vol.42「田沼意次」について(後編)


ようやく田沼意次の後編に辿り着きました。正直、辿り着きたくなかったので引き伸ばした感は否めません。でも観念してオッキーの失脚の過程をまとめますね。嫌だけど。。



https://ja.m.wikipedia.org/wiki/徳川治済

一橋治済(ひとつばし はるさだ)の陰謀


8th吉宗は、障害のある長男の9th家重にまだ不安を抱えていた頃、バックアップとして「御三卿」を作る。それが「一橋家」「田安家」「清水家」である。この中の一橋治済がなかなかの知略家で、いつか将軍職をわが家にぃ!と目論んでいた。が、10th家治と田沼時代の隆盛ぶりは目覚ましいし、とりあえず田沼に媚びて擦り寄っとこうと考え、田沼の弟を一橋家に取り込んだり、何かと強引に繋がりを強めていた。


まだチャンスは来ないが、ひとまずライバルの田安家の次期当主ポジにいる「田安定信」が、なんかやたらと有能そうなので早いうちに退場させとこ!と思い「彼を白河藩の松平家へ養子に出させて田安家を解体せえへん?」と田沼に持ちかける。田沼は田沼で「お前に指図されるのはムカつくけど、確かに御三卿なんてもうバックアップの意味ないから存在意義もないし、ただの金食い虫状態だから、ひとつくらい取り潰した方が財政的にも良いかもな」と、目的は違えど利害が一致。かくして田安定信は白河藩にて「松平定信」となり、将軍継承権を剥奪される



https://ja.m.wikipedia.org/wiki/松平定信

モンスター松平定信の誕生


この時点では、一橋治済もこれが後に絶妙な一手になろうとは自分でも予想外だったろう。だが、将軍になる未来を奪われた松平定信は、田沼意次に恨みを抱きながら、ストイックな性格を更にこじらせてゆき、とんでもないモンスターへと仕上がって、最終的には一橋治済の最強のコマとなってゆく。


松平定信は、質素倹約が大好きで田沼意次の重商主義が嫌いだった。貿易や商売で収入を増やすのは邪道で、支出を減らし農民を大事にすれば国はきちんと治ると思っていた。し、それを信じていた。養子に出された白河藩の藩主となって早々に天明の大飢饉が起こるが、松平定信の病的なまでの質素倹約と、その模範力により、ひとりの餓死者も出さずにこれを乗り切る。おかげでますます彼は自分の信念が正しいと揺るぎない自信をつけてしまう。



https://ja.m.wikipedia.org/wiki/徳川家基

10th家治の息子「家基(いえもと)」毒殺


11th将軍の座を約束されていた家基が、ある日、鷹狩りの帰りに立ち寄った品川の東海寺での休憩後、急に体の不調を訴え血を吐き、3日後に死去した。享年18(満16歳没)の、あまりに不審な死であった。自らの後継ぎを失った家治は、食事も喉を通らなくなるほど嘆き悲しんだ。家基の死により、家治の子で存命の者はなくなり、家治はそれ以後、死去するまで子を儲けることはなかったため、家治の血筋は断絶してしまう


その突然の死は、家基の将軍就任によって失脚することを恐れた田沼意次による毒殺説、嫡男「豊千代(後の家斉)」に将軍家を継がせたい一橋治済による毒殺説など、多くの暗殺説を生んだ。だが田沼意次には家基を殺すメリットがない。むしろ家基が継いだ方が意次は安泰だったのだから、辻褄が合わない。実際、意次は次期将軍選びに苦心するハメになる。ゆえに田沼説は明らかなデマである。


一方、最も得したのは一橋治済である。これにより治済の息子の「豊千代(後の家斉)」が有力候補となり、意気消沈した10th家治は気力を無くし、次期将軍を家斉にする方向で養子にもらう。さすがの意次も、こればかりは何も打つ手がなく従うしかない。治済が先んじて最も有力なライバル田安定信から将軍資格を奪っていたことが絶大な効果を発揮した。松平定信が、まだ田安定信だったならば、次期将軍の最有力候補は彼だったからだ。



https://ja.m.wikipedia.org/wiki/徳川家治

強制終了される田沼時代


色々な夢を災害の鬼連チャンで潰された田沼意次に、さらなる不幸が襲いかかる。息子の意知(おきとも)が、逆恨みした変な武士に斬り殺されてしまう。その武士はもちろん死刑になるが、その直後にたまたま米が値下がりしたものだから、庶民はその武士を「世直し大明神」ともてはやし、災害と飢饉の鬱憤ばらしを田沼に向けた。田沼意次は息子を失った悲しみをおして「それでも幕府のために」と翌日から登城して仕事に向かうが、それが逆に「権力へのしがみつきが過ぎる」と評判を落とす。


