vol.51「江戸の旅」について


それにしても、江戸の識字率はすごい。寺子屋教育の賜物でしょうか。この頃の江戸には貸本屋が656軒もあったらしく、まさに出版ブームであり読書ブーム。こんなに読書に熱狂する国民ほかに居ないわけで。まあ、確かにある意味「これは規制かけないとヤバいほどの影響力だ(ゴクリ)」と、松平定信に危険視されてもしゃーないかもしれんですね。ペンは剣より強いし。


そんな本ブームの中、規制の対象にならず大ヒットしたのが、こちらの『東海道中膝栗毛』であります。有名ですね(私は初めて読みましたけど)。弥次さん北さんの珍道中がウケにウケて、作者の十返舎一九は、執筆だけで生活した日本初の職業作家になれたんですと。蔦重が生きてたら泣いて喜んでくれたことでしょう。もしくは、金の卵を見事に孵化させ、左うちわで高笑いかな?


それはさておき、この頃は「お伊勢参り」がやたら流行っていたようで。参拝者の数は300万~500万人以上になった年もあるという程。せっかく旅に出るのだからと、京都や奈良など他の観光地をめぐって帰る人も多かったとか。当時は基本的に歩きの旅なので、長い人は3か月ほど旅していたという話もあるらしく、旅そのものが庶民の娯楽のひとつになっていたらしい。戦国時代までは考えられられないことである。


しかも、犬だけでも行って帰って来れたと言うのだから、平和な世にしてくれた1st家康のおかげ様々としか言いようがない。

⚫︎ おかげ犬 https://www.inutome.jp/c/column_12-37-42931.html



それに加え、2nd秀忠と、3rd家光が「五街道」をビシッと整備してくれたことも大きい。特に、東海道は、江戸と京都を太平洋沿いに結ぶ大事なルートで、最も利用者数が多く、参勤通交大名数は146家と、続く日光道中41家の3倍以上。江戸日本橋〜京都三条大橋の間に設けられた53の宿場は、俗に東海道五十三次と呼ばれ、歌川広重がすべてを絵にして大ブレイクを果たしている。


歩きながらそれぞれの宿場町ごとの景色や名物が楽しめるのも、旅の醍醐味のひとつであろう。今は新幹線でひとっ飛びだが、7泊ほどかけて自然を肌で感じつつ一歩一歩踏みしめて堪能するのも、なかなかオツな気がする。じゃやるかと言ったらやらんけども。当時は、疲れ果てたりちょっと怖い思いするからこそ冒険感があって、そこがまたワクワクしたんでしょうね。ほんとに冒険レベルだし。


⚫︎ 五街道 https://nomichi.me/gokaido/?amp=1


さて五街道に触れたからには、それら街道から江戸の出入り口に設けられた「江戸四宿」にも言及しときまひょか。ご存じ「品川宿・板橋宿・新宿・千住宿」ですわね。


⚫︎ 潮風香るNo.1繁華街「品川宿」

もちろんトップバッターは、東海道の出入り口である品川宿から。当初は北品川と南品川で宿場機能を分担していたが、あまりに宿泊客が多いんでどんどん町が伸びてゆき、江戸時代後期には全長2キロ、600軒以上の飲食店が軒を連ねる大繁華街に発展。その中の100軒ほどが「飯盛旅籠」で、吉原よりリーズナブルに遊女と遊べるナイトスポットだった。その主な客層は、侍か、寺の僧侶がほとんど。普段真面目な仕事をしてる奴ほど、こうしたバレにくい岡場所へ訪れた時にハメをはずしたくなるらしい。都会での立場に疲れたエリートたちの憩いのオアシスだったのでしょうな。


