vol.50「蔦屋重三郎」について


すいません、私てっきり2025年のNHG大河ドラマの主人公「蔦屋重三郎(つたやじゅうさぶろう)」って「TSUTAYA(蔦屋書店)」の創始者なのかと思ってましたが、違うのですね。


「〜親なし、金なし、画才なし。ないない尽くしの生まれから江戸のメディア王として時代の寵児になった快男児〜」だ、そうで。彼が見い出した才能は「喜多川歌麿」「山東京伝」「葛飾北斎」「曲亭馬琴」「十返舎一九」といった、若き個性豊かな才能たち。その多くは、のちの巨匠、日本文化の礎となる。また、その中でも彼が世に送り出した「東洲斎写楽」は、忽然と姿を消した謎の浮世絵師で、日本史史上最大の謎のひとつになっているのだとか。

今年の『光る君へ』は朝廷に興味のない私的には、ちょっと退屈でアレなので、来年のこの『べらぼう』は結構楽しみであります。

ので、読みやすそうなこちらの本で、予習、予習。



⚫︎ 蔦屋重三郎と喜多川歌麿は幼馴染

蔦重も歌麿も新吉原で育った幼馴染だったらしい。廓の中に住むと華やかな空気や最先端の流行に触れられる利点もあるが、基本的には世間から下に見られる存在でもある。もちろん裏舞台の醜くて悲しい部分もたくさん見てきただろう。その反骨精神から蔦重は版元として、歌麿は絵師として世間をあっと驚かしてやろうと志す。



⚫︎ 蔦重「吉原細見」の編集者になる

吉原細見(よしわらさいけん)」とは、どの店にどんな遊女がいるのかなど、吉原に関するあらゆる情報が掲載されている、いわゆるガイド本のようなもので、内容が有用かつ魅力的であればあるほど集客につながる重要な出版物。すでに引手茶屋内で書店(貸本屋)を開いていた蔦重は、この吉原細見の序文の執筆者に、発明家であり学者・作家でもある「平賀源内」を起用して話題を集めた。おそらく遊郭内で源内先生とも顔見知りだったんでしょうな。

『吉原細見』



⚫︎ 自由な気風の中で事業を拡大


当時の江戸は、幕政の中核を担っていた老中「田沼意次」の政策により、自由な気風の中で文化が花開いていたころ。1780年(安永9年)蔦重は、人気作家「朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)」の黄表紙(挿絵を多用した小説本)を出版したのを皮切りに出版事業を拡大。書店であり版元でもある「耕書堂」の主人として、黄表紙、狂歌本(社会風刺を織り込んだ短歌の挿絵入本)、洒落本(遊郭での粋な遊びについて書かれた本)など次々にヒット作を刊行してゆく。


当時、戯作者の多くは武士の階級出身。版元は時代の流れを読んで、戯作者に本の内容を指示することもあるわけで。蔦重のような叩き上げの商人と、本来であれば身分の違う武士とが意気投合して遊び心あふれる作品を生み出し、庶民を熱中させたなんて、それこそが江戸の出版文化のおもしろいところ。



⚫︎ 廓暮らしならではの人脈を駆使


遊郭には夜な夜な文化人が集まるので、人脈には事欠かない。先の、朋誠堂喜三二をはじめ、「山東京伝」「大田南畝」「朱楽菅江」「恋川春町」「森島中良」らと親交を深め、数多くの戯作や狂歌本を次々に刊行。天明3年(1783年)には丸屋小兵衛の株を買取り、一流版元の並ぶ日本橋通油町に進出。洒落本、黄表紙、狂歌本、絵本、錦絵を手がけ、挿絵に「葛飾北斎」を起用するなどして話題をさらい続けて、江戸屈指の地本問屋に成長した。コネのみならず、それだけ蔦重のプロデュース能力も高かったと見える。


人気作家の懐にそつなく入り込む一方で、見込みのありそうな若手にチャンスを与えたり、家に住まわせて面倒をみたりする一面も。この頃まだ歌麿の描く美人画は、他より抜きん出る魅力を持っていなかった。だが試しに虫や鳥を描かせてみたところ驚きの上手さで、これに狂歌を組み合わせた「狂歌絵本」を出版。歌麿の大ヒット出世作となる。この後に歌麿は美人画でも独創性を確立し、長く蔦重専属の絵師として筆を振るうことに。歌麿の生き生きとした美人画は、挿絵時代に観察力を養ったからこそ描けたとも言われている。

