th綱吉が創建した湯島聖堂に寄宿するようになった。ちなみに、この聖堂がのちに東京大学、お茶の水大学、筑波大学といった名門大学の前身となってゆく。


● 東都薬品会を大成功させる

田村の門に入るや、源内は持ち前の利発さでめきめき頭角を表し、生来のアイデアマンの本領を発揮し始める。そのひとつが薬品・物産の展示・交換会である「東都薬品会」の開催だった。全国津々浦々から物産が集まり、参加者も多く、得た交遊も大きかった。とりわけ江戸の蘭学サークルとのつながりは、のちの活動の大きな助けとなる。中でも杉田玄白とは、生涯にわたる友人となった。


● ありがた迷惑な再士官

江戸での活躍が高松藩主にも伝わり、再度召し抱えられることになる源内。江戸の高松藩邸にあった薬草園に出入りしたり、紀伊半島の海の貝採集を命じられ『紀伊産物志』をまとめて提出したり、頑張ったので薬坊主格に任ぜられ、足軽以下の身分から一人前の藩士へと、破格の出世を成し遂げる。


● また退職願を出す

でも、源内は嬉しくなかった。高松藩の薬坊主格程度で小さくまとまりたくない。異能の人に地方は狭すぎる。源内は決心して再び辞職願いを出す。しぶしぶ聞き入れられたが「今後、他の藩への士官とか一切ダメだからね」という釘を刺される。これが後年になるに従い、源内の生活を苦しめる事になる。


⚫︎ 日本初の博覧会

源内はかねがね、高価な輸入品により国内の富が国外へ流出することを憂い、それらを安い国産品で代用できないかと考えていた。そのためにはたくさんの物産を集めねばならない。そこで源内は引き札と言うチラシを全国に配布する。企画・広告プランナー、コピーライターとしての才能の開花であった。


⚫︎ 物品取次所の開設

さらに出品者の負担を減らすため全国各地に取次所を開設。しかも運賃は主催者持ちの着払い。取次所に集まった品は江戸、京都、大阪に設けられた受取所に送られ、そこから源内の元に集まる仕組み。これがウケて従来の倍の品が集まり、のちに博覧会の創始者と呼ばれることに。


⚫︎ 芒硝(ぼうしょう)の製造に成功

芒硝とは、硫酸ナトリウムまたは硫酸マグネシウムのこと。当時は漢方の下剤・利尿剤として重用されていた。源内は博覧会でこの原料が伊豆にあることを発見し「伊豆芒硝御用」に任命され、芒硝の製造に成功。ただ産業として成り立たせるまでには至らず、すぐ他のことに興味を移した。


⚫︎ 火浣布(ひかんぷ)の発見

火浣布とは『竹取物語』で火にくべても燃えない布として話題に上るやつで、石綿(アスベスト)のこと。源内はこれを秩父の山奥で発見し、何とか苦労して小さな火浣布を織り上げる。オランダ人からもすげえと褒められ中国から発注も受けるが、大きい布にする技術が足らず断念。また次のことに興味を移す。


⚫︎ 廃坑金山の復活に取り組む

出水により廃坑となっていた中津川の金山を、田沼意次の支援のもと、水抜きして復活させるプロジェクトを立ち上げ、見事水抜きを成し遂げる。が、いざ採掘を再開してみるも肝心の採掘量が期待したほどでなく、投資額に見合わないので休坑となる。


⚫︎ 金山がダメならと鉄山を

と、発見した未開拓の鉄山を開坑し、製鉄の技術者を動員するも、材質と技法の相性が悪くて上手くゆかず閉鎖。大量の資金と人員を投入したにも関わらず金山事業に続いて鉄山事業も失敗した源内は「古今の大山師(詐欺師)」と言われてしまう。


⚫︎ エレキテルをなんとなくで復元する

エレキテルとはオランダ製の静電気発生装置。壊れていたものを源内が根気よく調べて修復に成功。見せ物小屋で客の手にビリッと感電させて驚かすアトラクションが人気となり有名に。仕組みの分かった源内はエレキテルを15台ほど作って高貴な人に売り、懐を潤した。


⚫︎ 他にもいろいろ製作

タルモメイトルと呼ばれる寒暖計や、万歩計、方角を測る磁針機(方位磁石)、水平を測る平線儀など、いろいろ製作。他にも陶磁器の源内焼や、毛織物の羅紗、皮革工芸品の金唐革なども国産化に成功まではするものの、産業としては定着せず、お金に困る。まさに器用貧乏な源内先生。


⚫︎ お金がないので作家活動

しかたなく(かどうかは不明だが)浄瑠璃の脚本を手掛けることに。また「談義本(だんぎぼん)」「洒落本(しゃれぼん)」と呼ばれた滑稽な通俗小説「戯作」の創始者にも。教訓を説く談義本の様式を守りつつ、独特のユーモアと社会への皮肉を込めた作風が、当時の人々の心をつかんだとか。中でも『風流志道軒伝』は『ガリバー旅行記』に並ぶSFの先駆けと評されている。


