vol.53「江戸の祭」について


われら日本人はイベントが大好きである。

正月の初詣に始まり、バレンタインに、雛祭り。鯉のぼりの子供の日からの、母の日父の日と来て、七夕、そして花火大会夏祭り。そっから十五夜お月様に、敬老の日と、七五三。ほんでもってハロウィンクリスマスに大盛り上がりしたあと、年末は紅白歌合戦除夜の鐘で締めくくる、と。


改めて思うが「なんてせわしない!」6月だけじゃないの?特に何もない月は。だいたいバレンタインとハロウィンとクリスマスは、いつからこうなった? と思うと同時に、じゃあ逆に何故イースター感謝祭は日本人にカスりもしないのだ? と不思議になったり。卵探しだって楽しいし、七面鳥も美味しいのに。


とまあ、そんな疑問は例のごとく横っちょに一度置いときまして(そして永遠にそのまま放置するのであるが)とにかく言いたかったのは「日本人ってイベントほんと好きよね〜」ってこと。これは江戸時代も同じくだったご様子。ハロウィンよろしく、今も昔も本来の行事の意味とかそんなんもうすっ飛ばして、イベント自体に踊らされてるのは重々承知だけども、あえて乗っかって楽しんじゃおうぜ! ってところが、日本人らしいっちゃ、らしいわけで。


今回は、そんな江戸庶民の生活に根付いていた祭りや、お祝い行事にフォーカスしてゆきますよ。踊る阿呆に、見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損、損! ですものね。

(以下、堀口茉純 (著)『江戸はスゴイ』からの抜粋てんこ盛り御免!でお届けさせていただきます。すっごく読みやすくて勉強になる本なので是非ご興味ある方はオリジナルをご購入ください。なおアフェリエイトではござーせん)



● そもそも、、

日本の伝統行事の多くは、奈良・平安時代頃に中国方面から伝わったものばかり。例えば、5月5日の「端午の節句」も元は古代中国のものだ。旧暦の5月は梅雨のじめじめした日が続き、伝染病や毒虫が湧いて出る悪月とされていたので「午の月の初め=端午」に、厄除けや病除けをする風習が生まれたらしい。具体的にはヨモギなどの薬草を摘んだり、ショウブ酒を飲んだり、厄除けの絵を飾るなど。それが日本に輸入され、宮中行事として行われるようになり、その際に、摘んだ薬草を円形にまとめて五色の紐を垂らして花をあしらって飾ったのが「薬玉」なんですって。は〜! だからあれ「クスリダマ」って書くのね! 初めて知った〜。

んで、だんだん武士の世になるにつれ、ショウブの音が「勝負・尚武」につながるとして、武家の男子の勇壮な成長を願う行事となってゆき、吹き流しや槍に兜、武者絵や武者人形、家紋を染め抜いた旗などを飾るようになったそうな。また、柏の葉は、夏の新葉が出ると古い葉が落ちることから、跡継ぎができて家が代々続く願いを込めて、柏餅を食すようになったとか。それを町人たちも「何それ楽しそう」とマネし始めて、武家の吹き流しにインスパイアされて生まれたのが「鯉のぼり」で。これが江戸時代に大流行。幕末には武家でも飾られるようになり、明治以降に全国的に広まった、と。にゃ〜るほどね。


ちなみに、端午の節句と同様に、身分に関係なく誰もが参加可能な年中行事を一覧にすると ↓ この通り。何もない月がないじゃんか。せわしなー。


● ↑ 寺社行事を含めるとこんなもんでねえ


例えば ↑ だと4月は行事がが少ないように見えるが、江戸各地の寺社での独自行事も含めると、ほぼ毎日のように何かしら行われてて。4月初めの1週間だけでも、1日は亀戸天満宮の雷神祭り、3日は浄真寺の弥陀経千部修行、5日の有馬家水天宮祭り、6日の柴又帝釈天祭り、などがあるんだってさ。この他にも、初子の日には飯倉順了寺で大黒祭り、初卯の日には鉄砲洲稲荷神社祭&山中合力稲荷で卯の花祭り、初午の日には築地稲荷の祭礼などなど、盛りだくさんすぎんだろ


