vol.38「田沼意次」について(前編)


さあ、いよいよ悪名高き「田沼意次さん」の出番でござんす。誰しも学校の授業では「賄賂」のイメージしか残らない内容だったかと思います。あと覚えているのは「〜元の濁りの田沼恋しき〜」のフレーズのみ。ま、こんなもんでしょう。


え、もっと知ってる? いやいや嘘でしょ。私は知らなかったですよ。だって習ってないですもん。 え、習ってる? ホントに? え〜マジすか、じゃあ私の記憶に他に何にも残ってないのは、なあぜなあぜ?(←可愛く)


はい、アホは置いときまして。そんな時は本を読みます。私の脳内の田沼ファイルは「賄賂の人」と書かれたポストイットが一枚貼ってあっただけなので、読めば読むだけどんどん入ります。まさに鵜呑みにするとはこのことです。では後で吐いてすべて忘れてしまう前に、飲み込んだものをメモっておきましょうか。




● 紀州出身の天才児

8th吉宗が、紀州藩時代の改革チーム200人を江戸に呼び寄せる。その中のひとりが意次のパパである田沼意行(おきゆき)で。和歌山支社長の秘書室勤務だったのが、東京本社の社長秘書になったようなもの。やがて、パパの能力を超える聡明さを見せつける息子の意次。なんせ一度聞いた名前や言葉は、その瞬間に全部記憶しちゃうのだから、すごい天才児っぷり。その利発さを買われて、9th家重の小姓に取り立てられる。



● 吉宗にも家重にも気に入られる

9th家重の小姓の中でもダントツに頭のキレる意次は「家重の言葉を聞き分ける唯一の男」なる異名を持つ「大岡忠光パイセン」と共に家重に気に入られ、メキメキ昇格。大御所として隠居した8th吉宗ジジも、意次の才覚を認め「息子と孫を頼むぞ意次」と、後を託してお隠れあそばす。



● さらに全方位からも好かれちゃう

そんなトントン拍子の大出世&大贔屓をされたら普通、周囲から嫌われたりするものであるが、意次は偉そうに振る舞わず、老中や役人らに対しても愛想良くへりくだった応対をするので「アイツ良く分かってるじゃんか」と可愛がられます。そして、何と言っても大奥からの支持も取り付けたのがデカかった。それにまつわる面白い逸話がこちら ↓


実は田沼意次は、江戸城きってのイケメンとして大奥でも話題になっていました。男子禁制の大奥では当時、節分の日に行われる行事だけは男性1名が参加できることになっていました。なぜかというと、それは「鬼役」であり、大奥の女性たちからしこたま豆をぶつけられた後、恵方巻きのように布団などで簀巻きにされて何度も胴上げをされたあげく、大奥から放り出されるという、無礼講の中でのいわば悪者の役を演じるわけです。


それはいつも、その年の年男である老年の男性が務めるのが普通だったのですが、ある年、幕府の中にちょうどピッタリ年男である適任者がいませんでした。その日に手が空けられる幕府内の人間で年男というと、もう36歳の田沼意次ぐらいしかいないということになり、しかたなく田沼意次が節分の年男を務めることになりました。


ところが、田沼意次が大奥の節分式に登場するや、その凛とした美貌や着こなしに大奥の女性たちは息を呑み、ただただ押し黙ってしまったのです。いつもならば女性たちは大はしゃぎでジジイを締め上げて担ぎ上げて騒ぎまくるのに、この年だけはシーンと静まりかえって田沼意次の鑑賞会のようになってしまいました。


このことがきっかけで大奥の女性の間では 「田沼意次がイケメンだというのは、本当だったのね」 ということが確認されます。こうして、田沼意次ファンが女性たちの間で増え、大奥全体も田沼意次を支持するようになったのです。


↑ イケメン無双が腹立つけど、持ってるね〜意次。

あと、こんなのもござる ↓


田沼意次が男性からも女性からも人気が高かった理由は、外見だけでなく、恩義を決して忘れずに、必ず返礼するという気配りでした。田沼意次が小姓頭になった時に、仕事に慣れず失敗も多かった時に、先輩にあたる織田肥後守という人物が何かとフォローをしてくれました。田沼意次はその織田肥後守の恩義に深く感謝し、ずっと忘れませんでした。そのため、側用取次の役職に出世した際に、将軍や老中から御家人を統率できる能力のある人を尋ねられた時、進んで織田肥後守のことを勧め回ったのです。おかげで、織田肥後守は御家人を統括する小普請支配(こぶしんしはい)という要職に出世します。


「意次よ、俺のような人間が小普請支配になれるなんて、夢のようだ。本当にありがとう」織田肥後守は田沼意次に面会して涙を流し、畳に額をこすりつけるほど深く礼を述べたのですが、田沼意次はあっさりと言うのです。「小普請支配ぐらいの地位で満足するとは、情けない。私は今のこの側用取次の地位に甘んじず、これからは大名、いずれは老中になりますよ。小さくまとまらず、もっと高みを目指しませんか


田沼意次の自信に満ちたその発言を聞いて、織田肥後守はきっと田沼意次はこのまま出世し続け、本当に老中まで登り詰めるだろうと確信し、今後も彼の後ろ盾となり盛り立てようと決心するのです。そのように、受けた恩をきちんと返す田沼意次に、周囲の人たちは大きな信頼を寄せるようになります。


↑ 男にもモテるのは、カックイイね〜意次。

この段階で既に、私の知ってる賄賂おじさんイメージと違います。とりあえず有能なイケメンだったなんて初耳である。そんなの聞いてないしwikiにだって書いてない。そーゆー「人物像」がないと生徒は覚えにくいんですけど。ただでさえ嫌々ながら勉強してんだから、どんなキャラかイメージも沸かない人物について覚えろったって無理っすよ。たのんますよ先生〜、つっても教える方もよく分かってないんでしょ。それで良いのか日本の教育?