↑ 『百千鳥』

↑ 『画本虫撰(がほんむしえらび)』


↑ 『潮干のつと』



⚫︎ ところが松平定信のせいで

田沼時代が終わり、質素倹約と文武推奨による風紀の引き締めが始まる。庶民の娯楽にまでケチを付けるストイック野郎にみなの鬱憤が溜まり「ぶんぶと言うて夜も眠れず」や「田沼恋しき」といった狂歌が流行る。蔦重はそれら庶民の想いを代弁するように松平公を暗に批判し皮肉った偽作『文武二道万石通』(朋誠堂喜三二著)『鸚鵡返文武二道』(恋川春町著)をリリースし、空前のミリオンセールを打ち立てる。が、以後とことん松平定信の放った御庭番達から目をつけられてしまう



⚫︎ 黄表紙の祖、恋川春町の死

先の偽作が松平定信の文武奨励策を風刺した内容であることを咎められ、恋川春町が幕府から呼び出しを受ける。武士である春町にとって幕府に召喚されると言うことは、家名断絶か切腹かを迫られたことに同じ。当然、家名や家族にまで汚名を着せたくない春町は、あえて切腹ではなく毒を吸わせた筆を舐めて自殺した。文筆家としての最期の意地だったと思われる。同じく武家に属する朋誠堂喜三二や太田南畝は、この春町の自死を受け以後、筆を置いてしまう



⚫︎ さらに蔦重も山東京伝も引っ立てられ

蔦重は身代の半分を没収、京伝は手鎖50日の刑に処される。どちらも町人なので命や営業権までは取られなかったものの、ひどい話である。松平定信の細かい触書はやがて町人が絹を着ることさえ禁じ、江戸の景気は冷えに冷えた。摘発をおそれて本屋にはパンチの足りない無難な本ばかりが並ぶことに。しかし蔦重はそこで諦める男ではなかった。



⚫︎ 物語がダメなら浮世絵でい!と

挽回の一手として繰り出したのが、歌麿の美人大首絵や、写楽の役者大首絵。「大首絵」とは上半身のアップを描いた浮世絵のこと。どちらも瞬く間に大反響を呼び、増刷に増刷を重ねた。


特に写楽に関しては、それまで誰も名前を聞いたことのない絵師の大首絵を28枚一挙にリリース。しかもそのすべての背景が黒雲母摺りという、歌麿の美人画をはるかに上回る特別仕様だった。これは無名新人のデビューとしては、あまりにもハイリスクな出版である。以後、写楽は10か月ほどのあいだに140点余の作品を蔦屋から発表し、忽然と姿を消してしまう写楽の正体は、徳島藩蜂須賀家のお抱え能役者だった斎藤十郎兵衛(さいとうじゅうろべえ)」との説が有力だが、江戸最大の謎としていまだにはっきりしない。



⚫︎ そして48歳にして脚気でポックリ

一方の幕府は、松平定信が失脚した寛政5(1793)年以降も規制を緩めなかった。相次ぐ圧力に加え、写楽の絵の出版が途絶えては、さすがの蔦重も創作意欲を失ったのか、寛政8(1796)年、ついに病に倒れる。翌年5月6日死去。死因は脚気だったと伝わる。享年48歳。版元として初の本を刊行して23年、疾風のように駆け抜けた生涯だった。浅草の正法寺に墓所跡の碑が残る。



ほー、それはそれは。

知ってる作家の名前はあれこれ出てきましたが、蔦重がごそっとどれもに関わってたとは知りませんでしたので、面白かったです。なんでも、蔦重の書店には「曲亭馬琴」や「十返舎一九」が番頭として勤めていたんだとか。まだ開花前の才能に気づいて世話してあげてたんですかね。名プロデューサーぶりもさることながら、その人を見る目と面倒見の良い人徳が、才能ある者たちを引き寄せてたのかもしれませんな。


そんな貴方が開花させた浮世絵師たちの本が、今でも蔦屋書店にはオシャレな感じにズラッと並んでいますので、安心して成仏してくださいまし。合掌。

(たがらそのTSUTAYAは違うんだってばよ)

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

こちらは一般社団法人「江戸町人文化芸術研究所」の公式WEBサイト「エドラボ」です。江戸時代に花開いた町人文化と芸術について学び、研究し、保存と承継をミッションに活動しています。