vol.57「小林一茶」について


小林一茶については、松尾芭蕉と同じく掘っても、どうせ句の解説ばっかで大して面白味がないだろな〜ってパスしかけてたんですがね。一応、念のためにちょっと調べてみたら、意外や意外。まったくもって予想だにしない案件がボロボロと出て参りまして。例えば、、


⚫︎ 一茶は安い遊女を買いすぎて梅毒だった?

⚫︎ ドロドロの相続争いを繰り広げてた?

⚫︎ 初老でも性欲強すぎて離婚2回!?


なんじゃこの下世話なネタのオンパレードはww 

一茶のイメージ激変じゃないすか。もっと人の良さげな優しい爺さんかと思ってただけに、おいおいまじかよwと。逆におもしれーじゃんかよジーサン!(爆)となりまして。ここはいっちょ普段より深めに掘ってやろうじゃねーかと妙に張り切っちゃいましたですよ。



⚫︎ 小林一茶と言えば

松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳人である。

「 名月を 取てくれろと なく子哉 」

「 やせ蛙 負けるな一茶 これにあり 」

「 やれ打つな 蝿が手をすり 足をする 」

こうした句がよく知られるが、江戸での奉公生活や、その後の安定しない俳諧行脚の生活など、自身の肌身に感じた生活の苦労、人生の矛盾、貧しさにあえぐ人々の日常の姿を投影した句も多い。

庶民らしい親しみのある優しい表現で、目に映る、人・小動物・昆虫など、小さいもの、弱いものを好み、それを自分自身に置き換えて表現し、それまでの俳句とは一線を画した「一茶調」と呼ばれる独自の作風を確立。

その分かりやすい表現の中には「生」をモチーフにした、時代を超えて共感できる人間らしさが漂っている。


↑ ま、ここまでは周知のイメージどおりですわな。



⚫︎ 寂しい少年時代

小林一茶は1763年(宝暦13年)、信濃国柏原(しなののくにかしわばら:現在の長野県上水内郡)で誕生。小林家は中の上位の有力農家で、長男・小林一茶は、跡取りとして土地を受け継ぎ平穏に暮らすはずだった。

ところが2歳で生母が亡くなり、以後祖母に育てられるが、7歳のときに父が再婚。継母に異母弟が誕生して間もなく、祖母も他界してしまう。

その頃、「長月庵若翁(ちょうげつあんじゃくおう)」という俳人が、近所で寺子屋を開き、子ども達に読み書きを教えており、一茶もここで俳句と出会うことになるのだが、継母は「俳句など役に立たない」と言い放ち、一茶に田畑の手伝い・子守りを押し付けた。一茶は孤独な少年時代を追憶して、後に「 我と来て 遊べや親の ない雀 」を詠っている。


↑ ふむふむ。母ちゃんも婆ちゃんも早くに亡くしたら、そりゃ寂しいだろけど、まーあり得ますでしょそんくらいわね。



⚫︎ 江戸へ行き、俳句の道に入る

継母は、何かに付けて一茶に辛く当たったため、困り果てた父は14歳になった一茶を、江戸へ奉公に出した。農家の子が奉公に出されることは珍しいことではなかった。だが、一茶のような中クラスの自作農の長男が江戸に奉公に出ることは異例なことだった。

以後10年余り、一茶は奉公先を転々とする苦しい生活を強いられながらも、江戸在住の俳人「二六庵竹阿(にろくあんちくあ)」などから、俳句の手ほどきを受ける。25歳で初めて句集に俳句が載り、27歳で松尾芭蕉などの先人達にならって、東北地方などを行脚(あんぎゃ:修行のため諸国を歩き回ること)。

旅先では寺院に泊めてもらう代わりに、僧侶達に俳句の手ほどきをしていたそうだが、江戸へ出てから10年間、一茶のはっきりとした足取りはつかめていない。だが生活苦にあえいでいたことは確かなようだ。


↑ はんはん。俳句の道を選んだのだから、貧乏なのも仕方ないと思われ。別に驚きゃしませんね。



⚫︎ 安い遊女にハマり病気をもらう

旅先で知り合い、一夜をともにした女性を詠った句も数多くある。

「 木がらしや 二十四文の 遊女小屋 」

木枯らし吹く寒空の中、粗末な小屋から最下等の遊女たちが客を誘う光景を表わしたものだが、二十四文は現在の600円。蕎麦1杯の値段で身体を売らなければならない、娼婦たちの過酷な現実を映し出している。

