vol.41『浅間山大噴火』を読んで


この「田沼時代」について、我々に与えられた歴史教育は乏しすぎるのではないだろうか? 


だいたい8th吉宗の後から、次はペリー来航あたりまで記憶に残ってない。その途中にあるのは「〇〇の改革」「〇〇の改革」といった暗記ゾーンだ。それゆえ、きっと平和だったから特にニュースもなかったのかな、と思っていたわけだが、ちょっと調べてみたらトンデモナイ。その後の日本を、いや世界を左右するターニングポイントをめぐる、凄まじい運命と運命のせめぎ合いの時代ではないか


ここを解説しない歴史教育とは、一体何なのだ? まあ、歴史に目を向けすぎるとナショナリズムに通じちゃうから、かつて帝国主義やっちゃった日本としては「歴史教育は主に戦国時代までを主軸として、諸外国と関わり始めたあたりからはサラッとにしましょね〜」的な力が働いたとしても、大目に見よう。けれども、この時代の異常気象のことは政治と関係なしに地球規模の話なのだから、もう少しちゃんと触れてくれても良かったんじゃないか? と思うのである。


だって「浅間山の噴火」と「アイスランドのラキ山噴火」とがコラボしたからフランスで「パンが無いならお菓子を食べれば良いじゃない」からの「ナポレオン皇帝誕生」にまで繋がってるとか、そんなん知ってた人います? この日本史と世界史をリンクして教えてくれた先生いました? もし、いた場合あなたはツイてます。それはすごい良い先生です。日本の教師の鏡ですわ。


むしろ逆に言うと、浅間山が噴火を我慢してれば、マリーさんはギロチンで首チョンパされずに済んだかもしれないわけで。そしたらナポレオンが下級軍人のまま終わってて、イギリスもまだまだのんびりやってたかもで。そしたらペリー来航も遅れたかもで。だいたい田沼意次が失脚せずに、日本が開国を100年繰り上げて最強近代国家になってたかもなわけで。。


歴史にもしもはタブーと言いますが、うう、でも、それでも、、浅間山!テメーのせいで世界が狂ったじゃねーかよっ!とりあえずオッキーとマリーには謝れやっ!


と、そんなストレスが溜まって仕方ありませんが、グッと堪えてまとめを記しましょう。ここが歴史の勉強の辛いところですね。「知らない方が幸せだったかもと時々悩みます」( ←「時々サボりたくなる」をカッコ良く変換してみました)




● 不気味な暖冬

1783正月、東北は例年になく暖かだった。真冬だと言うのに八戸では雪も降らず、津軽では来るはずのない鯨が打ち上げられた。冬暖かいほど夏寒く、凶作になると言われている。農夫らは不吉な予感を感じていた。既に、前年1782はひどい凶作だった。不作の年ほど年貢の取り立ては厳しくなる。藩が財政を賄ってゆくためには、最低限の米がどうしても必要だからだ。そのため、不作の年に備えて備蓄していた貯米にも、藩は手をつけていた



● 火を噴くラキ山

アイスランドでもその年の冬は暖かだった。6/8朝9時ごろ、巨大な轟音と共にラキ山が火を噴いた。赤く焼けた石が飛び、黒ずんだ煙があたりを夜に変えた。溶岩が流れはじめ、氷河を溶かし、下流の村々を洪水が飲み込んだ。溶岩の流出は、ラキ山から南へ80キロ、扇状に広がった幅は20キロにも達し、歴史時代に入って人類が地球上のどこでも見たことのない、おびただしい量の溶岩の噴出であった。逃げ場を失って焼死した者は220人、洪水で死んだ者は21人。しかし、この犠牲者の数は、これから起きようとしている悲劇に比べたら、ほんの序章にすぎなかった。



● 流れゆく青い霧

上空高く舞い上がった火山灰は、次第に風に流されヨーロッパへ向かった。噴火翌日にはデンマークやノルウェーで軽石と、嫌な匂いのする塩辛い雨が降った。やがてイギリス、オランダ、ドイツにも灰が落ち始める。スコットランド北部では灰と死の雨とで、農作物は壊滅的な打撃を受けた。硫黄臭のある青色をした霧がフランス、イタリアにまで広がり、太陽の光を弱めていった。この青い霧は、噴火から3週間後には北半球をすっぽり包み込み、さらに高く上って成層圏へ入って行こうとしていた。その結果、北半球に何が起こる事になるか、誰も気づいていなかった。



● 浅間山の大噴火

6/25浅間山が爆発。ラキ山とは異なった火山帯に属しており、連動性はない。同じ時期に噴火したのは偶然であり、いわば自然のいたずらである。だが、いたずらにしては、あまりに壮大だった。浅間山は休むことなく連日火を吐き、山麓に落ちた火山弾はあたり一面を火の海にした。空は黒煙に覆われて日中でも暗闇になった。8/4には、ついに火口から溶岩がほとばしり出た。火砕流の発生である。これにより六里ヶ原一帯はたちまち火の湖と化した。翌8/5にはさらに強烈な火砕流が発生し、毎秒150メートルほどの猛スピードで鎌原村を飲み込んだ。597人の村人のうち、466人が一瞬で死んだ



● 洪水という二次被害

自然は時に人知を超えて、信じられないことをやってのける。火砕流が吾妻川に堰を作って流れをせき止め、逆水によって上流に洪水をもたらした。その後、その堰が上流に貯まった水に耐えきれなくなって切れ、また洪水となって次は下流の村々に襲いかかる。起きるはずのない洪水に不意を襲われて、多くの人々が水にさらわれていった。それを繰り返しながら、吾妻川はやがて利根川と合流し、上野と武蔵のあたりで川幅が広まると、ようやく落ち着く。そして続々と死体が打ち上げられ始める。この3時間ほどで、千数百人の命が失われた



