vol.47「遊王 家斉」について


さーて、ついに11th家斉(いえなり)の時代です。

父の一橋治済(はるさだ)の巧妙かつドス黒い陰謀によって、15歳で将軍の座についてからの在位期間は実に50年間。第2位の吉宗ジジが29年間なので、ぶっちぎりNo.1の長期政権。しかも、その後も大御所となって実権を握り続けたり、無類の女好きで子供を50人以上もうけたり、贅沢の限りを尽くしたり、とにかくバイタリティー溢れる将軍であります。


さらに。征夷大将軍を辞めてから最高位の官職である「太政大臣」の栄誉を得た人物はかつて数人いたけども(1st家康と2nd秀忠)、現職の征夷大将軍のまま太政大臣にまで昇りつめて二つの職を兼任したのも歴史上、家斉だけ。江戸時代は、長く続いた戦乱の世に終止符を打ち、平和を維持したことが評価され、世界史上でも「パックス・トクガワーナ」と特筆されておりまして、家斉の時代は、その中でもとりわけ「泰平の世」だったと知られている。のだとか。




● 治済の子なのか、10th家治の子なのか、謎

田沼意次がまだ健在だったころ、ある日、一橋治済が急に「大奥女中のお富って女を私にくだされ!」と10th家治に唐突おねだり。そんなに女好きではない家治は「え、欲しいならどうぞ」と了承。しかし、もらってから9ヶ月後くらいに子が生まれ「あれ? 計算合わなくね? もしかして将軍の子を妊娠してたの?」となる。家治も家治で「まじ? いやでも身に覚え、、、あるかも」の状態。ってことで生まれた「豊千代(後の家斉)君」は、治済の子なのか、10家治の子なのか、不明のまま育つ。あの策士、一橋治済のことだから、もしやすると、お富に将軍のお手がついたことを知って賭けに出たのかも?



●「家基」死亡により、家斉が11th将軍候補に

たぶん毒殺で幻の11th将軍家基が死に、悲しみに打ちひしがれる10th家治。「つーか次の将軍どーしよ。俺に他の子はいねーし、もう今から作る気力もないし。。そうだ、そういや俺の子かもしれない奴が一人だけいたっけか?」と、一橋治済の息子とされている「豊千代(後の家斉)」を、養子に迎えて次期将軍候補にすることに。となると、一橋治済は次期将軍の父親ってポジに! くわぁ〜っ、なんたる策略! 治済お前、絶対あの時からお富が妊娠してるって方に張ってたろ?!ってくらい、凄まじい勝負師っぷり。これは勝てない。。そりゃ流石の田沼様も殺られてしまうワケだわさ。。



● 家斉、将軍になるけど松平定信のせいで一回休み

将軍の座ゲットだぜ!と思ったら、いきなり松平定信とかいうストイックモンスター将軍補佐が誕生したために「一回休み状態」で、出番なし。やることがない。やることがない15歳。からの17歳。周りは綺麗な大奥の女ばっかりで「ヤルことあったわww」って、う〜んまあしゃあないか。その年にその状況だったら自分を律する自信ないよ私も。てなことで、薩摩出身の許嫁(正室)が引っ越して来る前に、側室(お万の方)を作って妊娠させちゃう家斉。

「薩摩芋ふくる間を待ちきれず おまん(饅頭)を喰うて腹はぼてれん」

なんて傑作な落首でしょうかw



● 一回休みどころか、ずっと休み

全方面から嫌われた松平定信は罷免させたけど、次の老中首座の松平信明(のぶあきら)など「寛政の遺老」たちが改革を引き継ぐ。ので、ずっとやることがない。ヤルことしかやることがない男盛り。気がつけば子供が50人以上デキちゃう。それで、ついたアダ名が「オットセイ将軍」。オットセイの睾丸を原料とした精力剤を愛飲してたからだとか。女好きなのもあるだろうが、これまでずっと後継者問題で醜い争いを見て来ただけに、とにかく子孫を増やしとかないとアカンのや!言う使命感もあったのかと。けど、さすがに子供多すぎて金かかってしゃーない困った!となる。



●「 水の出て もとの田沼に なりにける」

堅物老中、松平信明(のぶあきら)がよーやく死んだ。ので「待ってました!」と言わんばかりに「水野忠成(ただあきら)」を老中に据える。水野と言えば、田沼意次の手下だった、あの水野家の血筋。その水野忠成に「もう倹約ヤダ! おれもう47歳よ? 30年この調子よ? これからは贅沢したい! つか子供多くて金かかる! なんとかせい!」とゴネる。忠成は「ガッテン承知の助! さっそく改鋳しましょうぞ!」と応じる。これにより、例の出目(ショニレッジ)で、毎年莫大な額が転がり込み、贅沢したい放題の時代が始まる




●「使わずば潤わず」の精神で、盛大にお裾分け


「民と共に世を楽しむ」「上の華美は下の助け」と言ったのは、8th吉宗に歯向かった尾張藩の徳川宗春さん。その後、めずらしく吉宗にめっちゃ怒られて謹慎させられます(が、当時の隆盛が今の名古屋の土台を作ったとか)。家斉は、そうした政治哲学を持ってたわけではないが、優しい人柄なので決して独り占めせず、富をみんなと分け合いながら一緒に楽しむのが好きだった。


