vol.46「江戸の学」について


突然ですが、私は数学が苦手であります。

思えば、高校時代の数Ⅱを最後に、その後の人生ずっと数学という学問から逃げて生きて来ましたな。だって面白くないんだもん。ところが、江戸のことを調べていたら、この時代は武士から農民から庶民までもが、算数をひとつの娯楽として楽しんでいたのだとか。へ〜、、え? 娯楽とな? ちょっと何言ってるか分からない。。なので、どうゆうことなのか浅堀りしてみましょうかね。(人様のWEB記事から知識のつまみ食いしまくって)



● 計算ができないと武士が務まらん

そもそも年貢は米の量を計らねばならん。ちょろまかされたら大事だし。農民も農民で少なく数えられたらたまらんわけで。受け取る方も納める方も互いに、算盤は習得しとくに限る。だいたい、田畑の面積を測って年貢量を決めてるのだから、面積計算ができないと何も始まらない。そこに年貢率というものも絡む。さらには、その米一石分が、今の米価で銀いくらに相当するのかも、武士の生活には直結してくる。おれ計算苦手なんだよねとか言ってる場合ではないのである。


● 庶民も読み書きができないと損をする

平和の時代に経済活動が活発化したことで、商家だけでなく農家においても、商取引、土地売買、金銭貸借、家産相続など、トラブル防止のため文書による契約手続きが不可欠となった。その結果、江戸時代は、読み書きと算盤が必須の文字文化を前提とした社会となる。高札(こうさつ)や、御触(おふ)れを読み、他人と取り交わす証文を判読できなければ悪いヤツに騙され、不利益をこうむるからである。


● だから寺子屋が普及しまくる

家を守り、永続させるためには子どもを一人前の成人に成育させ、立派な後継ぎにしなければならない。かくして、読み書き算用を習得させたいという庶民の教育熱が一気に高まり、寺子屋が津々浦々に誕生していった

寺子屋は、許認可の必要なく自由に誰でも開業でき、入退学も任意。授業料を支払ってまでも子どもに勉強させたい親の熱意によって運営されていた。親の自主性によって寺子屋は支えられ、子どもを一人前の人間にするための教育システムとして十分に機能していたのである。


● ひとりひとりに合わせたカリキュラム

寺子屋では、生徒の年齢もまちまちなため、男女共学で一斉授業の形式はとらず、師匠が個々の筆子(教え子)の実情に合わせ、手作りの手本を与えて一対一で指導する。現存するものだけでも7000種類もある「往来」と呼ばれたテキストは、筆子に応じて巧みに実用のカリキュラムが組まれていた証である。

ちなみに、当時の日本人の識字率は世界ダントツ1位の85%以上で、同時代のイギリスでは、産業革命によって世界の工場と呼ばれるようになり最盛期をむかえた時期においてすら、下層階級の子どもの多くは文字を読むことができず、識字率は10%程度だったと言われている。



● 寺子屋ではしつけも重んじられた

寺子屋は読み書き算用のみを教え、筆子のしつけには無関心であったかのようなイメージがあるが、そんなことはない。師匠は親に甘やかされる筆子を前に礼の教育、しつけに苦闘している。学問より道徳を上位とし、家内では親に孝行し兄弟仲良く、外では行いが信・仁である条件を満たした上で、なお余力ある者が寺子屋教育を学ぶ資格がある、としている。


例えば、
「正座して畳に手をついて額をさげ、心静かに一礼して来た順に着席しなさい」
「来客があった時は、たばこ盆とお茶を出し、皆一緒に一礼しなさい」
「大便・小便を催した時は、ぞろぞろと行かないで一人ずつ行きなさい」
「友達は兄弟同様であるから仲良くして、互いに行儀を正し末々まで親しく付き合いなさい」
「筆子同士のけんか口論は皆本人が悪いから起きるので、親はいちいち取り上げてはならない」
「お師匠さんに挨拶しないで帰るときは他の筆子にさよならを言いなさい。家でも朝夕の食事の時は父母に向かって礼をしてから食べなさい」
「朝寝坊しないで起きたら水で顔を洗い、まずお天道さまを拝み、ご先祖さまを拝みなさい」


教場内での礼儀作法から来客への接遇、礼に始まり礼に終わる。また筆子同士のけんか口論に対する親の介入を禁じ、三世の契りと言われた師弟関係を核に筆子仲間を生涯の友として大事にすること。さらに早起きして洗顔、お天道さま、ご先祖さまを拝み、食事には父母に一礼を欠かしてはならないと家の道徳にまで踏み込んでいる。寺子屋教育の習得はあくまでも「余力」であって、実生活から遊離して文雅の道楽で身を滅ぼし家名を汚すことを危惧したのである。そこには読み書き算用の習得と一体化した、しつけがあった。