時代を問わず、たいていの男は自分の収入に応じて、分相応に女郎買いをするものだが、一茶の敵娼(あひかた:客の相手となる遊女)は、道ばたの客を引く街娼の一種・夜鷹(よたか)の女が主な対象だったようだ。

夜鷹とは夜に寝むしろを敷いて野天、または仮小屋で売春した最下級の娼婦たちのことで、岡場所などで通用しなくなった40歳から60歳と古媼(ふるおうな)が多く、梅毒など悪性の病気持ちがほとんどだった。その名の由来は夜になると横行するため、夜、飛びながら獲物を捕食する鳥になぞらえたものとされる。

本来ならば吉原など上級の遊女と遊びたかった一茶だが、安くて質の悪い夜鷹を買うのがせいぜいだったようで、自分と同じように過酷な境遇に、あえいでいる下流の娼婦を貶めることはなかった。

↑ ええ〜(引)、貧乏俳人なのに娼婦大好きって、ちょっとどうなんすかねそれ。しかも病気もらっちゃってるし。一茶、ダメな人じゃん。。



⚫︎ 13年の骨肉の相続争い

39歳の時、父が亡くなると遺産相続を巡り、継母・はつと異母兄弟・仙六と対立し、足かけ13年もの間、骨肉の争いを続けることになる。

一茶が15歳で故郷、柏原から江戸に奉公に出た後、父・弥五兵衛、継母・はつと腹違いの弟・仙六は昼夜を徹して懸命に働き、小林家は一茶が故郷を離れた時よりも大幅に財産を増やし、有力な農民となっていた。継母・はつと仙六には当然ながら「小林家の財産は自分たちが増やした」との自負があった

農作業中に突然、倒れた父・弥五兵衛は、病状が次第に重くなるにつれて死期が近いと感じた。弥五兵衛は一茶と仙六を呼び、財産を2人で均等に二分するよう言い渡した。仙六にしてみれば、長年、故郷を離れていた一茶と二分せよと言われても納得できなかった。

だが、家族や故郷を捨て、諸国を放浪しながら俳諧一本で生活しなければならなかった一茶とって、父の遺産を相続することは、重大かつ切実な死活問題だった。

俳諧で諸国を旅するほど健脚だったが、40代になると体に老いと病魔が忍び寄ってくる。40代後半でほとんどの歯を失い、49歳にしてすべての歯を失った。51歳の時、継母との遺産相続問題は一茶が屋敷半分をもらうことで解決し、晴れて故郷・柏原に定住する。

「 梟よ 面癖(つらぐせ)直せ 春の雨 」

この句は、今までの孤独で貧乏で遺産を争っていた悪い面構えを直して、これからは清々しく暮らそうという決意の風情である。俳諧師としても一茶は全国的にその名が知られるようになり、多くの門人を抱えて俳諧師匠となった。


↑ ろくに働きもせずふらふら行脚しては夜鷹食いして梅毒まきちらして歯もなくて、、そんな義兄に自分が増やした財産半分持ってかれるのは確かに嫌すぎる。。



⚫︎ 若い妻の身体をむさぼる

生活の安定を得ると、待望の初めての妻・お菊を迎えた。一茶52歳。お菊は28歳。

お菊は近所付き合いもきちんとこなし、田畑を耕そうとしない一茶に代わって農作業に精を出し、一茶と犬猿の仲で確執があった継母のところにも農繁期は手伝いに出ている。

『七番日記』は、その日の天気や出来事などが記されていた一茶の生活の記録である。そこにはお菊との性行した日や、その回数までもが記されている。(気持ち悪っ)

例えば8月8日には「夜交合五回」。同12日「夜三交」。同16日~20日毎日「三交」。21日「隣旦飯 四交」と13日間で27回、性交を行なうなど、50代半ばにして、長かった独身生活を挽回するかのように新妻の身体を貪り続けられるのは、一茶が相当な精力絶倫男だったことの現れである。


↑ きっしょ! メモるなメモるな!