おかげで、その享楽的なムードが江戸中にも蔓延し、一度は禁止されていた「滑稽本」や「人情本」「川柳」「狂歌」などが再流行。さらには「滝沢馬琴」の『南宋里見八卦伝』や「十返舎一九」の『東海道中膝栗毛』などの読本も、空前のメガヒット。読本がヒットすると、それがすぐさま歌舞伎に脚色され、演じた人気の役者を絵にした「喜多川歌麿」や「東洲斎写楽」「葛飾北斎」「歌川広重」などなど、有名な浮世絵師たちが大活躍。読本 → 歌舞伎 → 浮世絵 というトライアングルスパイラルが循環し、ブームは江戸だけに収まらぬ爆発的なものになってゆく。




● 家斉のお気に入りは「浜御殿」


浜御殿とは、4th家綱が弟の綱重に「山手屋敷」と対になる「海手屋敷」として土地をあげたのが始まり。綱重の子である綱豊が6th家宣になったことから、自動的に将軍家の別邸となる。その別邸を歴代将軍の中でダントツに利用しまくったのが家斉である。その数、実に248回。この他に御台所ら大奥関係の御成も49回。在職期間の長さを差し引いても、誰よりも浜御殿を活用し楽しんだのは家斉だった。招待された大名や家臣たちは、そこで振る舞われる食事や美酒を味わい、家斉の趣味でもある「庭」にて、能や踊りを鑑賞したり、釣りを楽しんだらしい。平和やね〜。


こうした家斉の大盤振る舞いによって、幕府の権威は揺るぎなく、むっちゃお金のかかる日光参拝などをする必要もなかった。だから家斉は日光に行ってない。金銭的に行く余裕はあったのに、である。




● 天然の人心掌握、威厳確立を成しちゃった家斉


狙ってたわけではない。自分の楽しみを臣下にも「お裾分け」してやろうくらいの軽い気持ちだったのだろう。されど、従一位太政大臣にある天下人の気さくな振る舞いに、結果として幕臣は大いに感激し、改めて忠誠を誓った。その隆盛ぶりは、大大名でも江戸城の大広間での儀礼では、家斉の座る上段からぐんと離れて平伏し、家斉の顔を見ることすら許されないほどだったとか。つまりは、めっちゃ偉くて、めっちゃ有難い神様のような人だったのである。


これって、1st家康のみならず、そのパイセンにあたる織田信長が狙っていた「俺は神になる! そして世を平和にする!」状態を、見事に体現したとも言えるわけで。それを狙いもせずに、天然でやってのけた家斉は、結構すごいのである。まさに「パックス・トクガワーナ」の集大成、ここに完成!と言っても過言ではない。


家斉は「権威と安定」の象徴であり、ある意味「最強の将軍」だった。


家斉がつくった多すぎる子女の扱いに困り、徳川幕府が養子や嫁入りの形で各地の大名家に押し付けたのは事実だが、大名家もこれを受け入れることで、自らの家格の引き上げや借金の棒引きというメリットを享受。その結果、家斉の名前の一字をもらった「斉」のつく藩主や、将軍家の姫君の奥方が全国に蔓延し、将軍家を中心とする壮大な「親戚ネットワーク」が出来上がり、世の中「」だらけになる。それは、緩やかな統治の強化にも役立ち、幕藩体制のほころびも隠した。子だくさんが「泰平の世」を支えたとも言える。ビッグダディは強い。


実際、家斉の死去と同時に徳川幕府は威権を失って傾き始め、次の将軍の12th家慶の晩年にはペリーが来航、これを機に一気に坂を転がり落ち、瓦解してしまう。徳川幕府が最後の光芒を放ったのは「家斉の時代」だった。抜本的な改革をなしたわけではなく、対症療法の政治に終始したとも言えるが、強引に無理なことをしないのが逆に「泰平の世」には向いていた。


江戸時代は享保、寛政、天保の三大改革が有名だが、庶民の生活という視点で見ると、実際にはその時代は何かと締め付けが厳しくて暮らしにくかっただろう。これに対して「家斉の時代」は、武家も町人もいわば羽を伸ばせたのではないか。長期政権ならではの忖度や情実が広がり、側近を重用する「お身内政権」でもあり、今の日本がしばしば評されるように、迫りくる危機に正対せず、生ぬるく生きている「ゆでがえる状態」だったのかもしれない。


が、豪奢な政治が醸し出したそれなりに自由な気風の中で、歌舞伎や浮世絵などの文化も花開き、娯楽は庶民にまで浸透した。明治時代になって「古きよき時代」と懐かしがられたのも家斉の「文化・文政」の世である。




ってことで、いよいよ「化政文化」の最高潮を迎えますぞ。

ここからは、政治局面の話は置いといて、町人文化と芸術の話にフォーカスしまくって記事を書いて参りますゆえ、しばし時代の流れは滞留、あるいは多少の前後をしますが、悪しからずです。だって、これまでの記事はそのための前談だったんだもん。前談に半年かかりましたけどね。お客さん残ってるかな?ww

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

こちらは一般社団法人「江戸町人文化芸術研究所」の公式WEBサイト「エドラボ」です。江戸時代に花開いた町人文化と芸術について学び、研究し、保存と承継をミッションに活動しています。