● そして生まれた数学ブーム

さて、江戸時代にベストセラーとなり、数学人気を支えた算術書『塵劫記(じんこうき)』をご存じでしょうか? 私はもちろんご存知ではありませんでした。 「塵」は極小、「劫」は巨大な数を指し、実用的な数学とともに楽しい挿絵のついたクイズのような問題が多数収録されていたのだとか。『塵劫記』は当時、十返舎一九の小説『東海道中膝栗毛』以上の人気があったといわれ、ある種の「数学ブーム」が起きていたんですと。

 

その中には、例えば桶に満たされた油を、容量の異なる枡を使って半分ずつに分ける方法を問う、といった生活に根差した問題があったそうです。また、神社や寺院に奉納する絵馬に数学の「問題」を記載した「算額(さんがく)」も多数流通していました。これは神仏に奉納する時に、ほかの数学者に見てもらう目的があったらしい。

 

江戸時代の「数学者」は一部の特権階級に限られなかった。大阪の総持寺(そうじじ)というお寺に掲げられた算額には「魚屋平七、油屋清兵衛」など庶民の名前も多数記載されていた。また年齢や性別の障壁もなく、11歳の少年や女性の名前が書かれた算額も存在するほど、数学は庶民の生活に浸透してたんですって。


https://ja.m.wikipedia.org/wiki/塵劫記



● 娯楽として算術を楽しむ、なんて優等生な日本人

江戸時代の数学は「農業、商業、土木建築」など実用的な用途に用いられる一方、同時に、なぞなぞやクイズのようにゲームとしても親しまれていました。数学は庶民にとって「娯楽」でもあったのです。 例えば渡し舟での移動の際、船が来るのを待つ間「誰か『算術』の本を持っていないか」という声が上がり、みんなで数学の問題を解いて時間を潰すといったエピソードもあるそうです。

 数学がすでに発展していた諸外国では、一部の進んだ人のみが実践していた例が多く、庶民の「趣味」として数学が存在していた江戸時代の日本の状況は世界でも珍しかったそうです。


では、そんな娯楽としての例題をふたつほど。


小判の両替問題です。

江戸時代は「江戸の金遣い、大阪の銀遣い」といわれるように関東では金貨、大阪では銀貨が流通していました。そのため、町には金貨と銀貨を交換する両替商が存在しました。そんな両替商になった気持ちで解ける問題をご紹介。


原文のままの問題がこちら。

「小判六両三分三朱あり。一両につき五十六匁(もんめ)替えにして、
 右の小判に銀なにほどぞ」

現代語に訳すと、

金の小判が6両3分3朱あります。1両につき銀56匁に両替できる時、上記の小判は銀いくらになるでしょう」という問題です。


解くためのヒント

・金1両=4分=16朱 ・銀1匁=10分(金の「分(ぶ)」と銀の「分(ふん)」は異なる単位)

つまり、銀0.1匁は1分。



わかるかいっ!

もう無理、ぜんぜん無理。ストレス!

答えは一番下に書きますが解く気になれません。



では、二問目。またまた両替問題ですが、今度は銀同士の両替。原文がこちら。

「丁銀五百六十九匁有時に、よきはいふきに内二割引にしてかへる時に、
 右の丁銀に灰吹なにほどぞと問」

江戸時代には銀通貨にも色々あったようで、「丁銀」とは銀の成分が80%の通貨、「はいふき」=「灰吹銀」の事で、こちらは100%純銀の通貨です。銀を含む割合が違うので、丁銀と灰吹銀は同額では両替できず、丁銀→灰吹銀に替える時は2割引きで両替しました。つまりこの問題の意味は、

丁銀が569匁ある時、2割引きして灰吹銀に両替すると灰吹銀いくらになるか

という問題です。



は? これの何が面白いの?

私、両替商ムリですわ。つーか、こんなん流行ってる江戸時代に生きるのがムリかも。友達の輪に入れず隅っこで絵描いてる暗いやつになること間違いなしですわ。


と言うわけで、まだまだ興味が湧く方は ↓ これらのリンク先をご参照ください。私は逃げます。数学のない世界へ。さようなら。探さないでください。


https://news.line.me/detail/oa-japaaan/43cec7b27406

https://search.yahoo.co.jp/amp/s/club.informatix.co.jp/%3Fp%3D7763%26amp%3D1%26usqp%3Dmq331AQGsAEggAID

https://m.youtube.com/watch?v=64JmBfpFffc

https://m.youtube.com/watch?v=twO1QFsE4uE



↑ あ、こっちの世界観なら生きてゆけそう。

自殺せず済みそうでホッとしましたw



● 一問目の答え「銀388匁5分」

● 二問目の答え「灰吹銀455匁2分」569×0.8=455.2という計算になります。

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

こちらは一般社団法人「江戸町人文化芸術研究所」の公式WEBサイト「エドラボ」です。江戸時代に花開いた町人文化と芸術について学び、研究し、保存と承継をミッションに活動しています。