vol.54「伊能忠敬」について


映画『大河への道』

 1821 年〈初の日本地図完成〉←1818 年〈伊能忠敬亡くなる〉んん?? 現代、千葉県香取市役所では、観光促進として地元を盛り上げるために、“大河ドラマ”の開発プロジェクトが立ち上がる。主人公は伊能忠敬!そう、あの初めて日本地図を作ったことで有名な、郷土の偉人である。
 しかし、その脚本作りの最中に、ある驚くべき事実を発見してしまう。なんと伊能忠敬は、地図完成の3年前に亡くなっていたのだ!「伊能忠敬はドラマにならない。地図を完成させてないんだ!」「え、じゃあ、誰が?」
 舞台は江戸の下町へー。弟子たちに見守られ、伊能忠敬は日本地図の完成を見ることなく亡くなった。動かぬ師を囲んですすり泣く声が響く中、ある人物が意を決し発言する。「では、今しばらく先生には、生きていていただきましょうか・・・」

 忠敬の志を継いで地図を完成させるために、弟子たちによる一世一代の隠密作戦が動き出す。そこには、歴史に埋もれた、涙なしには語れない感動のドラマがあった。


立川志の輔の創作落語「大河への道―伊能忠敬物語―」を、『記憶にございません!』などの中井貴一主演で映画化。「伊能忠敬」の大河ドラマを制作しようと奔走する千葉県の市役所職員が、史上初の日本地図を完成させた人物が伊能忠敬ではないことを知ってしまったことから始まる物語が描かれる。『二度めの夏、二度と会えない君』の中西健二が監督を務め、松山ケンイチ、北川景子らが共演。



↑ 『HOKUSAI』を観ようと思ってましたが有料だったので無料だったこちらを先に観てみました。そしたらなかなか面白かったし、伊能忠敬が成した仕事がいかに偉業だったか胸に沁みてくる作品でした。あとやっぱ中井貴一が良い演技するなぁってのと、北川景子がむちゃくちゃ美人だなぁってのも。ま、それはさておき、とりあえず忠敬先生の人生をざっと下記にまとめましょか。(InoPediaなる詳しいサイトからのコピペですが)




⚫︎ おいてけぼりの少年時代 


忠敬は、上総国(千葉県中央部)九十九里浜のほぼ中央の小関村(こぜきむら)の名主・小関五郎左衛門家の当主・小関貞恒の第三子として誕生した。幼名は三治郎、兄と姉がいた。


忠敬が6歳になったとき母が病没する。この地方は長子相続制・姉家督といって、女でも長子が家督を継ぐ習慣があった。母は長子だったので、約15キロ北の小堤村(おんずみむら)の名主・神保家から婿を迎えていた。母が死亡すると、婿の父は離縁になり、実家に帰った。姉家督は女が死亡すると、婿は実家に帰るのがしきたりだったという。


父は兄と姉だけを連れて帰り、幼い忠敬はなぜか、ひとり小関家に残された。読み、書き、算盤をしっかり教えて貰うために残されたのであろう。それで、さみしくて夜に星を眺めてるうちに天文学に興味を持つようになった説があるとかないとか




⚫︎ グレずに成長:十代の頃


10歳になったとき父が迎えにきて、17歳までを父のもとで成長した。この間、常陸の某寺に住み込んで和尚から和算を習ったとか、土浦の医者宅に住み込んで医術や四書五経を習ったといわれている。

父はこの頃には分家していたが、忠敬は二男である継ぐべき家がない者にとっては、医者、僧侶、学者などしか身を立てる道がなかった時代である。父の勧めで生きる道を真剣に探していたというべきであろう。


幕府役人が家に泊まって計算をしているのを見てすぐ理解したとか、世話になっている親戚の平山季忠の代理で土木工事の指図をさせたら、人使いがなかなか上手かったと伝えられている。気のきいた、目はしの効く若者だったことは間違いない。グレなくて偉かった。




⚫︎ 才覚あらわす事業家時代


17歳になったとき、縁あって、親戚の平山家の養子となり、林大学頭から忠敬と名を付けてもらって、佐原の酒造家・伊能三郎右衛門家に入婿し、四歳年上のミチと結婚する。この頃、伊能家の商売は傾きかけていた。しかし数字・商才に長けていた伊能忠敬は、家業の盛り返しに努め、49歳で引退するまでの間に伊能家の財産を20倍に増大