⚫︎ 郡上一揆の解決でさらに大出世


「郡上一揆」を簡単に言うと『うちら郡上藩の農民でやんすが、最近うちの藩が年貢米の取り方を「定免法」と「検見法」とで都合よく使い分けて、豊作だろうが不作だろうがガッツリ年貢課してくるんで、みんなで文句言ったら「幕府の命令だし」とか明らかに嘘ついてきてモメまくってるんで、こうして目安箱で直訴してみやした』との訴えから、幕府内と郡上藩の間にはびこる悪い輩を一斉処分した話である。


こじれにこじれてた郡上一揆を、誰もが唸る形で見事解決した意次は「もっと高い身分の仕事してほしいから」と言われ、なんと相良藩1万石の大名に昇格。すると意次は早速その相良藩で、年貢米に頼らず貨幣経済重視で藩の財政を賄う実験をスタート。この実験過程の中で、かの有名なマルチタレント「平賀源内」と出会い、お互い協力関係を結ぶことに。(源内先生のマルチ活躍記は、また別記事にてご紹介いたす)




⚫︎ 10th家治も意次を信頼しまくり


そして、意次さんは「株札」なる発明をする。これは、株仲間の一員であることを認める株札を発行し「株仲間だけでその業種を独占してガバガバ儲けて良いけれど、ガバガバ納税してくれや」というシステム。商人らは独占したいから株札に群がる。独占だからその業種の流通量が分かりやすく、いくら課税すべきかも一目瞭然。これにより、初めて米ではなく「貨幣を税として徴収する=税金」という発想を世に生み出したのである。


しかも、ひとつの組合から多額の税を取るでなく、株仲間や商売の許可をどんどん出して数で勝負。お互いwin-winの関係をたくさん築くことで、物価の安定も税収入もゴッソリ手に入れた。


その他にも、①「明和五匁銀(めいわごもんめぎん)」という銀貨を鋳造し、金貨と銀貨への交換レートを公式に定めて、揺れ動く物価の市場相場を安定させたり、②より貨幣経済が広まることを見越して「銭座」を作って庶民にも浸透させたり、③ 「真鍮四文銭(しんちゅうよんもんせん)」を作って銅貨の中国流出を食い止めたり、と、様々な経済政策を打ち立ててゆきます。


「こんなんやれるのは意次ただひとり!意次しか勝たん!」ってことで10th家治も意次LOVE。2万石の側用人に昇格させ「相良に城建てて良いよ」って許可し「意次が城建てるから、みんなも金出してあげた方が良いんじゃない?」と言うもんだから、今最も勢いのある意次どのに恩を売っとこう、と諸藩の大名らから資金協力が集まる集まる。




⚫︎ とうとう老中にまで登り詰めちゃう


幕府の収入を増やすとなると、農民から年貢を搾り取ることしか浮かばない家老たちの多かったこの時代。意次は農作物の専売に着眼し、平賀源内の協力のもとで「朝鮮人参」と「竜脳(りゅうのう)」の国産化に成功。それまで輸入に頼っていた高級薬を幕府が専売することで、新たな収入源を増やしつつ貿易赤字を減らす一石二鳥をやり遂げる。


また、古株老中らが、享保の改革の例にならい再び「質素倹約」を掲げて経済を冷え込ます大失敗をしたのち、お手上げになって意次の意見を尋ねたところ、意次は「南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)」なる新貨幣の市場投入を提案。これと株札増刷との合わせ技で、景気はすぐに回復。間接税により幕府もホクホク


それら幕府財政を潤わす功績が認められ、意次は3万石に格上げされ、とうとう老中に抜擢。紀州藩の下級武士から老中に進化するというのは、アルバイト生から這い上がって取締役になるようなもの。ドラマにしたら絶対に面白いスーパーサクセスストーリーである。ある意味、豊臣秀吉よりも難しい大出世を成し遂げてる気がするのだが。


ともあれ、かくして田沼時代が到来し、好景気に湧く江戸、いや日本。老中になってからも意次は日本をもっと強くするために先見の明を発揮し、更なる革新の準備を進めてゆく。だが、同時に意次の追い落としを虎視眈々と狙う陰謀の影が、じわじわと迫りつつあるのであった。。




て、めちゃくちゃ面白い物語なのに、なぜこんなにも知られていないかと言うと、幕府の記録から当時の政治に関する資料のすべてが跡形もなく消されているからだとか。その後の政権が、意次の悪名のみを語り続け、歴史家たちもまるでそれが事実のように田沼は悪徳老中だったと書き続けてきたらしい。けれども近年、国内外に残る他の資料を繋ぎ合わせ解析してゆくうち、ようやく真実が見えてきた。


浮かび上がったのは、田沼意次の失脚は壮大な幕府内クーデターであったこと。そしてその勝者らによって田沼意次のイメージは操作され、悪徳老中のレッテルを貼られて、真の功績も歴史の闇に葬り去られていたのだ(!)


ってことで、後編はその陰謀を暴いてやりましょうぞ。しかし、それにしても顔がイケメンだったことまで歴史から消し去るとは、消す側も徹底しておるな。敵は手強そうだ。油断しておると、このブログ全部消去させられるやもしれぬぞ。皆のもの心してかかれっ!


あ、私ひとりでした。。

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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