vol.56「江戸の園」について


さて「癒」に続いて「園」であります。

様々な芸能文化が発展した江戸時代。その中でも、目覚ましく発展したのが園芸です。将軍から一般庶民まで、今では想像できないぐらい人々は草花に高い関心を抱いていたようで、みんな競って、朝顔、菊、椿、蓮などの品種改良を行いました。そして次々に生まれる珍しい品種を、今では考えられないような高額な値段で売り買いしていたんですってさ。


また、植物の生態や様子を記録した図鑑や学術書も多く刊行されたり、一部の人々は園芸愛好会まで作ったりと、草花への熱はよほどだったよう。1860年、来日したイギリス人の植物学者であるロバート・フォーチュンは、当時の江戸を「世界一の園芸大国」と絶賛。江戸で栽培された草花は世界中に輸出され、高い評価を得ていたらしい。


ペットブームもさることながら、このガーデニングブームも気になるトピックなので、軽く掘り下げてみましょかね。てか天下泰平の世はいろんなもんが流行るわ流行るわで、調べること多っ!




● 江戸時代に園芸ブームが起きたワケ


二派に分かれ、花の美しさとその花を詠った和歌を競う優雅な「花合わせ」は平安時代から始まっている。けどこれ実は、花はあくまでも歌の題材を提供するだけで、和歌の優劣を競う「歌合わせ」が主目的であったんだとか。ところがどっこい、江戸時代には園芸文化が広まってきたこともあって「花合わせ」は文字通り純粋に花の優劣を競うものとなり、仲間内の品評会の役割を果たすようになった。


園芸植物の価値判断に権力は介入しなかった(できなかった)から、花の愛好者たちは独自の物差しで価値が決められることになる。それとともに、花が売買されるから園芸に携わる人々の収入となり、園芸で生活する階層も増加していった。その結果として、通常の花の色や形に飽き足らない「はぐれ者」が出てくる。これまでにない色や絞りの花や、異形や斑入りや筋が入った葉など、奇品・珍品を好む気風が強まり、それらに大金を投じるようなことが起こってくるわけだ


奇品の流行と園芸バブルについては、やはり「人とは違ったものを持って誇りたい」との気持ちを誰もが抱くのが要因であろう。18世紀以後の園芸ブームが、このような人間の欲望と結びついた、やや浮薄な様相を呈するようになったのは必然の成りゆきかもしれない。うーむ、人間ってやつは。。




● 江戸園芸のはじめの担い手は武士階級


そもそも、園芸文化の口火を切ったのは1st家康である。家康は武骨な印象とは裏腹に、こよなく花を愛で、2nd秀忠も同様、3rd家光もまた祖父や父に優るとも劣らずで、3代にわたってツバキに熱中した。将軍家がこの調子なので諸大名も追従せざるをえず、藩邸の広大な庭はさながら農場と化し、花卉(かき=観賞用に栽培する植物のこと)栽培とともに、野菜や薬草作りなども行われるようになる。


将軍家へ花を献上するばかりでなく、鉢や株を下賜されることもあり「これを枯らしてはお家の一大事じゃぞっ!」と、担当者の苦労は並大抵ではなかった(笑)。また、大名クラスでは、自慢の収集品を彩色図譜にまとめて出版したり、斑入りや変わり葉など、奇品珍品ばかりを集めるマニアックな殿様も現れることに。


中級以下の武士がこれに倣い、ついで富裕な町人層に、やがて路地裏の長屋の軒先にまで鉢植えが並ぶようになり、で、街中に天秤棒を担いだ花売りの声が流れるのが日常的な光景になってゆく。武家社会の間ですっかり根づいた園芸趣味は江戸ばかりにとどまらず、参勤交代で各地に伝播し、結果的に大名封じのこの制度が、園芸文化を全国に広めることになったのであった。




● 栽培技術の進歩を促した江戸の園芸マニアの情熱


園芸趣味が広がるにつれ、熱心な愛好家は単にきれいで栽培容易な種類では飽きたらず、変わり咲き、斑入り、矮小、捩れなどの奇品にまで熱狂的な視線が注がれるようになる。その情熱が、挿し木や接ぎ木、株分けによる増殖や、品種改良技術の飛躍的な進展を促し、アサガオの栽培に至っては、メンデルの遺伝の法則発見以前に、すでに経験と勘によりそれに則った方法で、種子をつけない突然変異体の維持も可能になっていた。なにその勘スゴイw


それに伴い、園芸書の出版が盛んになり、簡易な図入りの栽培解説書から植物分類、写実的で精巧な図鑑の類などが続々と世に出て、刊行は政情不安な幕末でも続けられた。巷間では、好事家(こうずか)が集まって品評会やら咲きぶりを競う花合せが盛んに行われ、また相撲を真似て番付までつくられるほど。当時の園芸界はきわめて民主的で、品評会への参加に身分の垣根はいっさいなく、判定にあたっても参加者により公平に行われたという。