名主としても頑張って、凶作になると、米・お金を困窮者に提供し、天明の大飢饉では佐原から一名の餓死者も出さなかった。また、浅間山噴火の際には、利根川の堤防改修に尽力。その功績から名字帯刀を許された。これだけでも充分に褒められた実績ではないか。




⚫︎ まだまだ学ぶよ晩学時代 


50歳のとき江戸に出て、深川黒江町に隠宅を構え、寛政の改暦のため、大坂城番玉造組の同心から旗本の天文方に抜擢された新進の天文学者・高橋至時(よしとき)に入門する。難しい理論を習ったり、天文方なみの観測機械を自宅に据え付けて太陽や星を測った。


天文・暦学を勉強するとともに、自宅に天文方に匹敵する規模の観測所を設けて、太陽や恒星の高度などを熱心に観測し、推歩(すいほ)という天体運行の計算に熱中した。時間をきめて観測するため、外出を好まず、雨でも降らないとゆっくり話すこともできなかったらしい。あまり熱心なので、師匠の高橋至時は忠敬に「推歩先生」(すいほせんせい:推歩とは計算のこと)とアダ名をつけたという。


天文学・暦学も、基本は天体の観測。忠敬は、昼間は司天台(してんだい:今の天文台)に勤務する高橋至時から講義を受け、夕方以降は自宅で星の観測に励んだ。当時、天文学者の間で最大の話題は、子午線1度の正確な距離子午線とは、地球の北極と南極を結ぶ経線のこと。子午線1度の距離を360倍すれば、地球の円周の長さが分かるからだ。


いつも観測していて、深川の自宅と蔵前の天文方の緯度差は一分半と知っていたから「両地点の子午線上の距離がわかれば、地球の大きさは計算できる」そう思いつくと、すぐ実行にとりかかり、深川―暦局間を歩測して緯度一分の距離を歩測で求めて提出した。


試測のデータは師匠に相手にされなかったが「蝦夷地までも測ったら使えるデータが得られるかもね」と言われ、蝦夷地まで地上の距離と星の高度とを測る決意をする。


ちょうどその頃、ロシア帝国の使節が蝦夷地へ現れ、通商を迫っていた。ロシア帝国からの攻撃を恐れた江戸幕府は、海岸線の防護こそが急務と考え、正確な蝦夷地の地図を作る必要性を感じていた


高橋至時は、江戸幕府に蝦夷地の調査許可を願い出れば、同時に子午線1度の実測ができると考え、この計画の実行者に忠敬を抜擢。費用の大半は自腹という厳しい条件だったが、地球の大きさを知りたいという好奇心には勝てず、忠敬は快諾した。




⚫︎ 全国測量の旅


忠敬ら一行6名の測量隊は、蝦夷地が寒くならないうちにと、急ぎに急いで蝦夷地の根室の近くのニシベツまで往復3,200キロを180日かかって歩測した。第一次測量である。昼は交代で歩数を数え、曲がり角では方位を測る。夜は宿舎の庭に象限儀を据え付けて星の高度を測った。蝦夷地測量の成果は小図1枚、大図21枚に描いて提出された。この結果を見た高橋至時は、予想外の頑張りに感動し、よくできたと激賞した。


費用は節約して約100両かかったが、お手当は22両だった。器具の準備に70両かかったから、初めての測量の自費負担は、約150両弱。今のお金で3,000万円くらいだろうか。かなり痛い。


でも実績が認められ翌享和元年(1801)には、当時幕府がいちばん知りたかった伊豆半島、房総半島から三陸、下北半島まで測って、日本東海岸の図を作るように命じられる。手当は少し上がっただけだったが、二回目からは、幕府勘定奉行から先触れが出されたので、地元の協力が得易くなった。本州東岸の地図は評価され、幕府は忠敬に東日本全体の地図を作らせようと考える。


第三回目は、日本海側の出羽・越後の海岸を測る。忠敬は緯度一度の距離を測って学問的業績を残そうと思っていたのだが、地図が評価され地図作りに傾き始める。これまで測量旅行と荷物運搬の人馬には費用を払っていたが、今回から幕府の公用扱いとなり、多くの人馬を無料で使えるようになる。