⚫︎ 木戸の内側は江戸御府内「板橋宿」

中山道の出入り口であった板橋宿は、平安時代に石神井川に板の橋をかけて通行するようになったことが、その名の由来。川越街道(川越児玉往還)の起点でもある。街道が整備されると、参勤交代で利用する大名家は40家前後隣、四宿の中では品川に次ぐ往来がある繁華街に発展。板橋宿は150人もの飯盛女を置くことが認められており、日本橋寄りの平尾宿には飯盛旅籠が軒を連ねていた。明治時代以降は「板橋遊廓」として、その賑わいは太平洋戦争中まで続くことに。遊廓として使われていた『新藤楼』の玄関部分は現在、板橋区立郷土資料館に移築されて保存されているんだって。


● 馬糞だらけの大衆用繁華街「内藤新宿」

甲州街道の出入り口は当初は高井戸だったが、日本橋から離れすぎていて使い勝手が悪かった。このために作られたのが内藤新宿である。大名家の利用は少なかったものの、富士山や身延山へ出かける旅行者の利用は多かった。青梅街道との分岐点でもある。物資を近郊から江戸に運び込む馬が列をなし、馬糞臭かったらしい。庶民の利用客に配慮してか、品川に比べて女郎が安く買えるのが大人気となり、幕府から一回お咎めを受けて廃止させられてしまう。が、50年ぶりに復活すると、江戸時代後期には吉原・品川をしのぐ岡場所に成長した※ただし馬糞注意。


● サッと行ける行楽地「千住宿」

日光街道および奥州街道の初宿で、水戸街道はここから分岐していた。御府内の境界線である荒川(隅田川の上流)にかかる千住大橋は、旅人にとっては「これを超えると江戸から外に出る」ということを強烈に意識させられる舞台装置だった。橋を越えた北側には威勢の良いセリの声が飛び交う「ヤッチャ場」なる青物市場が展開し、もちろん中心部には飯盛旅籠も充実。江戸の中心部にはない、おおらかな田舎の風情が愛され、文人墨客の憩いの場となっていたとか。江戸周辺の行楽地のひとつである。


● 江戸の入り口でまず目にするのは「死」

このように、見どころ盛りだくさんな四宿であるが、かなりディープなゾーンもあるので注意が必要。それは「御仕置場」と呼ばれる犯罪者の処刑場である。江戸の二大御仕置場として知られる「小塚原刑場」と「鈴ヶ森刑場」は、それぞれ千住宿と品川宿の出入り口にあったし、板橋、内藤新宿にも臨時の仕置き場が設けられることもあった。つまり、江戸に出入りする人々は、強制的に犯罪者の処刑の様子や、磔や打ち首になって晒された遺体を目にすることになるのである。「江戸で犯罪を犯せばこうなるぞ」と見せしめることで、犯罪抑止に一定の効果があったのであろう。



とは言え、女性や子供でも旅ができたってんだから平和な時代である。犬さえも親切に助けてあげりゃ徳を積めるって考え方が、思いやりと助け合いの雰囲気を産んだんでしょか。はたまた、他人を襲わなにゃならんほど誰も困ってない時代だったのか。「旅は道連れ、世は情け」てな雰囲気の世界、素晴らしいですね。


弥次さん北さんの珍道中も、ドタバタはしてるけど全体的にお気楽で楽しそう。こりゃ確かに真似して旅に出かけたくなりますわ。倹約、倹約とうるさいお上の裏をかいて、信仰のためお伊勢参りを娯楽に変えて楽しんじゃうたぁ、なんとも粋なやり方でやんす。これにはさすがにお上もケチ付けられなかったようで。まあ、500万人レベルの流行になっちゃ、もはや咎める方が危険ですわな。


この時期に暮らせた江戸町人は、たいして働かなくても生きてゆけたし、金がなくても伊勢参りに行けたし、もしかして世界一幸せだったんじゃないか説、、ありますね。

いいなあ。うらやましい。。

今はどこもホテルが高くてよお。

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

こちらは一般社団法人「江戸町人文化芸術研究所」の公式WEBサイト「エドラボ」です。江戸時代に花開いた町人文化と芸術について学び、研究し、保存と承継をミッションに活動しています。