一方、タチバナやオモト、マツバランなど「金生樹(かねのなるき)」といわれた奇品珍品の小鉢が、1鉢、数千万~1億円という常軌を逸した値段で取引される園芸バブルを招き、その過熱ぶりは奢侈を禁じた幕命で取締りの対象とされるほどであった。江戸後期、基本的に武士は困窮しており、内職として自宅で植木や花を栽培して売っていた者も少なくなかったわけで。特に旗本の次男、三男など、家を継げない武士が、高尚な趣味として一攫千金を狙って、せっせと栽培したもの頷ける。




● 文化的生活レベルを計る世界トップクラスの園芸事情


一般庶民が鉢を入手するのは、流しの植木屋や、縁日の露店、朝顔市やほおずき市のような社寺周辺で開かれる植木市。江戸後期になると、巣鴨や駒込一帯の植木屋ではパンフレットをつくって客を誘致、栽培農場はさながら見本市会場で、人々は行楽気分で出掛けた。


庭を持てない庶民のもう一つの楽しみは花見。早春のウメに始まり秋の紅葉まで、江戸近郊には四季それぞれの名所があり、ガイドブックまで出版されていた。当時の庶民層にまで浸透した園芸熱の高まりは、世界的にも例を見ない。


幕末に来日し、町中各所に鉢植えの並ぶ光景を目にしたイギリスの園芸家フォーチュンは、自国の園芸事情と比べて「花を愛でる国民性を、文化生活のレベルを計る尺度とすれば、日本の方がずっと優っている」と、その暮らしぶりに深く感じ入ったという。




● アサガオブームの火付け役は火事?


アサガオといえば、日本の代表的な花のひとつ。江戸時代までのアサガオは、まだ単純な円形で、色も青と白しかない素朴な花であった。それが赤やピンク、紫、また絞り模様なども咲かせる華やかな花になったのは、なんといっても江戸時代のアサガオブームの成果なのだ。


そんな、華やかなアサガオへと続く園芸ブームのきっかけを作ったのは、当時江戸を襲った大火であった。1806年3月4日、世に言う「文化3年の大火」によって、現在の御徒町あたりは更地と化してしまい、その跡地に、他の植物と一緒にアサガオを植えてみたところ、おもしろい形のアサガオがたくさん咲いたという


アサガオには元々突然変異しやすいという性質があるようで。普通の青くて丸いアサガオが、突然変わった花を咲かせる、なんてこともあるのだとか。珍しいものが大好きで、驚いたり驚かせたりするのも大好きな江戸っ子が、これに心を奪われぬはずがないってワケ。はじめは素朴な花で満足していた人々も、だんだん変わった形を追い求めるようになってゆき、その結果わずか数年で、下谷御徒町は見物客が大勢集まるようなアサガオの名所へと変貌を遂げたんと。


変化咲き朝顔の栽培は、効率を考えたらビジネスとしてはお話にもならない世界である。しかし、ここは江戸の「粋」の世界。愛好家たちは「とにかく変わった形のアサガオを作りたい」という一心で、手間暇を惜しまず情熱を燃やした。


ちなみに、これはアサガオに限ったことではないが、江戸時代の園芸植物の育成にあたっては、人工交配が一切行われていない。対して、欧米の品種改良では、古くから人工交配を行うのが普通。江戸時代のように全く人の手で交配をせずに、ここまで多種多様な品種を生み出した例は、極めて稀なのだそう。


変化咲き朝顔の専門書は、毎年相当数が出版され、その種類を確実に増やしていった。とんでもない手間と技術、そしてお金をかけて作り上げた自慢の変化咲き朝顔は、江戸や大坂の各地で開催されていたコンテスト「花合わせ」に出品された。が、一位になっても賞金は出ないので、完全に趣味の世界であるww


変化咲き朝顔の栽培は、勘と運に大きく左右される世界だが、当時の人々はある程度、特定の形を維持する方法を編み出していた。今日、日本の誇りと讃えられるアサガオは、メンデルの法則はおろか、受粉の仕組みさえ知らなかった江戸時代の人々の高い経験値と技術によって作られたらしい。




江戸時代に流行した園芸はアサガオのみならず、ツツジ、ツバキ、キク、オモトなど数多いが、中でもアサガオの種類の多さはケタ違いで、ここまで多彩な変化を遂げた植物はアサガオだけなんですって。


日本人は一度こだわり出すと、とことん追求してぶっちぎりトップレベルまで行っちゃいますからね。しかも自分らが1位だからって満足して辞めることなく、表彰台とか見向きもせずにズンズン進み続ける変な人種だと、つくづく思う。


江戸っ子らの「おもしろいこと」にかける強い情熱と根気、それこそ現代の私達が学ぶべき「粋」の心なのかもしれませんな。 んなっ。

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

こちらは一般社団法人「江戸町人文化芸術研究所」の公式WEBサイト「エドラボ」です。江戸時代に花開いた町人文化と芸術について学び、研究し、保存と承継をミッションに活動しています。