このように、寺社参詣は人々の日常生活に密着していたようだ。これは純粋な信仰心の厚さから、ではなく、もはやひとつの娯楽として楽しんでいた側面があるのだろう。寺社の門前には飲食店や屋台が立ち並び、盛り場化していたと言うのだから、間違いない。ようするに「聖」と「俗」が表裏一体となっていたわけで。現代のクリスマスも、正月の初詣も「聖」よりもはや商業効果、経済効果が表になっちゃってるのが良い例である。よほど敬虔な信者でない限り、どこの世界だって一般人の感覚はそんなもんだっつーこと。そして、もーそれで良いじゃんって話。


だども「江戸三大祭」に至っては、ちーとばかし熱量が違ってくる ↓

● 江戸の祭りの頂点!「山王祭」

寺社が中心となる行事の中でも、最もエンターテイメント性が高く、人々が心待ちにしてたのが「祭り」である。特に「江戸三大祭」と呼ばれた「神田祭」「山王祭」「深川祭」への熱狂ぶりは凄まじかった。その中でも「山王祭」は、江戸で最高の格式を持つ祭りとして名高かった。祭礼行列が江戸城内に入ることが許されただけでなく、将軍が上覧することにもなっており、当日は交通規制をかけて往来を制限し、脇道には柵を立て、建物の二階から祭礼行事を見下ろすのも禁止。かなりの警備体制で臨んだらしい。



● 個性的なパレードが見どころ!「神田祭」

神田祭の最大のウリは、各町から出される山車と、その華やかさ。歌うも良し、踊るも良し、仮装するも良し、巨大オブジェを作るも良しと、何でもアリ。前日には山車が勢揃いするため大賑わいで、沿道の家々では客人を招いて酒宴を開き、徹夜で祭りの始まりを待った。そして、いよいよ当日。今か今かと待ち望む人々の声に押されて暁丑の刻(午前2時ごろ)に神田祭スタート。山車や人々、神輿や警備隊が合流して行列が完成すると、江戸城や城下町を練り歩いた、ってわけ。

● 神輿自慢の「深川祭」で大事件勃発!


三大祭のうち唯一、将軍上覧こそないものの、徳川将軍ゆかりの由緒正しきお祭りである。最大の見物は、元禄時代の伝説の豪商「紀伊國屋文左衛門」が奉納したというゴージャスな黄金製の神輿。だけでなく、各町が趣向をこらした練り物を見るのも人々の楽しみだった。ところが、ある年に深川祭で喧嘩があり、ペナルティとして12年ものあいだ祭が禁止されてまう。それが文化4年(1807)にようやく解禁されるのだが、そこで「永代橋崩落事件」という日本史上最悪の橋梁事故が起きてしまう。。


祭当日の午前中、12th家斉のパパである一橋治済が祭見物のため隅田川を船で通るってんで、永代橋にも交通規制がかかり、隅田川対岸からの参加者が足止めを食う。12年ぶりの祭に人々のボルテージが最高潮に達したところで、やっと交通規制が解け、かつてないほどの大群衆が富岡八幡宮を目指して老朽化した永代橋を渡り始めた。そして正午ごろ、ついに永代橋の真ん中あたりが突如、崩落。現場は混乱を極め、死者行方不明者を合わせて1500人とも伝わる大惨事となった。


偶然これを目の当たりにしていた大田南畝が詠んだ狂歌がこちら。

「 永代と架けたる橋は落ちにけり 

  今日は祭礼 明日は葬礼 」

笑えるけど、笑えないw



● お花見ブームを仕掛けた8th吉宗

春のイベントと言えばお花見だが、庶民までもがお花見を楽しむようになったのは江戸時代から。梅の名所に、桃の名所、そして吉宗が意図的に作り上げた桜の名所。吉宗の作った花見の名所は、いずれも江戸城外堀よりもさらに外側に位置しており、行って帰ってくるのも1日がかり。ゆえに外出先で昼食をとる必要があり、人々はお花見弁当を持参したり、屋台で軽食を買って桜の下で食べたりするわけで。隅田川では、桜餅の屋台がメガヒットし、年間で387,500個も売れたとか



