vol.49「江戸の住」について


「住」とは、衣・食・住、の「住」のこと。

つまりは「江戸の暮らし」について、である。だったらそう書きゃ良いのだが、これまで「江戸の食」とか「江戸の粋」「江戸の学」とかタイトル付けて来たので、なんとなく「江戸の〇」って一文字シリーズで揃えたくて。大雑把な性格なのに、そんな些細なことだけ急にこだわっちゃうO型ですが、何か?


でも「暮らし」と言っても、立場によって千差万別いろいろあるよねってことで、今回はこちらの書籍より「江戸のリサイクル事情」に的を絞ってお届けしましょう。(ネタバレ満載ご注意を)




⚫︎ 日本は循環型の「植物国家」だった


江戸時代、衣食住に必要な製品のほとんどは植物から出来ていた。例外は石のみ。鉄や銅などの金属や陶磁器などの鉱物製品も、やはり炭や薪といった大量の植物性燃料なしには作れないわけで。あらゆるものが植物から出来ている世界では、どんなものでも燃やせばもちろんのこと、食べても捨てても、いずれ微生物が分解して二酸化炭素と水に戻る。それらは再び植物の原料となり、遠からず全部がまた植物体になるため、全体としては何も減らず何も増えない。すべてのものが形を変えながら太陽エネルギーによって循環し、植物がまた植物に戻る自然のリサイクルが、そこには確かにあったのだ。



⚫︎ 着物はとことん使い尽くす


着物の原料は、絹をはじめ木綿や麻などで。蚕や植物の状態から様々な加工経て、糸になり、反物になり、着物になる。そのどの工程でも使われるのは植物性燃料と人力であり、手間暇のかかるものほど貴重で高価な品になる。ゆえに、不要になったら捨てるなどという発想は微塵もなく、まず古着屋に売ることができる資産なのだ。庶民は通常、着物を古着屋で買った。当時、古着は恥ずかしいものではなかったらしい。


さすがにいい加減ボロくなれば、使える部分で子ども用に作り直す⇒次の子どもが生まれたらオシメに⇒オシメがとれたら雑巾に⇒たき付けに⇒灰になったら洗濯に、肥料に……という具合で、最後の最後まで使い尽くす。もっとも、作り直す際に出る端切れは「端切れ屋」が買ってくれたし、灰さえも買ってくれる業者がいた。燃やして灰になってからもまだ使うというのは、究極の再利用である。前述の通り、形としては消え失せても、二酸化炭素や水となってまた自然を循環して植物に戻るのだから。



⚫︎ 稲だって100%無駄にはしない


穀物としての米はもちろんのこと、脱穀した後に残る藁(わら)だって大事な資源。かつての稲作農家では、収穫した藁の20%ぐらいで日用品を作り、50%を堆肥や厩肥などの肥料とし、残りの30%を燃料その他に使った。燃やした後の灰も「藁灰」という立派な肥料になる。100%利用した後、すべてを土に返してリサイクルしていたのである。


藁から作られたものは、まず、編笠や蓑や屋根があり、通気性の良い雨除け日除けアイテムになった。他にも藁草履や草鞋(わらじ)のような履物としても活躍。馬だって草鞋を履いていた。どれも冬の農閑期に家で作れるため、内職にはうってつけ。なにせ材料も人件費もタダなのだから。履き潰した草鞋は集めて積み重ねておけば、やがて腐って堆肥になる


今でも、米俵をはじめ、畳の中身、正月のしめ飾りまで、様々なものが藁製品として残っている。さらに言えば、藁は牛や馬など家畜の餌でもあるし、厩舎の敷き藁としても使える。敷き藁は、排泄物で汚れたら交換し、堆肥にまわす。家畜の排泄物ばかりではなく、人間の糞尿と混ぜて発酵させたものは最高の堆肥だった。そして、その堆肥がまた次の秋に稲に生まれ変わるのである。



⚫︎ ウンチさえも商品になった


江戸時代のみならず昭和20年代くらいまで、下肥(しもごえ)つまり人間の排泄物は最も重要な肥料だった。特別な施設も設備もエネルギーもなしで製造できるのだから、ただ集めるだけでチッソやリンをたっぷり含んだ優秀な有機肥料がいくらでも手に入るわけで。農作物のメーカーは肥料の消費者で、農作物の消費者は同時に肥料のメーカーなのである。