⚫︎「源内ばり」と呼ばれた独特の文体

源内のリズミカルで軽妙痛快な文体は、後世の文芸に多大な影響を残した。滑稽本の大家式亭三馬は源内の作風に私淑し、その継承者を自任。彼の代表作『浮世床』も源内の存在なしには考えられなかっただろう。その影響は三馬と双璧をなす『東海道中膝栗毛』の十返舎一九にも及んでいる。こうした事実をもって源内を戯作の開祖とする評価もある


⚫︎ コピーライターのバイトもする

土用の丑の日にウナギを食べる風習は、源内が発祥との説がある。また、日本初のCMソングとされる歯磨き粉『漱石膏』の作詞作曲や、音羽屋多吉の『清水餅』の広告文句を手がけてそれぞれ報酬を受けている。特に清水餅のコピーは鮮やかに韻を踏んでおり、ラッパーの走りではないかという評すらある


⚫︎ 日本初の西洋画家になる

オランダ書の図版や挿絵を参考に、遠近法や陰影法などの技法を学び『西洋婦人図』を完成させる。また、友人の鈴木春信と共に「絵暦交換会」を開催し、のちに錦絵や浮世絵の一大転換期となるきっかけを与えた。


⚫︎ そして、気づけば江戸の有名人に

40代半ばに達した源内は江戸でも1,2を争う切れ者の本草学者。西に東にと飛び回る凄腕の山師。次々にベストセラーを出す人気戯作者、最新の西洋絵画を伝える気鋭の絵師、陶器から羅紗までを扱う産業技術家と、ハードルの低くなった昨今のマルチタレントなど吹っ飛ぶような大活躍だった。

自他ともに認める天才で、自信家で、やけに鼻っ柱が強く、すぐに大風呂敷を広げる。『根南志具佐』『風流志道軒伝』などの戯作では、聖職者、医者から学者、庶民の男女まで手当たり次第にこき下ろす。鼻持ちならない野郎のはずだが、その割に源内は人には嫌われなかった。人は刺したが、人に刺されることはなかったのである。

むしろ反対に、若い頃からその才気煥発と洒脱な生き方を愛され、江戸にも郷里にも、源内ファンクラブとも呼ぶべき支援者集団が形成されていった。不思議な人徳というべきだろう。学者、文人との交わりも多彩だった。杉田玄白のほか、中川淳庵、鈴木春信、小田野直武、司馬江漢、平秩東作、南条山人、大田南畝、千賀道隆・道有親子、さらには田沼意次まで。まさに華麗なる人脈である。彼らはこの鬼才が次に何をするか、その天衣無縫の先走りっぷりを、ハラハラワクワクしながら見守っていたのではあるまいか。

まさしく源内は、田沼時代における文化的ヒーローだったのである。


⚫︎ ところが殺人事件を起こしてしまう

ある日、源内は自ら奉行所に出頭すると、驚くべき申し立てを行った。酒の上の過ちから人を斬り殺したというのである。この頃の源内は、江戸で知らない者がいないほどの有名人。その名士が引き起こした殺人事件は、江戸市中を騒然とさせ、一大スキャンダルに発展した。今なら連日ワイドショーを賑わす大ニュースになっただろう。

詳細は不明であるが一説によれば、大名屋敷の修理を請け負った際、酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして口論となり、激情して大工の棟梁2人を殺傷してしまった、と言うもの。自首した源内は、伝馬町に投獄され、1ヶ月後には牢内で患った破傷風で病死したとされているが、後悔と自責から絶食して餓死したという説もあって、定まっていない。(中には、獄医の手によって密かに牢から逃がされ、田沼意次の庇護のもと、名前を隠して相良城下に居を構え、天寿をまっとうしたという生存説まである)

いずれにしても、鬼面人を驚かす非常の人は、最後まで世間を驚かせ続けて世を去ったのだった。



って多い!! ⚫︎が多いわっ!

要素多くてまとめるの大変だったよ源内先生。いろいろ手を広げすぎだよ〜。非凡の天才だったのは分かったけど、挫折多くないすか? 諦めが早いゆーか、飽きっぽいゆーか、も少し落ち着いて欲しかったですわ〜。え、もう次行っちゃうの!?みたいな。日帰り弾丸バスツアーかと。ひとつひとつの項目にコメント付ける暇すらなかったですよ。


ま〜、生まれるのが早すぎたんすかね。時代によっては偉大な功績も残せたでしょうに。「先走るって言葉が人生そのものにハマる人って、なかなかいないですよ。結果ホントに「あいつ何やいろいろスゴイことやってたけど結局よう分からん奴やったでー」て評価になってて、切な笑えますw いまだに誰からも謎がられてるじゃないすかww


けど、何だろうこの愛くるしい好感は。亡くなった後でも人に好かれる、惹きつける、そこが源内先生の真の魅力なんでしょうね。リズミカルにテンポ良く、人生そのものが「源内ばり」の利いた戯作で、楽しく勉強させていただきましたw

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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