●水辺のレジャーも大人気

暖かな陽気になってくると、江戸は水辺のレジャーシーズンに突入する。まず盛んだったのが、潮干狩り。芝、高輪、品川、佃、深川、中川沖が引き潮になって海底が陸地になったところで、牡蠣や蛤をひろい、砂の中に隠れたヒラメや浅瀬に残った小魚を獲って、それを肴に宴会するってワケ。いいなあ〜。潮干狩りなんて子供のころに行ったきりで何十年とやってないわ。あの駐車場渋滞が嫌で嫌で。。


● 夏はやっぱり花火でしょ

5月末になると隅田川が川開きとなり、8月末まで夕涼みが行われた。享保18(1733)年の川開きの折、飢饉や疫病の死者を弔う打ち上げ花火を上げるようになってからと言うもの、両国橋を挟んで上流に玉屋、下流に鍵屋という花火師が増え、格別な賑わいを見せた。橋の上は ↑ の浮世絵のように、ものすごい人だかり。これじゃ全然夕涼みにならないってことで、お金のある人は納涼船を出して、船の上から花火を楽しんだ。芸者が三味線でBGMを奏でるなか、花火を肴に酒を飲む。小腹が空いたら川面をウロついてる商売船からトウモロコシを買って食べる、と。なんとも優雅ですな。


● 秋になると天体ショーが大盛況

旧暦では7月8月9月が秋となる。7月の月見は「二十六夜待ち」と言って26日目の月を待つ行事である。見えるのは新月に近い下弦の月で、月の出も明けごろ。その月光の中には阿弥陀三尊の姿が現れると信じられ、人々はそれを拝むため(と言う口実で)オールナイトイベントを楽しんでいた。

8/15の十五夜は中秋の名月。9/13の十三夜はその次に美しいとされたとか。電気がない時代だから、さぞかし月の光が綺麗に見えたんでしょうねえ。



● 秋のレジャー他にもいろいろ

面白いのは「虫聴き」というイベント。郊外の野山に出かけ、マツムシや鈴虫の鳴き声を聴く。ただそれだけと言えばそれだけなのだが、たまには男同士で静かに虫の声に耳を傾け酒を酌み交わすというもの、なかなか風流である。他にも、9/9の重陽は「菊の節句」なので、長寿を祈って菊酒を飲み、看菊に出かけた。菊人形も大人気だったらしい。さらに秋が深まれば、紅葉狩りがハイシーズンを迎える。上野寛永寺、谷中感応時、王子滝野川、品川東海寺、目黒祐天寺など、各所に名所があった。


● 寒い冬でも雪見を楽しむ

江戸時代は「小氷期」と呼ばれるプチ氷河期にあたり、今より5度は平均気温が低かったらしい。そのため冬になると江戸にも30センチ以上の雪が積もるのが当たり前だった。場所によっては2メートルの積雪を記録した所もあったとか。ちなみに小泉八雲の『怪談』にある雪女の伝説は、江戸郊外の青梅であると特定されている(山奥かと思てたよ)。そんな一面の銀世界をあえて楽しむのが雪見であり、↑ のように寒い中、障子を開け放ってその雪景色を堪能しながらの宴と洒落込んでいる。




以上、ざっと江戸人の一年を見てきましたが、つくづくイベント尽くしである。そして、そのどれもが四季折々の自然と関わり合っていたことがよくわかる。暑い時期は暑いなりに、寒い時期は寒いなりに、その時々の季節感を楽しみ、自然と共生してゆこうという彼らの生き方を見ていると「人間は自然の中で生かされているのだ」ということに改めて気付かされる。それは現代人が忘れかけている、当たり前で、とても大切なことなのではないだろうか。


ほんとそのこと。さすがホーリー(堀口茉純さんの愛称)良いこと言う。


何しろ、自然を楽しむ分には、エコだしお金もかからないしね。虫聴きとか、エコでチープな江戸人流のイベントを復活させたら面白いのに。最近、夏の打ち水とかがちょっとしたイベント化してるけど、あれも町を揚げて大規模にやったら本当に冷却効果あるんでないかね? 


と言うわけで、2024年7/7に控えている「夢と踊る七夕ゆかた祭り」というイベントで、そのあたりの江戸の知恵をどんどん発信してゆこうと思いまする。頑張るぞっ。

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

こちらは一般社団法人「江戸町人文化芸術研究所」の公式WEBサイト「エドラボ」です。江戸時代に花開いた町人文化と芸術について学び、研究し、保存と承継をミッションに活動しています。