つか、畑仕事まったくせずにそれかい。



⚫︎ 梅毒のせいで子供が次々と死んでゆく

お菊は1815年、長男を出産する。だが生後28日で亡くなってしまった。その3年後、今度は長女を出産。だが長女も1歳で死んでしまう。

次に次男が生まれるが、生まれて10日後に一茶は雪道で転んで半身不随となり、生まれたばかりの次男と枕を並べることになる。(役立たず!)

翌年、その次男も死亡。三男が生まれるが翌年、妻お菊が死去。三男も同じ年に死んでしまう。最愛の妻は結婚9年目で亡くし、4人の子供は全員が虚弱で満2歳を迎えることなく夭折したのである。

妻の死因については、一茶に梅毒をうつされ、農作業と育児の過労に加えて、一茶の猛烈な性行為の繰り返しにより、衰弱して病気になり死亡したといわれている。

また、4人の子供の死因もまた、一茶から感染した菊の悪性の性病が、子供たちにも次々と母子感染したため、虚弱となり生後まもなく死んだとされる。


↑ 酷すぎて言葉も出ない。。

お菊さんが気の毒で泣けてくるわ。



⚫︎ 再婚と破綻、そして急死

菊の死後、一茶62歳の時、2人目の妻・雪(38歳)と再婚する。雪は一茶の大小便の後始末も厭わずよく働いた。だが、性交が大好きな一茶に毎日、しかも一日に何度もせがまれ、2か月足らずで破局。再婚の破綻直後、一茶はそのショックからか翌月、中風が再発、重い言語障害に陥った。

身体が不自由で、介護が必要な一茶に64歳の時、再再婚の話が持ち上がった。「やを」という女性である。やをは32歳だが10代の少年との間に私生児を生んでいたワケありの女だったが、65歳を迎えた一茶はやをを妻に迎え再再婚を果たす。だが、3度目の結婚生活も1年弱しか続かなかった。

俳諧の巡回指導から戻った一茶は急に気分が悪くなり横になると、その日の夕刻、急死。享年65歳。一茶は人間の一生を、こう詠っている。

「 盥(たらい)から 盥へうつる ちんぷんかんぷん 」

(生まれたら産湯の盥、死んだら湯灌の盥。その間の人が生きるという意味とは何なのか、それが分からないうちに人生は終わる)


↑ 半身不随で大小便の世話までさせてる状態なのに、性行は毎日何度も求めるって、、こっちがちんぷんかんぷんだわ!



⚫︎ エピローグ

並の人をはるかに上回る精力があった一茶が死んだ時、妻・やをは一茶の子を身籠っていた。同年、やをは一茶の次女を出産、一茶の没後、3番目の妻は幸せで安寧な日々を送り、74歳まで生きたという。

一茶の死後、その俳人としての名声は落ちることはなかった。死後間もなく、一茶を顕彰する句碑が建立されることになったとき、門人・旧友に広く費用の寄付を募る活動で、最も尽力したのは相続問題で争った弟の仙六だった。

明治時代になると「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」で知られる正岡子規らに賞賛され、松尾芭蕉、与謝蕪村とともに、小林一茶は江戸時代を代表する俳人として、いまも人々に親しまれている。


↑ いやいやいや。代表しないでほしいw

早めに死んでくれたおかげで、やをが幸せに暮らせたのは良かったけれど、お菊さんと子供らが浮かばれんわ。関わった人をことごとく憔悴させおって、一茶ほとんど悪霊みたいなもんでねぇか。弟も優しすぎるだろ。こんなやつ永遠に放り出しておけば被害者減らせたのに。

しかしま〜予想以上のゲス野郎で、ドン引きしながらも笑わせてもらいました。これだから俳人って人種は好きになれませんです。俳句をつくる以外の能力が低すぎません?ってゆーか人として何か欠落してません?

それで自分が貧困生活送るのは勝手ですけど、周りを巻き込まないでいただきたいものですな。この人の場合、家族にとんでもない迷惑かけまくっておきながら、

「 めでたさも 中くらいなり おらが春 」

(上を見ずほどほどのめでたさで新年を迎えたい)

って、おい。

いやいやアンタ実はすっごい優しくて我慢強い人たちに囲まれて、充分めでたいだろがよオメが春はよ!



⚫︎ 余談

こうなって来ると継母がやけに辛くあたったのも、もしかして一茶がエロガキで何かと気持ち悪い場面があったからなのでは?と想像してしまうのは私だけであろうか。(なんかもう絶対そうじゃんって気がするw)

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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