そこへ来て10th家治が体調を崩した。意次は家治になんとか復活してもらおうと、町の蘭学医師に診させて家治に薬を飲ませる。ところがその薬を飲んだとたんに家治の病状は悪化。家治は「田沼が家基を毒殺したのでは」という噂を聞いていたので意次に激怒。それから数日のうちに死亡したため「田沼が将軍をも毒殺した!?」という形になってしまう。これにより一橋治済の息子である家斉が11th将軍になり、紀州徳川家という強力な後ろ盾を失った田沼意次は老中を解任され、蟄居を命じられる


その後、治済は新たな老中首座に完全体モンスターの松平定信を据える。定信は田沼に将軍になる機会を奪われたと思っており、田沼の治世すべてを憎んでいた。その復讐とばかりに残る田沼派を次々と排除。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとはよく言ったもので。定信は遠州相良城も収公すると、ただちに大部隊を率いて相良城を徹底的に破壊し尽くすという、子ども地味た意味のないことをやらせて田沼憎しのうさを晴らした。


齢70での幽閉生活により、田沼の身体は日に日に衰弱し、この世を去った。


田沼意次の功績や記録は幕府内から消し去られた。松平定信は『宇下人言』をはじめ、生涯で百八十二部もの著書を書きのこしたといわれている。そして目の敵にした田沼の悪口雑言をならべたてた。〝田沼といえば賄賂、賄賂といえば田沼〟と、田沼は賄賂の卸問屋のように、賄賂にのみ関連して語り継がれた。いまだにその後遺症は深く残っている




ざっくりこんな感じですが、実際はもっと細かい駆け引きや、水面下での裏切りや、田沼派の巻き返しによる攻防などがありまして。けど、結果的には一橋治済の仕掛けた用意周到な罠と、自然災害に見舞われた不運と、恨みますモンスター松平定信の執念の前に、田沼意次は完全敗北を喫したのでした。


まー、間違いなく家基も家治も一橋治済によって毒殺されたのでしょうねーもしかしたら意次の息子の意知を切り殺した武士も、治済に裏で焚き付けられたのかも。だって息子が生きてたら、必ずや親の志を継ぐ強敵になっちゃうわけで。だから先に若い芽から摘んどくべしってか。人の追い落とし方としては天晴なお手本ですわ。


(ついでにもひとつ言うと、江戸で起きた打ちこわし事件も、あまりに統率がとれ、手際が良すぎており、自然発生的な打ちこわしとは思えないと言われている。結果として、松平定信を老中に就任させるため邪魔だった横田という側衆を、打ちこわし事件の報告義務が少し遅れただけで解任に追い込んでいる


しかも治済のスゴイところは、田沼時代の反作用(貧富の差による不満)気運を利用して権力転覆を行なっておきながら、その後に必ず来る再反作用(やっぱ田沼時代の方が良かったわ〜)に対しては、表に立たせた松平定信を盾にし、自分や家斉は批判を浴びないポジを確保したってトコですね。つまりは松平定信もまた、一橋治済に運命を操られ、田沼恨みパワーを利用され、使い捨てられたわけで


御三卿という、あまり権力のない位置から知略策略のみで、史上最強の老中である田沼意次を引きずり下ろし、実質的に大御所様のポジションを手に入れつつも、クーデターの首謀者として浴びるべき批判すら華麗にかわした治済おそるべし。彼こそ、田沼時代に生きた様々な天才たちの中で、一番狡猾な頭脳の持ち主だったのかもしれない。。



さて、ここで終わってしまうと「田沼意次について後編」と言うより「一橋治済の陰謀無双編」になってしまうので、最後にオッキー追悼まとめをしますると。


とにかく田沼意次と言う人は、幕府が抱えた(全国的な課税権を持たないのに全国支配&全国支援をするために費用は負担せねばならぬという)欠陥構造を何とかするため、並の人間には出来ない発想の改革案を進めていた。それは重商主義の推進であり、それに伴う幕府直轄の利益創出であり、または間接税収入であり、印旛沼や蝦夷地など未開拓エリアでの新田開発であり、赤字藩の領地没収であり、ロシアとの交易開始であり、ひいては日本の開国であった。


その壮大な計画のすべてが、幕府が抱えた根本的な問題を解決するための手段であり、そのために上り詰め、人材活用のために賄賂も受けてきたのだが、そこまでのビジョンについて来れずに表面だけ見て反感を抱く人を産んでしまった。されど、意次本人もそんなことはガッテン承知の助の、想定内。何かを大きく変える時は人に嫌われる、税を取るのも領地を奪うのも激しい批判を受けるしかない、と理解していた。


むしろ殿や幕府を矢面に立たせず、自分が嫌われ者となり批判を一手に引き受けることこそが使命だと思っていた。だからこそ、道半ばで倒れることになっても、それも運命と受け入れて世を去ったのであろう。盟友である平賀源内と同じく、生まれた時代が100年早かった。つまりは、そう言うことなのだ。と、本人も納得していたのではないだろうか。


きっとそうだったのではないかと信じたい。

さようなら、最後のジェダイ。(ノДT)アゥゥ



一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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