ただ、下肥を集めるのは、臭い、汚い、きつい仕事で、文字通り3Kの代表でもある。下肥を肥料に使う習慣がなかった西洋では、排泄物を川や排水溝に捨てていたせいで、街中に悪臭が立ちこめていた。当時のパリやロンドンは、よほど臭かったらしく、ルイ十四世がベルサイユ宮殿を作ったのは、パリの悪臭から逃げるためだったとか


一方、日本の農民にとって下肥は貴重な資源だった。むしろ、田畑の方が多すぎて慢性的な下肥の供給不足に困っていたくらいで、お金を払ってでも下肥を集めることに必死だったのだ。特定の農家が、契約してある地域あるいは家を定期的に訪問して、金を払うか、野菜と交換する形で、下肥を汲み取っていた。


下肥の生産量の多い大きな大名屋敷では、農家に入札させて有利な売り先を決める所さえあった。そればかりか、下肥専門の商社や、そこから仕入れて農家に売る小売商まであった。中には、大根を担いで歩き、現物交換をしながら肥料を集める「小便買い」という職種さえも生まれた。下肥は、廃棄物どころではなく、貴重な商品だったのだ


おかげで、江戸のトイレというトイレでの落とし物は、すべて田畑行きの道が決められており、下水に排泄物を流すといったことは行われなかったため、江戸時代の隅田川は河口の佃島付近でさえ白魚が獲れるほどの清流だった。同時代のセーヌ川より遥かに清らかだったことは間違いない。



⚫︎ 灰を再利用しないと出来ないものだらけ


植物から出来たものを燃やせば、すぐ灰になる。灰も貴重な資源であるため、下肥と同じく「灰買い」という業者が来るので捨てずに残しておいた。灰買いは集めた灰を「灰問屋」に売る。灰問屋はそれを様々な方面に卸してガッポリ儲けた。なにしろ灰の活用法は山ほどあったからだ。


ある灰問屋は、灰を藍染め用に売ることを思いつき巨万の富を積んだ。あの井原西鶴の『好色一代男』のモデルになった人物でもある。当時の灰が、質量ともにいかに重要な物資だったかを、間接的に知ることのできる話である。それほどまでに、灰は広い使い道があった。


優秀な肥料としてはもちろんのこと、日本酒の味を良くする工程上で灰は欠かせない。和紙の製造でも、絹の精錬でも、糸の染色にも、陶器の釉薬にも、衣類の洗剤としても、灰は大活躍するのだ。いや、むしろ灰がないと出来ないのである。


灰の用途は、こまかく書けばきりがない。金属の精錬に使う〈灰吹き法〉、わかめに灰をまぶして乾燥する〈灰乾燥法〉、ロウソクの漂白、漢方薬の材料、食品の保存、火鉢用など、かつては、産業、日常生活の広い範囲で、植物の灰を使っていた。


灰を使う文化は世界中にあるが、大都会で専門業者が買い集めて、用途に応じて流通させるという組織的な大量利用をしていたのは、日本だけだった。江戸時代の日本人のリサイクル・システムがいかに徹底していたかは、この点だけでもよくわかる。




このように江戸の暮らしは、常に資源を無駄遣いすることなく徹底的に再利用する社会構造の中に組み込まれていた。何かが壊れれば修理してくれる業者がいたし、ゴミが出ればそれを買い取ってくれる業者がいた(ゆえにそれはゴミではない)。紙屑ですら拾い集める仕事として成り立っていたらしい。


日本人が綺麗好きと言われる所以は、このあたりから来ているのだろう。けれども現代では、すっかり欧米諸国の価値観に染まって、大量消費社会になってしまったようだ。おかげて江戸時代にはなかったゴミの処理問題に頭を悩ませている有様だ。豊かになり過ぎるというのも誠に考えものである。


物資が貴重だった頃の方が、もったいない精神で日々の暮らしに有り難みを感じられて、良かったのではないだろうか。もちろん地球や自然のためにもである。もし可能ならば、江戸時代の暮らしと精神の方に現代人も少しくらいは立ち戻らせたい気がする。


と、また真面目な意見で終わる感じの締め文章ですが、かく言う私はクーラーや床暖がないと生きてゆけないタイプで、移動も車が大好きですし、ご飯も満腹になったらすぐ残しがち人間でありますゆえ、あんまり偉そうに言えた立場でないので退散しますね。


御免! 地球。



⚫︎ 江戸時代のリサイクル事情

あらゆる物を徹底的に再利用する暮らし

https://m.youtube.com/watch?v=hh0EL-IfA3g

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

こちらは一般社団法人「江戸町人文化芸術研究所」の公式WEBサイト「エドラボ」です。江戸時代に花開いた町人文化と芸術について学び、研究し、保存と承継をミッションに活動しています。