● アイスランド壊滅

ラキ山から出た青い霧の正体は「亜硫酸ガス」であった。また「硫化水素」も大量に放出された。これらは大気中で「硫酸エアロゾル」に変わり、上空に昇る。この硫酸エアロゾルは成層圏に入り込むと、そこに居座り太陽の熱を吸収する。これをアンブレラ現象と呼ぶ。アイスランドでは亜硫酸ガスで穀物や野菜は全滅、牧草すらも枯れ絶え、牛馬や羊が続々と死んでゆく。タンパク源を失い人々も痩せ細り、寒さに倒れてゆく。噴火の後の最初の冬で、ざっと9300人(全島民のほぼ1/5)が飢えと寒さと病気で死んだ。恐るべき青い霧の直接の犠牲者であった。



● 天明の大飢饉がはじまる

東北では8月だというのに霜が降りた。今年の凶作は確実と見込み、米価が急騰し始める。家一軒売っても、丼一杯の漬物にしかならなかった。飢えた乞食が城下町に溢れ、餓死者は800人を超えた。これではたまらないと男とたちは商店を襲った。空き家を燃やして暖を取るので火事も頻発。わずかな粥をようやく買って帰る者が打ち殺され、粥を奪われたうえ衣服を剥ぎ取られた。死体を埋める余裕すらなく、放置された死体に烏や犬が群がった。その犬を人が捕らえ法外な値段で取引された。牛馬肉も暴騰した。牛馬肉にありつけない者は、ついに人肉を食い始めた



● 人が人を食う地獄絵図

死んだ親を子が食い、死んだ子を親が食う、まさに地獄であった。人の遺体を食う心理的抵抗をひとたび突破してしまうと、歯止めが利かなくなり、他人まで殺して食いたくなるらしい。ある家に踏み込むと、死人がたくさん貯えてあった。ある村では、餓死した肉親を食った娘が発狂し、野山を駆け回り人に出会うと、これを襲った。もはや畜生であった。やむなく村人が鉄砲で射殺した。他の村では、餓死した息子を祖母と半分ずつ食べて飢えを凌いだ母親が「ああ、今度は丸まる一人食べたい」と言ったという。この天明の大飢饉で、924000人もの人口が激減した。それ以上かも知れない。



● 大雨が田沼意次に留めを刺す

大飢饉を乗り越えたのち1786年5月〜6月末まで、日本は記録的な大雨に見舞われ続ける。各地で川が氾濫し大洪水となった。江戸も水浸しになり、あと一息のところまで進んでいた印旛沼の干拓事業も、文字通り水の泡と化す。これら大災害3連発により田沼意次に非難の矛先が向き、民衆の八つ当たりを利用されて権力の転覆劇へと繋がる。また、米の値上がりに怒った群衆による打ちこわし騒動が、大阪をはじめ全国で広がり、江戸でも大規模に行われた。



● 小氷期との重なり

この時代、北半球は「小氷期」と呼ばれる寒い時代の真っ只中であった。テムズ川もセーヌ川も隅田川も、しばしば凍る時代である。そこへ噴火の影響が重なり、フランスでもパンが値上がった。1788年にパリではグレープフルーツ大の雹が降って、農作物は大打撃を受けた。そして「パンがないならお菓子を食べれば良いじゃない」とマリー・アントワネットが言っているとの噂がパリ中に広まる。パンを求めて銃を手にした群衆がパリ市内を練り歩き、捕らえられた軍の指揮官やパリ市長までもが虐殺された。



● フランス革命の勃発

「男たちにパンのことは分からない、だから私たちがやるの!」パンを求める暴動では女が主役となった。ベルサイユへ到着し、ルイ16世と面会して、パンの供給約束を取り付けた。かくして暴動は終わったかに思われたのだが、しかし実は真のフランス革命はここから始まる。ルイ16世は二度とベルサイユに戻ることなくギロチンにかけられる。王妃マリー・アントワネットもやはり断頭台の霧と消える。その2人の処刑をはさんで、果てしない陰謀と殺戮とその報復の歳月が、ここから続くのである。




というわけで、ラキ山と浅間山の噴火によって世界の運命は狂った。ように思える。もし噴火が無ければ、あるいはタイミングがズレていれば、どうだっただろうか。少なくとも田沼意次や、マリー・アントワネットの最後は違う形だったはずである。


それに、飢えによって死んだ人々の規模も、もっと少なくて済んだかもしれない。そう思わずにはいられないほどに、悪条件が重なった印象だ。悪魔的な不幸の連鎖。鬼コンボによる禁断のハメ技である。こんなん受けたら、その時の為政者は誰であってもお手上げだろう。まさに無理ゲー「スーパーハードモードすぎんだろっ!」ってコントローラー床に叩きつけたくなる。


だから、そのタイミングで消えていった人達は、せめて「ものすっごく不運だったね」という感想で歴史に残してあげてほしい。このタイミングだったら、織田信長でも、豊臣秀吉でも、徳川家康でも、ビルゲイツでも失脚してましたっつーの。逆に言うと、このタイミングならば誰であろうが前政権をひっくり返してトップに立てますっつの。だって反体制側には千載一遇のイージーモードなんだもん。


そのイージー&スーパービッグウェーブに乗って颯爽と次にのし上がった人は、最初はやたら英雄視され人気を得るのであるが、波が去るとあっという間に沈むところが共通してて興味深い。


ね、松平定信さん、ナポレオンさん。


一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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