第四回の測量は、東海道から北陸道の沿岸を同じように測量した,測量開始してから5年目の1804年に、第一次から第四次までの測量結果を、日本東半部沿海地図(略称沿海地図)にまとめて提出した。小図1枚、中図3枚、大図69枚だった。正確さと美観に、大いに気をつかい、美しく仕上げた。狙いどおり幕閣で好評を博した。面目を施した忠敬は、沿海地図の完成で、地図作りをやめるつもりだったと思われる


ところが、幕府の老中・若年寄らは、地図の出来映えに満足し、日本全国の地図を同様に作らせる気になる。西国諸大名に日本全土の実測という目的を理解させるのは大変だったと思われるが、幕府は伊能図を文化元年九月、第11代将軍・徳川家斉の上覧に供する。将軍はもちろん感心して賞賛したであろう。


「将軍、佐原の商人・伊能忠敬の日本図を閲覧」の話は風のごとく諸藩に広がった。忠敬は幕臣に召し出され(小普請組)、10人扶持(約40俵)を支給される。測量隊長として約3年をかけで西国一円を測量するよう、老中から指示が出された。


10数名の大部隊による幕府直轄測量は初めは3年でと考えていたが、西日本は海岸線が複雑なこと、幕府事業になって丁寧に測られたことから大幅に進捗が遅れる。結果的に、このあと11年かかってしまう。


測量旅行の回数は、10回におよんだが、忠敬は第九次の伊豆七島測量を除いて全測量に従事した。測量距離は約4万kmで、地球1周分に達した。すべての測量をおわり、弟子の問宮林蔵が担当した蝦夷地の測量デー夕を受けとったのち、文化15年・文政元年(1818)4月13日に地図御用所であった八丁堀の自宅で没する。享年73歳。


地図御用所では、忠敬の死を秘して地図製作の作業が続けられ、3年余り後の文政4年(1821)に完成する。上司の高橋景保(かげやす)は、忠敬の孫・忠誨と下役一同をともなって登城し、老中・若年寄の前に地図を提出し閲覧に供した。最終提出の伊能図の名称を「大日本沿海輿地全図」という。大図214枚、中図8枚、小図3枚からなる。その後9月4日に至って忠敬の喪を発した。




って、ことなんですって。

なんとも充実したお忙しそうな人生で。詳しく知れば知るほど偉い方だったんですねと頭が下がる系の史実でござんした。しかし日本全土を足で測るとはね。そりゃ未完成で大先生が死んじゃったら、弟子らは遺志を引き継ぎますわな。逆にもう引き継がないわけにもいきませんわなぁ。


されど幕府のお金がなければ地図作りは続けられない。そのためには伊能忠敬大先生がまだ生きていることにせにゃならん。てことは幕府に嘘をつくことになる。上様(11th家斉)を騙すなんてバレたら最悪、死罪。。けど地図は完成させたい。ので結果、3年も隠し通すハメに。


『大河への道』ではラストで(ネタバレ注意!)11th家斉に完成した地図を閲覧してもらう際「忠敬はどこにおる」と聞かれた高橋景保(かげやす)は「ここにおります」と忠敬のボロボロになった草鞋を見せてこの世にはいないことを白状するが、地図の素晴らしさと彼らの想いに感動した家斉は「大義であった。ゆっくり休め」と咎めなかった。


真実はどうだったか分からないが、実際、高橋景保や弟子たちが処分された記録はないようだし、地図も伊能忠敬の作ったものとして歴史に残っていることから、怒られなかったっぽい。ビッグダディ家斉の懐の大きさであろうか。


それにしても、当初の忠敬の目的は「子午線1度の実測」だけだったのに、幕府の要望を受けていつしか「日本全土の測量」という果てしない作業にどんどん膨れ上がっちゃって、辞めるに辞めれなくなってる様がちょっと笑える。


「ただいま〜! いや〜蝦夷地に続いて東北測るのむっちゃ疲れた〜! え? 次は西国一円も測れって? は? 日本全土やんの? まじ? うそ〜ん!! 何年かかると思ってんの? 途中でワシ死んでまうわっ!(泣)」


案外ホントにこうだったのではなかろうかw

大河ドラマ化への道は長いw


一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

こちらは一般社団法人「江戸町人文化芸術研究所」の公式WEBサイト「エドラボ」です。江戸時代に花開いた町人文化と芸術について学び、研究し、保存と承継をミッションに活動しています。